命芽吹く季節


 冬に降り積もった雪も消え、土も温かさを取り戻している。秋に収穫するための畑を耕していたユーリルは、突然現れた人ならざるものの気配にはっと顔を上げた。一瞬警戒心を抱くも村を訪れたのは見知ったものの気配だった。
「ユーリル様!」
 振り返ったユーリルが、いつにない格好のロザリーを見て目を丸くした。
「え、ロザリーさん? どうしたの、その格好」
 鍬を振るう手を止め、野良着の袖で額の汗を拭うユーリルの前で、ロザリーはくるりとターンして見せた。ワンピースは空色で、胸元と裾にレースがあしらってある。春とは言えまだ朝夕は冷え込むので、カーディガンを羽織っている。女の子らしい姿ではあるが、いつも豪奢なドレスを纏っているロザリーを予想して振り返ったユーリルには、いささか呆気に取られる格好ではあった。
 ロザリーは新しい服を着ている嬉しさを隠し切れずに、にこにこと微笑みながら言った。
「ピサロ様におねだりをして、買って頂いたんです。エンドールで今はやっている服なんでって。ミネアさんに見立てて頂いたんです」
「……へぇ、ピサロに。ええと……よく似合ってると思うよ」
「まぁ、ありがとうございます!」
 ロザリーがにこやかにそう言うと、後に従っていたピサロナイトが、手に提げていた似合わぬ籐の籠を差し出した。ユーリルは汚れた手を軽く服で拭い、籐の籠を受け取り、中を覗き込む。
「これは?」
「ああ、それは今日摘んだばかりの木苺と、それで作ったジャムですの」
 ロザリーは服を褒められた嬉しさににこにこと微笑んだままで言った。
「ロザリーヒルの近くに木苺の群生している場所があるので、村の魔物やドワーフ達と一緒に摘みに参りましたのよ。ピサロ様も一緒に来て下さって、本当にたくさんなっていたので、みんなでジャムを作ったんです。是非ユーリル様にも召し上がっていただきたくて」
「……ピサロが、木苺摘みに?」
 目を丸くしたユーリルに、はい、とロザリーは笑顔で頷く。
「執務を数日間お休みになっても差し障りないとかで、一昨日からロザリーヒルでお休みになっておられます」
「……そうなんだ」
 ほんの少し翳ったユーリルの声にも気付かないほど、ロザリーは上機嫌だった。
「そうなんです! それにこれからピサロ様に世界樹の木へ連れて行って頂けることになっているんですよ。世界樹の木はとても大きな木だと伺っていますけれど、実際に見たことがないんです。木に登って、どれほど遠くまで見渡せるか確かめてみたいと思って」
 心底嬉しそうなロザリーから顔を逸らすために、ユーリルは籠の中を覗き込んだ。瓶にたっぷりと詰まったルビー色の濃い木苺のジャムを光に透かし、綺麗だね、と微笑んでみせる。少しも表情が不自然にならないように気を付けて、ユーリルは笑顔を絶やさないロザリーを見た。
「今日は天気がいいから、きっと遠くまで見渡せると思うよ。楽しんできて」
「ええ、ありがとうございます! では、わたくしはこれで。今日はジャムと木苺を届けにきただけなので、失礼しますね」
「うん、気をつけて……」
 ロザリーがいつもより短いスカートをちょっぴり摘んでお辞儀をする。その一歩後ろではピサロナイトがいつものように甲冑をがしゃがしゃと鳴らしながらお辞儀をして、どこからともなくキメラの翼を取り出している。それをロザリーへ差し出し、ピサロナイトはもう一度ユーリルへ頭を下げた。
 礼儀正しい騎士に守られたロザリーは、キメラの翼を空高く投げると、ロザリーヒル、と声高に叫ぶ。その途端、頭上高くに舞い上がったキメラの翼が不思議な光を放ちながら落ち、一際眩しい光が辺りを照らした後には、もう誰もそこにはいなかった。
 ユーリルは残った籠の中を見下ろし、眉を寄せた。綺麗に洗ってある木苺を一粒摘み口に放ると、瑞々しい甘酸っぱさが口の中に広がった。鼻の奥がつんと痛んだような気がして、ユーリルは眉を寄せた。
「……仕事、休みだったんだ…」
 ロザリーが明るい笑顔で話していたことを、ユーリルは思い出した。
「……一昨日からロザリーヒルにいるなんて、知らなかったな…」
 執務が立て込んでいるからしばらくは忙しくなるだろう、と二週間ばかり前にデスパレスを訪れたユーリルに、ピサロは顰め面でそう言った。それは暗に、しばらくは城へ来るなと言う言葉だとユーリルは受け止めたので、じゃあ暇になったら村に遊びに来てよ、と言って執務室を後にしたのだ。ああ、解った、すまない、とピサロは忙しく羽ペンを羊皮紙に走らせながらそう答えた。
 あちらは大勢の魔族を束ねる魔王であるし、ユーリルには難解な上に厄介な仕事が山のように積みあがっている。ピサロのお世話係のホイミスライムは、それでもピサロは有能であるから部下任せにせず、責任を持って自分の執務をこなしていると言っていた。それを聞いて以来、ユーリルはピサロの仕事の邪魔をしてはいけないと思うようになったのだ。
 ピサロが忙しそうにしていたら、なるべくデスパレスからは出るようにしていたし、訪れないようにもしていた。だからこそ、暇になったら遊びに来て、と言っていたのだが、ピサロはそれを忘れてしまったのだろうか。
 ピサロは山奥の村でなく、ロザリーヒルへ足を運んでいた。
 ずんと胸の中に氷の塊が落ちたような気持ちで、ユーリルはまたひとつ木苺を摘んだ。
「……解ったって…言ってたのに」
 すん、と鼻を鳴らすと、ユーリルはごしごしと野良着の袖で目を擦った。
 ついさっきまではあんなに嬉しかった雲ひとつない晴天も、暖かな春の陽気も、作物が芽吹いたばかりの畑の世話も、なんだか全部が馬鹿らしく、億劫に思えてしまった。
 小屋に戻って不貞寝してしまおうか。それともモンバーバラに行ってマーニャやミネアに愚痴をぶつけてこようか、とユーリルが転がりそうな涙を堪えて考えていると、ふと知った気配が近付いてくるのに気付いた。
 驚いて振り返ると、村の入り口から黒衣に身を包んだピサロがやってくる。ユーリルは慌てて涙が零れた顔がピサロに見えないように、村の入り口に背を向けた。ユーリルが籠を抱えるように地面に直に腰を下ろしていると、側までやってきたピサロが少し笑う気配がした。
「後ろが隙だらけだな」
 背中から抱き込むように、ユーリルの背をピサロが抱きしめた。久しぶりに触れる暖かな温もりに、ユーリルは余計に目頭が熱くなるのを感じた。
 それに気付いたのか、ピサロがおかしそうに喉を振るわせる。
「どうした。いつになく大人しいな」
 背中にぴったりと添うぬくもりに、ユーリルはごしごしと瞼を擦り、自棄っぱちのように言った。
「ロザリーさんと出かけるんじゃないの? ロザリーさん、ピサロと一緒に世界樹の木に行くって、すっごく張り切ってたけど!」
 ああなんだか、こんな言い方じゃとても嫉妬深く思われる、とユーリルは顔を赤くした。それと同時に、頭の中も段々と混乱してくる。ロザリーは確かにピサロと世界樹の木へ出かけると喜んでいたし、今から行くようなことも言っていた。急いでキメラの翼を取り出して、早く戻らなければならないような様子だった。
 それだと言うのにピサロがこんな所にいてもいいのだろうか、とユーリルは不思議に思った。その心のうちを読んだかのように、ピサロがユーリルを抱きしめたままで答える。肩にピサロの顎が触れ、耳元に唇が寄せられる。久しぶりに感じるくすぐったさに、ユーリルは首を竦めるよりも、もっとずっと側で聞いていたいような気がしていた。
「世界樹の木は明日行くことになったのだ。木苺のジャムをサントハイムにも届けたいと言い出したのでな」
 ではロザリーがサントハイムに行くと言ったから、ピサロは山奥の村へ訪れたのだ。逆に言えば、ロザリーがそう言い出さなければ、ピサロは今日も村を訪れなかっただろう。
 ユーリルはなんだか情けないような気持ちになっていた。
 ロザリーの次だと言葉にせず言われているような気分だった。ロザリーと自分とを比べるなんて馬鹿らしいことだと、ずっと前にピサロに言われた事を思い出したけれど、どうしてもそうしてしまう自分の気持ちを止められはしなかった。
 エンドールで服を買ってもらったと喜んでいたロザリー。木苺を一緒に摘みに行ったのだと嬉しそうに言ったロザリー。一昨日からロザリーヒルを訪れていたピサロ。そして世界樹の木へ出かける予定のある二人。
 自分は何ひとつ知らず、人里離れた場所で世捨て人のような暮らしをしている。それをが望んだこととは言え、今はユーリルにとってそれは無償に腹立たしいことだった。
「ふ、服を買ってもらったって、喜んでた」
「ああ…人間の女どもが着るようなものが欲しいと言い出したのでな」
「一昨日から、ロザリーヒルにいるって」
「仕事が一段落したのだ。しばらく訪れていなかったと思い出した。どうした? 何を不貞腐れている」
「し、仕事が暇になったら、村にきてって言ったのに!」
 静かに、そして不思議そうに尋ねるピサロの声音に、ユーリルはわーっと押し寄せてくる感情を抑え切れなかった。目が熱くなって、ぼろぼろと涙が零れる。泣きたいわけでもなく、怒鳴りたいわけでもない。ただ、いつものように、ピサロがロザリーを大事にすることも暖かく容認するような態度を装いたかったのに、すべてが失敗だった。
「なのに、一昨日から、ロザリーヒルにいるって! 俺、ちっともそんなの知らなかった! エンドールに買い物に行って、ロザリーさんに服買ったりして、俺なんか何も貰ったことない! 世界樹の木に出かける約束して、お、俺のが先に約束してたのに! 出かける約束じゃないけど、暇になったら村にきてくれるって、約束してたのに!」
 零れる涙は引っ込みがつかず、口から飛び出す言葉も留めようがなかった。
 背を抱くピサロが驚いたような仕草で身体をほんの少し離す。それさえも悲しくて、ユーリルは野良着の薄汚れた袖を目に押し当てた。
「いいよ、ピサロなんか好きにしたらいい! ロザリーさんとどこだって行けばいい! もうここになんかこなくていい! どうせ、ピサロは、俺の言う事なんかちっとも覚えてないんだ!」
 こんなこと言いたいんじゃない、とユーリルは悲しくなった。ぐずぐずと鼻を啜り、溢れる涙を必死で野良着の袖で押さえていると、頭のてっぺんに柔らかな感触が触れた。
「すまん」
 くすぐるように頭のてっぺんで囁かれる言葉に、触れたのがくちづけだとようやく思い当たった。ピサロはもう一度ユーリルをしっかりと抱きしめると、ユーリルの耳に唇を寄せた。
「村を訪れる約束は、忘れていた」
 やっぱり、としゃくり上げ、ユーリルは余計に惨めさを味わった。
「明日には訪れようとは思っていたのだが…先にすべきだったな」
 あやすような言葉に、ユーリルは唇を噛み締めた。なんだか自分が、思い通りにならずに暴れまわる子供のように思え、気恥ずかしさを味わった。
「確かに、貴様には何もやったことなどないな。何も欲しがらなかったから、そう言うものに興味がないのかと思っていたが……何か欲しい物があったのか?」
 穏かで優しげな口調に、ユーリルはぎゅっと胸元を掴んだ。そしてぶるぶると首を横に振る。
「いい、いらない。何もほしくない」
「だが」
「だって、もらっても、何も返せない」
 ユーリルは汚れた自分の野良着を見下ろした。
「お、俺は、お金なんて持ってないから、ピサロに何も上げられない。俺は貰ってばっかりなんて嫌だ。ピサロに何か貰ったんなら、俺だってピサロに何かあげたい。俺は、ピサロとずっと対等でいたいんだ。でも、できないから、いらない」
 ユーリルの言葉をずっと聞いていたピサロは、途端におかしそうに笑い声を滲ませた。ユーリルは顔を真っ赤にして振り返り、愉快そうなピサロを睨みつけた。
「何が可笑しいんだよ!」
「私と貴様との関係は、物々交換でしか成り立たぬものなのか?」
「…は?」
 おかしそうに笑みを浮べたままのピサロに、ユーリルは目を瞬く。それへピサロは笑い声を滲ませた声で言った。
「私が貴様に何かを貰う、すると私は貴様に何かをやらねばならぬ」
「え、違う…別に、何か貰いたいわけじゃ……」
「だが、そうだとしたら、私は一体貴様にどれほどの物をやればよいのだろうな」
 振り返ったユーリルの赤い目尻に、ピサロの指先が触れる。何度か撫でるその仕草が優しく、ユーリルは目を見張っていた。
「私は、貴様からいくつもの物を奪った。返そうと思ったら、この命を投げ出しても足らぬだろう」
 見下ろす静かな眼差しが言う、いくつもの奪ったものと言うのが一体何を差すのか、ユーリルとて解っていた。
 だが、今更それを蒸し返そうとは思わなかった。確かにピサロに奪われた数多くの尊いものは返らないし、それを思えばこうしてピサロと寄り添うことを後ろめたく思うけれど、ユーリルはピサロと手を繋ぐこと、心を繋ぐことに後悔はなかった。
 ユーリルは見下ろすピサロの赤い瞳からふいと目を逸らし、両手を伸ばした。土に汚れた手だけれども、それに触れられることにピサロが厭うたことなど一度もない。綺麗な髪や服が汚れるのに、彼は少しも構わない。ユーリルは自分と同じ鼓動を繰り返す胸に頬を寄せ、目を閉じた。
 暖かいぬくもりに、涙が乾きぱりぱりした頬がやんわりと温まる。
「じゃあ、ピサロの命を頂戴」
 一瞬詰められた息が、すぐにゆるりと吐き出される。髪に触れる大きな手のひらが、幾度か頭を撫でた。背を引き寄せる手、抱きしめる腕、そして頬に触れ直接胸に響くような鼓動。このすべてが自分のものなら、とユーリルは頬を摺り寄せた。
 無理なことばかりを夢見ては、無理だと思いながら諦めて、だけど結局それが欲しくて、手に入らないことを涙する。
 ピサロの命が、ピサロ自身が、自分のものになるなど有り得ない。
 ピサロの手は自分以外の誰かに触れるし、ロザリーを抱きもする。唇も彼女に触れるだろう。この鼓動も、きっと彼女は耳にする。
 いつだって諦めているのに、いつだって諦めきれないのだ。
 溢れた涙を誤魔化そうとしたユーリルの頭に、ピサロのくちづけが落ちた。
「……私の命などで良いのなら、いくらでも貴様にくれてやる」
 驚いて顔を上げるユーリルの目に、ピサロのくちづけが落ちた。ひどく穏かに微笑むピサロに、ユーリルは瞬きすらできずにいた。それへ、ピサロがまたくちづけをする。そして秘め事を明かすかのように静かに、密やかに囁いた。
「貴様を愛しいと思う気持ち以外ならば、すべて貴様の好きにするといい」
「………お、れを……愛しいと思う…気持ち?」
「それだけは私のものだ」
 額に触れる唇の優しさに、ユーリルは瞼を閉じた。溢れて止まらない涙を、ピサロの肩に押し付けて誤魔化した。抱きしめる腕も、身体に触れるすべても、そして繰り返す呼吸すらも、ピサロはユーリルの好きにしていいと言う。
 嘘かまことか、ほんの口先だけの戯れかもしれない。
 だがユーリルは、それを真実だと思い込んだ。ピサロの本心から告げられた言葉だと、信じきった。
 そうすれば、その言葉だけで、生きてゆける。
 不器用な笑顔にくちづけが降り、指先が絡まる。そして、鼓動が重なる。
 暖かな温もりに包まれたまま、しばらくこのままで、と願えば、それはすぐにも叶えられる。
 ユーリルはピサロを抱きしめた。腕の中で鼓動と呼吸とが繰り返される。暖かな気持ちが胸に満ちる。
 命の芽吹く、春のことだった。

 繭さんちのお題『後ろから抱きしめる』を見て、わーっと頭の中に浮かんできた。ので書いてみました。てへv 文中の台詞の一部は繭さんちから(勝手に)拝借。さらに(勝手に)繭さんにこの小説もお捧げしてしまいま〜す。いつもイラスト頂いてるので……って、お礼代わりにもならんけども(笑)。
 ちなみに補足。うちのピーは意気地なしのどうしようもない男ですが、同時に二人の人を大事にできる甲斐性のある男ではあるんです(笑)。なので、ユーリルとロザリーとどちらも大切に思っているんですが、その思ってる形はちょっと違うんです。ロザリーは真綿に包んで傷つけないように大事にしているけれど、ユーリルはユーリルの思うがままに生きて欲しいので良く言えば放任主義。ユーリルの方がロザリーよりも自立してますしね(笑)。でもピーはロザリーのために死んでもいいとは思ってません。なぜならロザリーの前にいる時は『魔族の王ピサロ』であるから。王であってこそロザリーを養っていけるので、王である事を放棄できないんです。だけどユーリルのためなら命を捨てても惜しくはないと思ってます。ユーリルの前にいる時は、『魔族の王』という肩書きのないただのピサロだから。王であってもユーリルを大事にできるけど、王でなくともユーリルを大事にできる。ユーリルが王位を捨てろと言えば捨てるだろうし、死ねと言えば死ぬでしょう。その差ですな。これは例の悲恋シリーズのピーにも当てはまるので、誰が本命かと言う質問にはこれが答えになるのではなかろうかと(笑)。思うのですがどうでしょう(笑)?