短冊に願う
赤ん坊がいる家は季節行事に敏感だ。
すっかり古市が忘れていた七夕も男鹿家では着々と準備が進んでいた。
男鹿父が笹を買ってきて庭に設置し、美咲が短冊を作っている。たかちんも手伝ってよ、と言われて短冊を切り、糸を通し、ベル坊と一緒にお願いごとを書いた。
ベル坊のミミズののたくった字は願い事とは言い切れないが本人が満足そうなのでまぁいいだろう。ヒルダも短冊に人類滅亡と書き、古市はそれを打ち消すように世界平和と書いてしこたま怒られ短冊も引き裂かれた。
美咲は三億円の当たりくじと書き、男鹿母はヴィトンのバッグと書いている。なんだか即物的な願い事ばかりのなかで、男鹿父の短冊は男鹿家内での立ち位置を示すかのようにぽつねんと笹の下の方に吊るしてあって、何書いたんだろう、としゃがみ込んで手に取った古市は思わず息を飲んだ。
二人目の孫が早く生まれますように! できれば女の子希望。
男鹿父のきれいな字で願い事の書かれた短冊を、古市は危うく握りつぶすところだった。
二人目なんて生まれないし、そもそも一人目だって本当は男鹿の子どもじゃない。
けれど男鹿家の人々にとっては家族以外のなにものでもない。ヒルダも家族の一員だ。
そう考えると、男鹿に呼ばれたからとほいほい家に上がり込んでいる自分がいかに場違いかを思い知る。
小学校からの腐れ縁だからと言って、毎度毎度の季節行事に参加して、頻繁に晩ご飯をごちそうになり我が家のごとく風呂に入り泊まっていく。新婚夫婦と思われている当の本人たちはまるで気にしていないが、男鹿の家族からしてみれば、新婚家庭に入り浸るとんだお邪魔虫だ。
態度や言葉に表されてはいないけれど、いい加減空気読めよ、と思われているのかもしれない。ひょっとするとそろそろ、ちょっと遠慮してもらえないかしら、と言われるのかもしれない。
ダメだ、と古市は短冊から離した手を握りしめた。暗い妄想は古市の心に突き刺さり、消えない傷を作る。
泣きそうだ。
でもこんなところで泣くわけにはいかない。人のいい男鹿家の人たちが何と思うか解らないし、何より、男鹿が気にする。あの傍若無人な俺様男鹿様は、他人のことにはまるで無頓着だけれど古市のことには神経質だ。
だからこんなところで泣くわけにはいかない。適当な言い訳を作って家に帰るか、でなければトイレにでも逃げ込まなければならない。
男鹿の目の届かないところに、男鹿の嗅覚の届かないところに、男鹿の手の届かないところに隠れなければならない。
ベル坊が来てからずっと古市がそうしてきたように、仲が良く理解ある友人のふりをして、周りが男鹿とヒルダを夫婦と認めベル坊を男鹿の子どもとして可愛がる様を、笑って眺めていなければならない。
その度に残る心の傷なんて誰にも見えないのだから、古市さえ無視をしていればそれでいい。
でも本当は古市だって言いたい。誰かに聞いてほしい。
本当は男鹿の恋人は自分だと声を大にして言いたい。
男鹿が好きだって言うのは自分で、男鹿が大事にしているのは自分で、ヒルダでも他の誰でもない。それは古市貴之と言う男で、男鹿家の人々が望むような孫を作ることも産むこともできないけれど、確かに男鹿は自分を好きだと言ってくれる。
でもそれは、いつまで?
ひやりと走る寒気に、古市は身を竦めた。
あんな美人と一緒に暮らしているのだから、男鹿の心変わりなんて簡単なのかもしれない。ベル坊も懐いているし、最近では父親の自覚ができてきたのかベル坊の面倒もよく見ている。可愛がっているようだし、ベル坊の身に危険が迫ると、保身のためではなく心配している。
やっぱお前いらねーわ。
暗い妄想の中ですら、そんなことを言われたら涙が滲む。
やばい、家に帰る暇なんてない。やっぱトイレで泣くしかない。
そう思って古市が立ち上がろうとした時、明るい声が古市をその場に押しとどめた。
「たーかちん! なにやってんの!」
驚いて顔を上げると片手に短冊を持った美咲が下駄をつっかけて庭に下りてきていた。家の中でベル坊と一緒に他の短冊に願い事を書き連ねていたはずなのに、と驚く古市の頬をころりと涙が転がる。慌てた古市が家からの明かりが届かない暗がりの方へ、つまり笹の方へ顔を向けると、ちょっと驚いた顔をした美咲が古市のすぐそばにしゃがみ込み、笹の下の方に吊るしてある短冊へ手を伸ばした。
何でもないです目にゴミが、と古市がごにょごにょと言い訳をする。
「あー……」
男鹿父の短冊を見た美咲が困惑したような声を漏らす。
「……ごめんね、たかちん」
短冊を読んだ美咲の第一声に、古市はひやりと肝を冷やした。
暗がりを一心に見つめ、美咲から表情を隠しながら、古市はめまぐるしく考える。男鹿父の短冊を読んで、美咲が古市に謝る理由など何もない。むしろなんでこんなもの見て泣いてんのよと笑う方が正しい。
どれだけ知力を巡らせようとも、古市には美咲の謝罪の理由をひとつしか思いつけない。だから迂闊に口を開けない。
黙りこくる古市に美咲がそっと身を寄せる。
「うちの親父、マジで空気読めないねこりゃ。二人目なんてできないっつーのにね」
「…そ、そんなことないですよー…」
涙に揺れた声で、男鹿父の願いは叶うと肯定する。古市の心にまた見えない傷がつく。けれどそれでいい。男鹿と一緒にいる限り、これは当然の報いなのだから。
「男鹿とヒルダさん、結構仲いいし……うん、こりゃ二人目ができるのも早いかなー……なんちゃって、高校生で二人目はやっぱ早いっすよね。それにベル坊もまだ小さいし、二人目が生まれたらベル坊の面倒見るのも大変だし、やっぱもうちょっと後の方がいいかもしれないで……」
すね、と続けようとしたがそれは涙に消えた。
美咲をごまかそうとするあまり、心にもない言葉が次から次へと飛び出してくる。自分で発する言葉に心を抉られ、古市の心は見えない血で溢れていく。
帰りたい、と痛烈に思った。
探る美咲の視線が耐えられず、逃げ出したいと思った。
家の自分の部屋に閉じこもって布団の中で声を上げて泣きたかった。
唇を噛みしめる古市の頭を、美咲の手がよしよしと撫でる。
「たかちんはいい子だねぇ」
いい子なんかじゃない。古市はぶるりと首を振った。
本当は、早く消えてしまえと思っている。ヒルダもベル坊も、男鹿に熱を上げる邦枝さえ消えてしまえばいいと思っている。前のように二人でいられればいいと、本当は思っている。七夕の短冊にそう書きたいくらいに心底からそう願っている。だから世界平和と書いた。ヒルダに引き裂かれてしまったけれど、世界が平和になって魔王が消えてしまえば、男鹿が自分だけのものになるかもしれないなどと遠回しな夢を抱いた。
そんな卑劣なことを考える自分が、いい子であるはずなんかない。
「……俺……あの…ごめんなさい…」
なにが、と言わずともきっと美咲には通じるだろう。
古市はそう思いながら謝った。
美咲はきっと、知っている。
古市が男鹿に熱を上げていることも、男鹿が古市をそう言った目で見ていることも、二人が何度も手を繋いで、唇を重ね、何度も身体を合わせたことも知っている。きっと、本気で思いあっていることも知っている。知っているからこそ黙っていてくれる。
でなければ二人目の孫を望む男鹿父の短冊を、古市に詫びる理由など何もない。
「ごめ……ごめんなさ……」
男鹿を汚して、男鹿家の平和を乱してごめんなさい。
好きになってごめんなさい。
そう心のなかだけで謝る古市の頭を、美咲はやっぱり優しい手で撫でた。
「なんであんたが謝んのよ、たかちん。謝んのは空気読めないうちの親父でしょーが。それにね、辰巳もあんたに謝んなきゃだよね。あんたが優しいのをいいことに浮気なんかしちゃってさー、挙句子どもまで作ってりゃ世話ないってのにね。ヒルダちゃんもいい子だけど、あんたもいい子だよ。辰巳なんて見捨てりゃ良かったのに、ベル坊の世話の手伝いまでしちゃってさ」
だから、はい、と美咲は古市の手に紙切れを押し付けた。
驚いて受け取り見下ろすと、それは短冊だ。くしゃくしゃに皺のよったそれを、古市はぎこちない手で広げる。それは真っ二つに裂かれた世界平和の短冊だ。セロハンテープで貼り合わせてあって、世界平和の横には、たかちんが幸せでありますように、と美咲の字で書かれている。
ひぐ、と喉が妙な音を上げた。
自分の薄暗い感情を許容してもらえたような気持ちに涙が止まらない。
「それからこれも」
はい、ともう一枚短冊を渡される。
それは撚れてもいなければ破れてもいない短冊で、見慣れた汚い字で、ずっと側にいますように、と書いてある。
誰と、とは書かないだけの分別が男鹿にあったとは驚きだが、誰となのかは解る。いや、そうであってほしいと思う。
「ねぇたかちん、それ、笹につけなよ」
ぼろぼろと落ちる涙を美咲の手が拭う。やっぱりその手は優しくて、その手に縋りつきたい思いに駆られるけれど、それはダメだと古市は自分が自分に敷いたルールで戒める。
男鹿家の人々の負担には決してならない。
それはベル坊とヒルダが来てから古市が自分に誓ったことだ。
男鹿との関係が世間一般では歓迎されないものだとはよく解っている。だからもし二人の関係が明るみになったとしたら、自分は身を引こうといつも思っていた。男鹿はヒルダといる方が世間的にも、男鹿家の人々にとっても正しい。
だから優しく手を伸ばさないでほしい。慰めないでほしい。自分は男鹿家にとって負の因子にしかなりえないのだから。
「…笹につけなよ」
ぶるぶると首を横に振り、決して短冊を吊るそうとしない古市に美咲は困ったように笑う。
「たかちんはいい子だねぇ…」
違う、本当にいい子なんかじゃない。
えぐえぐと泣く古市の背に、リビングからどっと笑い声が聞こえてくる。バチバチッと放電の音がしたので、ベル坊の癇癪がまた男鹿に炸裂したのかもしれない。けれど古市は振り向けない。男鹿に涙顔など見せられない。
あーあまた馬鹿やっちゃって、と美咲が呆れたように声を漏らす。そしてぽんぽんと古市の頭を軽く叩いた後、それ、吊るしなさいね、と言って腰を上げた。
古市は鼻を啜りあげTシャツの裾で顔を拭う。
涙は止まったけれど、涙の跡は消えないからしばらく夜風で頬を冷ますしかない。リビングのみんなが違うことに気を取られている間にトイレに行って顔を洗おう。それまではここで、短冊を眺めていよう。
吊るすことのない短冊を、短冊に込められた願いの文字を古市はそっと指で辿り、男鹿の名を音にせず呼んだ。
七夕をテーマに、ちょっとした軽い読み物を書こうと思ったらなぜかこんなシリアスモードに。
古市は男鹿にだけは見せないいようにあれこれ抱えているといいよ。他の人にばれてもいいから男鹿にだけはばれないように頑張ってればいい。
一杯抱えすぎて飽和状態でわーーって病んじゃうってのもありだけど、病んじゃってなお男鹿にだけは普通の顔を見せていればいい。
そんな風に男鹿を絶対視してる古市とか好きだなー。
あと美咲さんは古市=男鹿の嫁ってかうちの子? みたいな感じだと思う。ベル坊はヒルダと男鹿の子どもだと思ってるけど、男鹿のうっかりが原因でできた子でヒルダもさほど男鹿に執着してないし、二人の間に恋愛感情はなくて、男鹿と古市の間に恋愛感情があるのは理解してるっぽい。放っておくと古市はどんどん自分を後回しにしちゃうから、古市の味方しなくちゃ!って思ってる感じ。その点ヒルダちゃんは放っておいても自分でなんとかするから大丈夫でしょ、みたいな。面倒見のいい烈怒帝瑠初代総長。