ヨメとコイビトの相違点


 ヒルダが購買に行くと言うのでベル坊を預かった古市は、膝の上に素っ裸の赤ん坊を乗せたまま弁当を広げていた。前の席の男鹿はすでに身体だけ振り向き、持ってきたパンをもしゃもしゃと食べている。古市も大抵パンやおにぎりで済ますのだけれど、今日はほのかの遠足があるので弁当を作ってもらえたのだ。
「食うか?」
 男鹿の好きなコロッケが入っているのを見て、ひとつ箸で摘んで差し出すと、んあ、と男鹿が必要以上に大きく口を開く。そこへぽいとコロッケを放り入れてやり、古市は自分の口にもコロッケを運んだ。どうせ男鹿と一緒に弁当を食べることになると解っている古市の母親は、古市一人では到底食べ切れない量を弁当箱に詰め込んでいる。箸ももう一膳入っていたので、男鹿に渡してやると、男鹿はさっそくもうひとつのコロッケに箸を突き刺した。
「コロッケばっかり食うなよ」
 どうせ野菜が後回しにされて、結局古市の口にすべて入ることになるのだが、一応そう釘を刺しておくと、おう、ととても聞いていないような声で男鹿が返事をする。パンよりも弁当を優先するようで、食べかけのパンは机の上に置かれたままだ。
 古市がタコさんウィンナーをつまみ上げた時、膝の上のベル坊が興味津々の様子で手を伸ばした。
「こらこらベル坊、駄目だろ、悪戯しちゃ」
「ぶーっ! ダッ!」
「ああ、タコさんウィンナーが欲しいのか?」
「アダッ!」
「でもなぁ、これ油で炒めてるし、ベル坊は離乳食もまだだからなぁ」
「しゃぶるだけならいいんじゃねぇか?」
 タコさんウィンナーを掴もうと手を伸ばすベル坊から弁当箱を遠ざけると、自分に差し出されたと思ったのか、男鹿がタコさんウィンナーを頬張った。
「うめぇぞ?」
「だー…」
 聊かショックを受けた様子のベル坊を、あいつはひどい親だなぁ、と宥め、膝を揺すりながら、古市は弁当箱をベル坊からも男鹿からも遠ざける。
「油で炒めてるから駄目だろ、赤ん坊には。果物とかならいいかもしんねぇけど……あそだ、男鹿。そっちのタッパ開けて」
「おー」
 保冷バッグに入っている青いタッパを指差し、ちょっと待ってろよ〜、と涙目のベル坊をあやしていると、男鹿が箸を咥えたままで開けたタッパを覗き、おっ、と目を輝かせる。
「うさリンだ」
 古市の母親はほのかが遠足に持って行く弁当には必ずウサギの形に切ったリンゴ、通称うさリン(男鹿命名)を入れる。赤い皮を耳の形に切り、目の部分を爪楊枝で穴を開けると不思議とウサギに見える。
 古市はうさリンをひとつ取ると、ベル坊の手に握らせてやった。
「ほらベル坊、ウサギさんだぞ〜」
「アダー!」
 タコさんウィンナーへの執着はどこへ行ったのか、うさリンに歓声を上げたベル坊が、目をキラキラさせながら手の中のうさリンに夢中になっている。
 魔王だなんだといいながら、こういうところはやっぱり赤ん坊なんだなぁ、と古市がのほほんとした時、ベル坊が喜色満面の笑みで、ウサギの耳の部分をばりっと引き剥がした。
「ウィー!」
 ウサギの耳の片方は引きちぎられ、まるで血のように薄い皮だけがうっすら残った頭の部分が憐れだ。
「ウィイイー!」
 ベル坊の興奮の度合いは増し、残っていたもう片方の耳も引きちぎられた。小さな赤ん坊の手で、ブチッと、情け容赦なく。
「ウィウィイイー!」
「………いや、うん、だよね、魔王だもんね」
 どうだ、とウサギの耳だった残骸を見せるベル坊に、古市は生温い笑みを浮かべてみせる。
 てことはアレか。
 タコさんウィンナーを欲しがったのは、足を一本一本毟り取るためか。
 膝の上の赤ん坊が一般のお子様の枠に当てはまらないことを改めて思い知り、古市はなんだかしょっぱい気持ちになっている傍らで、男鹿は呑気にベル坊の頭をがしがしと撫でている。
「すげーな、ベル坊」
「ウィー!」
「いや、褒めんなよ、男鹿。ウサギさんだぞウサギさん! ウサギさんの耳をブチッと!」
 古市の抗議に男鹿がきょとんと目を丸くする。
「なんでだ? だってあの尖ったとこ、口ん中で痛ェじゃねーか」
「いやまぁそりゃそうだけどよ。可哀相だろうが、ウサギさんが」
「どうせ食うんだから一緒だろ。よし、ベル坊、もっとやれ」
「ダーッ!」
 男鹿がタッパをベル坊の前に押しやり、ベル坊は興奮しきった様子でウサギ狩りを始める。ブッチブッチと千切れていく耳が、辺りに散らばるのがなんとも憐れだ。まさか古市の母親も苦労して切ったウサギの耳がこんなことになるとは思っていなかっただろう。
「いやいや、そうじゃねーだろ、男鹿! 食いモンを玩具にすんなつってんだ!」
「あー? いいじゃねぇか、ちょっとくらい。だってどうせ食うし」
「そう言う事を言ってるんじゃねぇって! 教育上良くねーって言ってんだよ!」
 古市が箸を握り締めてぎゃいぎゃいと喚くと、うるせーな、と男鹿が珍しくブロッコリーを齧る。自発的に野菜を口にするなんて珍しいと思っていると、もりもりブロッコリーを咀嚼した男鹿が、うめぇぞこれ、とブロッコリーを見下ろしている。
「なんかいつものと違うな」
「あー、ブロッコリーにかかってるドレッシングがいつもと違うやつなんだよ。こないだ生協で新しいのが出てたって母さんが言ってた……ってそうじゃなくて、食いモンを玩具にすんなつーことを俺は言ってんだよ!」
「あれー、また喧嘩してんのー? 相変わらず仲いいねぇ」
 上から降ってきた声に古市は、男鹿に喚いていた口を閉じて顔を上げると、こちらも購買へ行っていたらしい夏目が、長い前髪をかきあげていつもの曖昧な笑みを浮かべている。
 どうやら古市のぎゃんぎゃんと喚く声を、うるせー、と思っていたのは男鹿だけではないようで、窓際では神崎が顔を顰めているし、邦枝の周りでは寧々が眉間に皺を寄せている。神崎と一緒に窓際に陣取っている姫川は、なんだか面白そうにニヤニヤ笑って古市たちを見ているが、策士姫川が何を考えているのかは理解不能だ。
「今度はなんで喧嘩してんの?」
「あ? してねぇよ、喧嘩なんて」
 どっか行け、と男鹿が言外に告げ、古市の膝の上ではベル坊が、ダッ、と耳の取れたウサギを突き出してみせる。
「あれぇ、うさぎのリンゴじゃん。なに? くれんの?」
 耳取れてるけど、と笑う夏目に、くれてやろう、とばかりにベル坊が頷く。ありがと、と受け取った夏目に、古市は申し訳ない気持ちで謝った。
「すみません、夏目先輩。それ、ベル坊が耳取っちゃって……」
「ああ、やっぱり? 俺も子どもの頃よく耳ちぎって遊んでたんだよねぇ。母親には食いモンで遊ぶなって怒られたけど」
 その瞬間、ブハッと姫川が吹き出した。ボリュームのありすぎるリーゼントを揺らしながらげらげらと笑い、神崎に気持ち悪そうな顔をして見られている。
「どーしたの、姫ちゃん?」
 きょとんと目を丸くする夏目に、姫川はヒーヒー笑いながら、古市を指差した。
「古市、お前、それじゃ母親と同じじゃねーか、そいつの」
 そこに至ってようやく、古市も姫川の言いたいことを理解した。ボッと頬に血がのぼり顔が真っ赤になる。男鹿が、おっ顔がタコみてぇだぞ、と余計なことを言うのを、黙らっしゃい、と殴り飛ばした後、慌てて姫川に向かう。
「いやだって教育上良くないでしょ、赤ん坊には!」
「あー、そだねー。うちの母親も言ってたよ」
 夏目がのほほんと笑いつつそう言うので、姫川の笑いの発作が収まらない。何がおもしれーんだ、と神崎は冷静にヨーグルッチにストローを刺しているが、側にいる城山はぐっと眉間に力をこめている。唇が震えているので笑うのを我慢しているのだろう。
「なんかよー、古市。お前、あのゴスロリ姉ちゃんよりよっぽどヨメっぽいな。さっき男鹿にコロッケ食わせてたし。新婚みてぇ」
 ククッと笑い声を滲ませた姫川の言葉に、一瞬のち、古市の顔は今までと比較できないほど真っ赤になった。身体中の血がすべて顔に集まったのではないかと思うほどで、見上げたベル坊がぎょっとしたほどだ。
「いやっ、うぇっ? それはっ、ちがっ……」
「うお、古市、顔がタコみてーだぞ。つかタコどころじゃねーぞ」
 風邪でもひいたのか、とぺたりと男鹿の手が古市の額に触れる。古市に殴り飛ばされた頬には痣ひとつない。頑丈な男鹿を恨めしく思いながら古市が、そちらをぎろりと睨むと、男鹿がひゅっと息を飲んだ。
 赤い顔に、涙の浮いた目。羞恥に視線を揺らすその様は、男鹿の情欲を沸き起こすには充分だ。ごくっと飲んだ息は幸いにして誰にも気付かれることはなかったが、古市には解った。
 あ、こいつ今、俺を見て盛ってる、と見上げる古市を、男鹿が真剣な眼差しで見下ろしている。熱と色を孕んだ視線の交わる様に、おや、と夏目は目を瞬いた。傍らで姫川も、ん、と眉を寄せている。
「姫ちゃん、それ、案外的外れじゃないんじゃない?」
 ぽそりと呟く言葉に、そーかもな、と姫川は頷いた。
 ぼーっとしている男鹿を古市をネタにからかうのは面白いが、本気の男鹿をからかうのは命がけだ。折角退院したばかりで、実は本調子ではないのでこれ以上怪我をしたくはない。怪我ばかりは金を積んでも早く治るわけではないのは姫川もよく解っている。
 今ひとつ理解していない神崎が、ヨーグルッチを啜った後、隣の教室にまで響き渡るような大声を上げた。
「てことはなんだ? オガヨメっつーのは古市のことだったのか?」
 ぎゃっと古市が再び飛び上がり、神崎に向かってぶんぶん首を振っている。
「ちちちちちち違いますよっ! 俺っ、女の子大好きなんでっ! 何が哀しくてこんなむさくるしい男の嫁になんか…っ!」
「おー、違うぞ。古市は俺のヨメじゃねぇ」
 男鹿も腕を組み、どうだとばかりに頷いているのを、古市がぱぁっと輝く眼差しで見上げる。よし言ってやれっ、と叫ぶ古市に、男鹿がにこやかな笑顔で告げた。
「古市は俺のコイビトだ!」
 ぼたっと神崎の手からヨーグルッチが落ち、城山がぷっと吹き出した。夏目と姫川は生温い眼差しで、あー、と声を上げて古市を見やり、邦枝の手からはがしゃんと箸が落ちる。
「なにごとだ?」
 しんと静まり返った教室にタイミングよく購買からヒルダが戻ってくる。手には牛乳があり、ベル坊のために購買まで足を運んでいたのだと知れた。それもそうだ。ヒルダはベル坊のため以外には動かない。
「ヒ、ヒルダさん…」
「どうした。化け物を見るような目をして」
 ベル坊を膝の上に乗せた古市が縋る眼差しをしているのに気付くと、ヒルダが首を傾げる。ヒルダが持つ牛乳に気付いたベル坊が、それをくれと手を伸ばすと、さぁどうぞ坊ちゃま、と蕩けるような笑みを浮かべ、うやうやしく牛乳を差し出した。
「で、なにごとだ?」
 あくまで高飛車なヒルダに尋ねられ、おう、と男鹿が晴れやかな笑顔で答える。
「あいつらが古市が俺のヨメじゃねぇかって言うから、古市はコイビトだって教えてやったんだ」
「ほう、そうか」
「いやいやいやいやっ! 全力で否定してくださいよ、ヒルダさんっ! そこは、否定してくださいっ!」
「あ、違うんだ。そっか、そうよね、違うわよね…」
 ホッとしたような邦枝の言葉も古市の耳には届かない。
 古市がぶぶぶぶぶぶと高速の勢いで首を横に振り、膝の上に抱えられていたベル坊も一緒にぶぶぶぶぶと揺れている。なんだか楽しそうにしているので問題がないと見てとったヒルダは、ふふんと笑みを浮かべた。
「何を否定しろと言うのだ、古市。毎晩あのように乳繰り合っておいて、今更恋人ではないとシラを切るつもりか。ああ、それともセフレのつもりであったのか? だとしたら古市、貴様、相当の淫乱者だな」
「はいぃいいい?」
「そうだろう? あれほど好きだの愛しているだのと言う男鹿を弄んでおるのだから、悪魔よりも質が悪い」
「いやいやいやいやいやっ、ヒルダさん! ちょっと! 誤解を招くような言い方止めてもらえませんかっ! 俺っ、別に弄んでるわけじゃ!」
「そうだぞ、ヒルダ!」
 もはや泣き出す寸前の古市とは対照的に、やけに自信満々の男鹿が胸を張って言った。
「俺は弄ばれてるわけじゃねぇぞ! ちゃんと俺たちはアイシアッテルからな!」
 なっ、と男鹿に同意を求められた古市はぷるぷる震えていたが、やがて、うわぁああああんっ、男鹿のばかぁあああああっ、と大声で泣きながら古市は腕に抱いたベル坊ごと教室を飛び出していった。
「あっ、坊ちゃま…!」
 止めようと伸ばしたヒルダの手も空しく宙を掻く。焦ったのは男鹿だ。逃げ足だけは速い古市がベル坊を連れて行ってしまっては冗談でなく死に至る。
「こら待て古市ぃいい! 俺を置いていくなぁあああ!」
 教室の机をなぎ倒し、古市のあとを必死の形相で追いかける男鹿を、神崎はぽかんとした顔で見送り、夏目は、ああ、だよね…、と妙に達観した気持ちになった。そんな夏目を振り仰ぎ、姫川がうすら笑いを浮かべて尋ねた。
「ヨメとコイビトって……あいつらにとっちゃ大した違いはねぇんじゃねぇのか? アイシアッテんだろ?」
「ああ…うん、多分そーね。あ、このリンゴうまい」
 しゃくっと耳のとれたうさリンを咀嚼し、夏目は生温い笑みを浮かべる。
 姫川と夏目の会話が聞こえていた邦枝は真っ白になり、姐さぁああんっ、と叫ぶ寧々に揺さぶられていたが我に返る兆しはない。
 ヒルダは残された弁当を見下ろし、ふむ、と耳の取れたウサギを摘み上げた。誰が耳を取ったのかは考えなくとも解る。
 さすが坊ちゃま、よいお仕事をなさる…、と恍惚の笑みを浮かべるヒルダを城山だけが不気味なものを見る眼差しで眺めていた。


夏目先輩と姫ちゃんが好きです。夏目先輩が石矢魔でピカイチのイケメンだと思ってたのに、上には上がいるってどういう石矢魔クオリティ。
夏目先輩と姫ちゃんはおがふる夫妻を生温い眼差しで眺めているのが良いと思います。神崎君はおがふる夫妻のラブっぷりについていけないといいよ。そう言う常識人な神崎君が大好きだよ。