悪魔が生まれたとき


 目の前で牙を剥くのはもう男鹿ではない。
 全身を覆うゼブルスペルは肌色を探す方が難しいほど複雑に入り組み、ほどけることはないだろう。長く尖って伸びた耳と、凶悪な色に爛々と輝く目は獲物を探しているようだ。その鋭い牙と爪とで生贄になるべきなにがしかを引き裂き、肉を骨ごと貪り血を啜るため、男鹿であったその生き物は喉を鳴らす。
 常人では耐えられないほどのベル坊の魔力を注ぎ込まれた男鹿の精神と肉体とは限界を迎え、もう人間に戻ることはない。人間界で野放しにできないほど危険な生き物となったそれを、ヒルダは責任を持って魔界で面倒を見ると告げた。
「坊ちゃまのためとは言え、貴様と男鹿にはすまぬことをしたな」
 少しもそう思っていないようなすがすがしい笑顔は、己の主君が無事に大魔王の後継者としてふさわしい悪魔に育ったことを喜んでいた。
 悪魔との幾度とも解らぬ戦いを経て、それでも古市の前に姿を現さない男鹿が悪魔に堕ちたのだと知ったのはつい先ほどのことだ。
 事情をよく飲み込めない古市が、何度も男鹿に会わせてくれと頼みこむと、ヒルダはしぶしぶ了承をしたが、それは古市の願っていなかった形での再会だった。
 男鹿はフォルカスの手によって悪魔用の鎮静剤を打たれ、尚且つ魔力を抑制する拘束具をつけられていた。孫悟空の輪のようなものだとヒルダは教えてくれたが、首にかかったそれは犬の首輪にしか見えず、古市が外してやろうと手を伸ばすと鎮静剤が効いて意識が朦朧としているはずの男鹿は牙を剥き古市の手に噛みつこうとした。
 フォルカスとラミアが鎮静剤の量を増やさなければと相談を始め、ヒルダは腕にベル坊を抱えたままかつて見たこともないような笑顔で古市を見やる。
「これが最後の別れになるだろう。ベルゼ様が後継者に決まった以上、我々は魔界統治のため向こうで暮らす。無論、男鹿もベルゼ様の親として、そして臣下として魔界へ行く。貴様と顔を合わせることはもうないだろう」
「……男鹿…」
 これが最後だなんて、どうしてそんなことになったのだろう。
 茫然と見つめる古市を、男鹿は鎮静剤で混濁した眼で眺めている。見知らぬものを見る、それは不思議そうな眼差しだ。
 古市の好きだった笑顔も、古市を好きだと言った真顔も、古市を慈しんだ微笑も、男鹿は何も持たずただ古市を視界に収めている。古市が餌かそうでないかを見極めるように。
「男鹿」
 たまらず抱き付こうと腕を伸ばすと、その手をラミアに止められた。
「やめなさい。あれはあんたの知ってる男鹿じゃないんだから。ただの低級悪魔よ。自分の意識なんかなくて、食欲とかそーゆーことにしか知恵が回んないのよ。あんたが誰かなんて解ってないし、あんたの名前も解ってないんだから。それに人間の時の記憶とかもないし、理性もないし。あんたが何しようとしたかわかんないけど、近付いたら食われて終わりよ」
 それなら男鹿に食われてしまいたいと古市は思った。声に出ていたのかもしれない。ラミアは気の毒そうに、あんたは魔力がないから、きっと男鹿は全部食べないと思う、と答えた。魔力のない人間など食べても腹の足しにならないのだそうだ。
「…俺、お前の役に、なにもたたないんだな」
 結局最初から最後まで、役に立たなかった。
 焔王との戦いも、それ以外の悪魔との戦いも、物陰から見ていることしかできず、それらしいことを言ってお茶を濁してはいたけれど、つまりは何もせず何の役にもたたずただわあわあと騒いでいただけだ。
 スーパーミルクタイムを乱用した結果、男鹿が悪魔に堕ちようとしているその時ですら、なにもしらずのほほんと家でゲームなんかしていた。
 男鹿が人間に戻ろうと苦しんでいる時も、何も知らずごはん君を読んでけらけらと笑っていた。
 側にいると誓った、あの幼い日の約束を守ることすらできない。
 悪魔に堕ちたばかりで腹を空かせた男鹿を満たしてやることもできない。
 一緒にいるよと絡めた小指を裏切ることしかできない。
「おが」
 制止するラミアの手を振りほどき、古市は両腕を伸ばした。ガルルと喉の奥を鳴らし威嚇する男鹿が持ち上げた手を軽く薙ぐ。さっと風が走り古市の腕には赤い血の線が走った。たらりと垂れる血は赤く、古市のシャツを染めたけれど、古市は構わずに男鹿に手を伸ばした。男鹿の首に両腕を巻き付け、力いっぱい抱きしめる。驚いたように男鹿は目を見張り、古市を振りほどこうと身を捩る。けれど古市は力いっぱい抱きしめた。血まみれの悪魔を抱きしめた。
 男鹿の身体からは古市が今まで嗅いだことがないほど濃密な血の匂いがした。
「……ごめん…ごめんな……」
 ゼブルスペルの文様に覆われた顔を指で辿り、角の生えた額に額を摺り寄せる。困惑する男鹿の頬に己の涙を擦り付け、古市は繰り返した。
「一緒に行けなくて、ごめんなぁ……」
 無理矢理魔界について行ったところで、男鹿はきっと古市など見向きもしないだろう。
 古市のことを理解していないというし、脆弱な人間など男鹿にとっては道端の石よりも価値のないもので、古市はそれでもいいから男鹿について行きたかったけれど、ヒルダからは用のないものを連れて行くほど私はお人よしではないと切り捨てられていた。
「約束破って、ごめんな…」
 幼い日、いっしょにいような、と初めて絡めた指を覚えていた。うん、と顔中を口にして笑った男鹿の顔を覚えていた。目の端にちょっぴり浮かんでいた涙の粒の大きさも忘れてはいなかった。あの時古市は誓ったのだ。力の加減が解らず、人に怪我をさせてしまっては遠巻きにされている男鹿の友達になって、ずっとずっと一緒にいてやろう。ずっとずっと友達でいてやろうと誰にでもなく誓ったのだ。
 ただ側にいる。
 それだけで良かったのは、一体いつまでだったのだろう。
 そんな些細なことなど何の意味もなくなったのはいつだったのだろう。
 古市は気付かずに過ごしてしまった。だから約束すら守れず、男鹿は魔界へ行ってしまう。
 ごめんな、と囁くと、男鹿がグルルと喉を鳴らした。甘えるような音に焦点が合わないほど間近にある男鹿の赤い目を見ると、男鹿が舌を伸ばして古市の頬をぺろりと舐めた。ちょっと驚いたように目を見開き、首を傾げ、またぺろりと舐める。頬を伝う涙をぬぐい取ろうと必死に舌を伸ばす男鹿に、古市は唇を噛みしめた。
 ほら見ろ、と古市は食いしばった歯の奥で呻いた。
 男鹿は悪魔になろうとも男鹿だ。
 目の前の涙をぬぐい取ろうとする優しい男鹿だ。
 それなのに魔界につれて行くだなんてあんまりじゃないか。
 口を開けば喚き声が飛び出しそうで、古市は喉の奥でぐうと呻く。その音をどう受け止めたのか、男鹿は涙を舐めるのをやめ、少し顔を放して古市をまじまじと見つめている。わずかに首を傾げたかと思うと、古市の肩に額を摺り寄せ甘える音で喉を鳴らす。
 恐る恐る黒い髪を撫でてやると、心地よさそうに目を細めている。持ち上げた古市の手は男鹿の爪に裂かれたせいで血にまみれていて、男鹿の頬にもついてしまう。男鹿はくんくんと血の匂いを嗅ぎ、傷口を癒すように舐める。その凶悪な目は古市を映し、いとしいものを見るように細められている。怪我は大丈夫、と案じるように細められている。
 もうだめだ、と古市はぼろぼろ零れる涙をそのままに、わんわんと泣いた。恥外聞なにもなく、子どものようにわんわんと泣きじゃくった。
 いかないで、ひとりにしないで、おいていかないで。
 やくそくやぶってごめん、あやまるから。あやまるから、だからおねがいひとりにしないで。
 ほとばしるような泣き声になりたての悪魔も驚きおろおろとしている。
 古市は男鹿にしがみつき、離さないでと泣いた。男鹿は鋭利な爪を持つ手でそっと古市の背に触れる。傷をつけないように加減された手が古市を抱きしめようとしたその時、そこまでだ、とヒルダが割って入る。
「もういいだろう。見苦しい茶番にはうんざりだ。やはり昼ドラのように愛憎渦巻くものの方が見ごたえがあるな。もう良い。アランドロン、扉を開け。フォルカス、ラミア、男鹿を連れて行くぞ」
「はーい! ベルゼ様、もうすぐ魔界に帰れますよぉ!」
 うきうきしたラミアの声も、ウィイイーッ、と叫ぶベル坊の声も古市の耳には届かない。
 ベル坊をフォルカスに預けたヒルダの手で、強引に男鹿から引きはがされても、腕を伸ばし、男鹿にしがみつこうとした。男鹿は名残惜しそうに何度か振り返ったが、ラミアに、ほら早く、と急かされるとアランドロンの開いた扉の中へ消えて行く。
 その背に古市は叫んだ。喉が裂けようとも叫び続けた。
 俺は古市だ。俺の名前は古市貴之だ、覚えとけ馬鹿男鹿。
 男鹿の姿が消える直前、振り返った男鹿の口が、ふるいち、と動いたようで、古市は何度も男鹿の名前を呼んだ。
 もはや男鹿の姿もラミアの姿もフォルカスの姿もベル坊の姿もない。開きっぱなしになっている扉の役割を果たすアランドロンと、しゃくりあげる古市を睥睨するヒルダのみが残っている。
 男鹿、男鹿、と男鹿の名前ばかりを繰り返す古市に、哀れに思ったのか、それともいい加減にしろとでも思ったのか、ヒルダがぽつりと呟いた。
「恐らくこれから男鹿は上級悪魔へとのし上がっていくだろう。ベルゼ様の親としての功績も認められ、大魔王様にも篤く取り上げていただけるだろう。男鹿の悪魔としての寿命は長い。天寿を全うした貴様が悪魔に生まれ変わることがあれば、あるいは再び見えることもあるやもしれんな」
 それきり、あまたの質問を投げかける古市を振り返りもせず、ヒルダはアランドロンの開いた扉の中へと消える。アランドロンもまた、あんなにも熱を上げていたように見えたのが嘘だったかのようにそっけなく、ではいずれまたお会いすることがあれば、と一礼し、異界へと姿を消した。
 男鹿、と古市は呼んだ。
 ぽつりと、何もない空間に向かって、男鹿、と呼んだ。
 それが、男鹿を見た最後だった。




山羊悪魔古市のちょっと(いやかなり)昔の話的なものを書いていて放置してた。
実は山羊悪魔書くよりも前に手を付けてたんだけど出しそびれてて…なんかこれってありなのかといろいろ(らしくなく)悩んでいたので…。
まぁいいやとアップしましたが、こんなことがあって男鹿は悪魔になりました。