山羊、拾いました
祭壇に捧げられた供物を前に、男鹿はがくんと顎が外れるような心地を味わっていた。実際、ぽかんと口を開いて供物を見下ろしていた。男鹿を祭壇まで運んできたアクババも、トリに可能な範囲で珍妙な顔をして珍妙な供物を眺めている。
男鹿に捧げられた供物、つまり生贄は、生贄らしからぬ姿をしていた。
年のころは三つか四つ。純粋な悪魔であるのなら必ずしも年齢は外見と比例するものではないが、警戒心のなさに恐らくそれくらいだろうと判断する。
がりがりに痩せた腕に、とても一人では立てそうにもない細い脚。頭から爪先まで泥に汚れ、元の色が何色だったのか解らない。ぼろ布か服かの判断も難しい布きれを腰に巻き、ひょこんと出た尻尾がかろうじてこの供物が悪魔なのだと教えていた。
見るからに貧相なその供物は間違いなく男鹿に捧げられたものであるはずなのに、近付く男鹿に怯えもしない。それどころか、これもまた男鹿に捧げられたはずの果物を両手に持ち、口のまわりをどろどろに汚しながらむしゃぶりついている。
「……なんだテメェ」
呆気にとられる男鹿に、供物は顔を上げ、ガラス玉のように透き通る目でじっと男鹿を見詰めていたかと思うと、急ににぱっと笑った。
「お前が男鹿?」
あどけない声で供物に尋ねられ、男鹿は思わず足を引いた。供物に声をかけられたことなど初めて、そうでなくとも怯えずに話しかけられたことなどあった試しがない。今まで男鹿に捧げられた供物は、諦めきって我が身を嘆いているか、泣き喚いて助けを乞うかのどちらかだったのだ。
供物は男鹿が呆気に取られて答えられずにいると、あれ、と首を傾げた。
「もしかして男鹿じゃない? あれ、おれ、場所間違えた?」
おかしいな、ここだと思ったんだけどなぁ、と供物はぼろ布、もとい、腰布に手を突っ込んでよれよれの紙切れを引っ張り出している。
「あー、俺が男鹿だ。で、テメェはなんなんだ?」
「あ、やっぱ男鹿かー! よかった、間違えてなくて! おれ、いけにえ! お前の友達になってやる!」
がりがりの足を投げ出したまま、顔中を泥と果物の汁で汚し、供物はにぱっと邪気なく笑う。
「いや……つか、おれ、いけにえって……底抜けに明るいな。いやいやいや、ちょっと待て、おかしいだろ。あー、そこのいけにえくん。お前は生贄なんだよな?」
男鹿の生贄感をことごとく崩してくれるこの貧相な供物に指を突きつけると、供物はきっぱりはっきりと自信満々に頷いた。
「うん、おれ、いけにえ!」
「で、なんで俺の友達になろーとしてんだよ」
「え、だって友達になりにきたんだもん」
「いやいやいやいや、おかしいだろ、それ。お前、低級悪魔だろ。つか生贄悪魔だろ。いや、そもそも悪魔なのか? 尻尾はあるみてーだが」
ひょいと足を掴んで空中でひっくり返し、申し訳程度に腰を覆うぼろ布をぺろんと捲ってみると、身体同様に貧相な尻尾がぴょこんと動く。ついでに同じく貧相な前も見えてしまったので、思わずぽいと放り投げた。ぼてっと祭壇に落ちた供物が、ぶつけた尻をさすり立ち上がる。そして憤慨したように頭を付きだした。
「なにすんだよーもお! おれ、悪魔だもん! 立派ないけにえあくまなんだからな!」
「尻尾だけじゃねぇか。しかも生贄悪魔だっつーのになんだこのスカッスカの身体は。食いでがねぇだろ。魔力もほとんどねぇし。食ったとこで腹も膨れねぇ」
更に言えば怯えない生贄悪魔などなんの面白みもない。
悪魔が生贄を食らうとき、生贄の浮かべる恐怖の表情は最高のスパイスだ。こんなに底抜けの笑顔で見上げられたところで、食う気が失せるだけだ。
「でもおれ、いけにえあくまだもん! 角もあるんだ! ほらっ!」
ぐいっと突き出された頭は泥で汚れてごわごわになっている。この辺にあるよ、と自分の頭をまさぐる供物が、あった、と嬉しそうに笑って耳の少し上辺りを押えて見せる。
「ここにある、角、ほら」
「どれどれ?」
本当に悪魔なのかと疑りつつ、供物の示す場所へ手を突っ込めば、確かに地肌とは違う固い感触の何か指が触れる。
「……これ、角か? たんこぶじゃねーのか?」
「違う! 角だもん! おれ、山羊だから。えと、バ、バ、バフォメット…? の、一族なの」
「はー? 嘘つけ。生贄悪魔だろーが」
バフォメットと言えば山羊の姿で祀られることが多い。人間界でも有名なかなりの上級悪魔だ。一方の生贄悪魔は、侍女悪魔が生まれる前から仕える主君が決まっており、その主君のためだけに生まれる悪魔であるように、生贄にされるためだけに生まれてくる悪魔だ。
生贄を捧げられた悪魔の力を増やし、高めるための増強剤のようなものだ。
かなりの下級悪魔で、バフォメットとは比べようもない。
バフォメットの一族であるのなら、どんな末席であろうとも生贄になんかされるはずもない。こいつ相当頭悪ィな、と男鹿が呆れていると、供物は少し困ったように首を傾げた。
「おれ、かすだから」
「あん?」
「えと、残りかすだから魔力とかないんだって。失敗作? みたいなこと言ってたなぁ。バフォメットの一族の山羊だけど、強くないからいけにえにするんだって。えと、本当は男鹿のところにはもっといいいけにえがくるはずだったんだけど、ナーガ? とかって人が持ってっちゃったんだ。お爺のとこに、他にいけにえあくまいなかったから、俺が代わりにきたんだ」
「ナーガ? あんにゃろ、またか!」
魔界にも派閥争いはある。
特に男鹿は元が人間だったので、いわゆる成り上がり悪魔だ。それが力をつけて上級悪魔にまでのし上がってきたので、最初から上級悪魔に生まれ、しかも貴族の出であるナーガには気に食わないらしい。しかもナーガが仕える焔王と、男鹿が仕えるベルゼバブ四世とが兄弟で、本人らの意志とは関係なく跡取り争いが勃発しているので尚更だ。
男鹿に捧げられるはずの生贄悪魔がナーガにかっさらわれたことなど数知れない。逆にかっさらってやったこともあるが、ナーガに捧げられるはずだった生贄悪魔はえらく美味で男鹿は差を見せつけられたようで不愉快だった。
それはともかく、生贄悪魔を世話する爺は他に適当な生贄悪魔がいないからと言う理由で残りかすのこの供物を送り込んできたらしい。
この身体の発育も脳の成長もいまいちで、生贄悪魔として残念極まりないこの供物を。
いい度胸だ。今度見せしめに爺が世話する生贄悪魔を片端からかっ食らってやる。
男鹿がにたりと凶悪な笑みを浮かべると、残念極まりない供物は男鹿の凶悪な笑みをものともせずににこりと笑った。
「おれ、ちゃんといけにえあくまの仕事知ってるから、残りかすだけどがんばる! 男鹿の友達になればいいんだよね?」
「だから、なんで友達なんだよ。テメェはこれから俺に食われるんだよッ! 頭からバリバリ食って魔力の足しにすんだよ!」
「え、食べちゃうの?」
ここにきてようやくショックを受けたように、愕然と肩を落とす供物の姿をまじまじと見直し、いや…、と男鹿は眉を寄せた。
「……食っても腹膨れそうにねぇな、テメェは。魔力もねぇし、本当にマジで残りかすだな。とりあえず……太らせてから食うか?」
グェと賛同するように、すっかり存在を忘れていたアクババが頷き声を上げた。そうすっか、と男鹿は頷いたが、供物の方はアクババの声に驚き飛び上がり、男鹿の足にひっしとしがみついた。
「なにそれ、なにそのでかいの!」
真っ青になってぶるぶる震え、男鹿の足の影に隠れてアクババを警戒する供物に、男鹿はぼりぼりと頭を掻いた。
「あー? アクババ知らねーのか? ふつーに飛んでんだろ」
「こ、こんな近くで見たの初めてだし……。か、噛む? そいつ、噛む?」
「噛みはしねーが……」
男鹿はふと思いついてにたりと笑う。
さっきまで上級悪魔の男鹿を恐れもしなかった供物の怯えっぷりに、悪魔の心が刺激され、もっとやったれ、と言う気分になったのだ。
「テメェみてなちっこい残りかす、餌と間違えてぱくっと食っちまうかもしんねぇな」
供物はヒッと息を飲み、男鹿の足にしがみついたままぷるぷると震え始めた。けれど泣いてはいけないと本能で察しているのか、目にびっしょりと涙を浮かせつつも歯を食いしばっている。
ふと、男鹿は奇妙な感覚に囚われた。
どこか、遠い遠いどこかで、見たことのあるような光景だ。
懐かしいような、胸のあたりがうずくような、そんな心地は悪魔になってからついぞ味わったことがない。
気付くと手が供物の頭を撫でていた。
ほっとしたように息を吐く供物の安堵のその表情にも男鹿は既視感を抱く。
「おい」
泥に汚れた髪をぐいと掴んで上向かせると、供物は助けを求めるように男鹿の足に更にしがみつく。捧げられるべき上級悪魔には怯えずアクババに怯えるとは、なんとも珍妙な生贄悪魔だ。
本当に、生贄悪魔として残念極まりない。
「お前、名前は?」
これから食らう相手の名を聞いてどうするのかという気持ちもあったが、尋ねれば既視感の理由がわかる気がした。しかしやはりこの供物は残念さを裏切ることはなかった。
「え、いけにえだよ」
きょとんとして目を丸くする供物に、馬鹿違うそれは…、と言いかけたが言うだけ無駄なような気がした。おそらくこの供物を育てた爺は残りかすのような生贄悪魔など気にも留めなかったのだろう。今回男鹿に捧げられたことも、体のいい厄介払いだったに違いない。
男鹿は供物の汚れた顔をぐいと拭った。一心に男鹿を見上げるあどけない瞳に、また何かがうずく。
昔、何度も抱いた気持ちが湧き上がりそうになる。
それがどんなものだったかは思い出せないけれど、男鹿はふと思いついた言葉を口にした。
「ふるいち」
呟いた途端、なぜかこの供物の名に、これほどふさわしい名前はないとしっくりきた。
「へ?」
ぽかんと目を丸くする供物の表情に、男鹿は笑みを浮かべる。凶悪な悪魔の笑みではなく、ただ浮かんだだけの柔らかい笑みだ。
「テメェの名前は、古市だ。俺が決めた。文句あるか?」
供物は、いや、古市は男鹿を見上げたままふるりと首を横に振る。ううん、と呟き両腕で男鹿の足にしがみつき、男鹿の太もも辺りに顔を押し付けた。
俺の名前、古市…、と呟く供物の首根っこをひょいと掴み、男鹿はそれを小脇に抱えた。
「よし、そんじゃ食えるようになるまで飼うとするか」
グエ、とアクババが鳴き、古市がびくりと震える。
「まさか、それ、その、それに乗るの?」
にたりと笑うアクババを怯えて指差す古市に、おー、と男鹿は頷く。
「早ぇんだぞ」
「い、いやだぁああああ! それ、いやだぁあああ、こわいいいいいいい!」
「あー、うっせぇなっ! 耳元で叫ぶな、アホ市!」
「アホ市じゃないいいいい!」
男鹿はビエェエエンとうるさく泣き喚く古市を小脇に抱えたまま、アクババに飛び乗った。食おうと思った時には満面の笑みを浮かべ、そうでないときには泣きわめいて恐怖のスパイスをまき散らす。まったくもって残念な生贄悪魔で未来の食糧だ。いよいよ食べごろになったとき、今くらい泣きわめいてくれるといいのだが。
男鹿のそんな思惑など知らず、古市はアクババの背の上で、男鹿の住処につくまでの間、男鹿にしがみついたままぎゃあぎゃあと泣き叫んでいた。
ピクシブで見た山羊古市ネタに滾り、山羊古市の作者さまから山羊許可を頂き山羊小説を書きました。山羊山羊。
悪魔なのに貧相な古市に萌えます。古市は貧相であってこそ古市。残念であってこそ古市。がっかりであってこそ古市。生贄の役すら果たせない古市萌えです。
変な萌えポイントですみません。
あとアホの子古市萌えです。ああ…アホ山羊可愛い…。