その感情に名前をつけて




 辰巳さんの妻です、とそう言いきったヒルダとそれに睨みあう邦枝。緊迫した空気から逃げ出した古市は行き場もなく教室へ戻った。途中からは走るの馬鹿らしくなってとぼとぼと力なく歩き、その距離はいつもの二倍も三倍にも感じる。がらりと教室のドアを開ければ、ヒルダにぼこぼこにされた姫川と神崎の傷を、城山と夏目が手当てをしているところだった。
「おー帰ってきたか古市」
 ふんぞり返ってヨーグルッチを飲む神崎の頬に、城山がぺたりと湿布を貼っている。
「あいつらどーしたのよ」
 かちかちと手元の携帯電話を弄る姫川はいつもびしっと決めたリーゼントが歪んでしまっているが、手当てをされている間は大人しくしているつもりのようだ。傷テープを貼られ、もういいぜと夏目を追い払う手でささっとリーゼントを直している。
「なんか…まだ……なんか、やってます」
 古市はぼそぼそと答え、席に着く。そこへすかさずやってきたのが花澤だ。
「なー古っち、あの男鹿嫁マジどうなっちゃったんだよ。なんか辰巳さんとかってパネェ感じでさー。てか記憶喪失ってマジパネェよなー」
「……ラブい…」
 ぼそっと千秋も呟き、うんうんとその他の烈怒帝瑠のお姉さま方も寄ってくる。普段なら、わぁお姉さま方に囲まれて嬉しいなぁでへへ、なんて笑って見せる古市だったが、今日ばかりはそんな気力もない。
 あの、記憶をなくしたヒルダの発した言葉の破壊力と来たらなかった。
 辰巳さんの、妻です。
 はっきりとそう言いきったヒルダの目は、口調は、自分がそうであって当然でそれは揺るぎないもので誰にも覆すことはできないのだと言っていた。
 邦枝に向けられたその言葉は、邦枝に向かってまっすぐには飛ばず古市の胸に突き刺さった。
 辰巳さんの、妻。
 今まで男鹿嫁だのなんだのと呼ばれているヒルダを前にあははと笑っていられたのは、ヒルダがそう周りから呼ばれても何とも思わないくらい男鹿を歯牙にかけていなかったからだ。ヒルダの目にはベル坊と大魔王しか映っておらず、男鹿などベル坊を介して向こう側にうすぼんやりといるドブの匂いのする邪魔な男程度だった。それが突然、ベル坊も大魔王も取っ払って、ヒルダが男鹿を見た。
 自分の夫として男鹿を認識したのだ。
 だめだ、と古市は項垂れる。
 椅子に座り、机をじっと見据えて溢れそうな涙をぐっと堪える。
 恐れていた、けれどいつかそう遠くない未来にくるだろうと覚悟していた事態が訪れたのだ。思っていたより早かったけれど、何度も覚悟をしたじゃないか、と古市は歯を食いしばる。
 古市はヒルダには叶わない。
 腕力や知力の問題じゃない。ましてや魔力の問題なわけもない。
 男鹿の横に並び立ち、男鹿と一緒に歩いていた。
 今日はその場にヒルダがいた。ベル坊を腕に抱き、あの丸出しに恐ろしいまでに固執していた赤ん坊に服まで着せ、それが当然のようにしていた。男鹿を言いくるめ、男鹿の世話を焼き、そして男鹿の隣に当然のように立っていた。
 今までぼんやりとではあったけれど、男鹿の側に残っていた自分の立ち位置をごっそりヒルダに奪われてしまったのだ。
 男鹿の世話を焼くこと。
 寒いのにそんな格好でいるんじゃねーとマフラーを巻き、鼻垂れてんぞ子どもじゃねーんだからとティッシュを差し出し、眠そうによたよたと歩く男鹿をそっちじゃねーだろと腕を引く。
 それだけはせめて、自分の役割であると思っていたのに、ヒルダはそれを奪ってしまった。男鹿嫁の立場に立たれては、古市にはもう何も手出しできない。
 ぽたりと涙が落ちる。机の上に落ちた一粒の涙の上に、ぼたぼたと次の涙が重なる。
 辰巳さんの妻。
 ヒルダの言葉は刃となって古市の胸を貫いた。着弾した言葉は心臓の中でやたらめったらに暴れまわり、内側に見えない傷をつけ続けている。
 あの場にいたら、喚きそうだった。
 冗談のように逃げ出さなければ耐えられなかった。
 周りに誰がいようとももう我慢することもできず、ただただ涙をこぼす古市を、あー…、と姫川が同情したような眼差しで眺めている。伸ばされた手がくしゃりと銀色の髪を撫でた。
「しゃーねーな、そりゃ」
 何も言っていないのにすべてを察したように、神崎も頷く。
「そらしゃーねー。男鹿嫁があーなっちまったらなー、どーしよーもねーわな」
「だよねー。古市君もショックだよねぇ。男鹿ちゃんを取られちゃったらさー」
「バッ…テメェ、傷を抉るな!」
「えーでも本当のことじゃない? あれでしょ? 男鹿嫁が男鹿ちゃんを旦那認識しちゃったせいで古市くん、男鹿ちゃん取られちゃったーって泣いてんでしょ?」
「だから傷を抉るなっつーの! 鬼かテメェは!」
「だって仕方ないじゃん。そんなの前から解ってたことなんだし、ねぇ古市くん」
 うんうんと笑いながら頷く夏目につられ、思わずこくりと頷く古市の前に、ぺろぺろキャンディーがずいっと突き出される。びっくりして思わず涙も引っ込む。横を見ると花澤が満面の笑顔で舐めている途中のぺろぺろキャンディーを差し出していた。
「元気出せよ古っち! ほら、アメやるし!」
「テメェの舐めたアメなんかいるかっ!」
「えー神崎先輩にはあげるって言ってねーっすよー」
「ハンカチ……」
 そっと千秋の差し出したハンカチが頬に当てられる。柔らかい布の感触に、古市は目を瞬かせていたがやがてはへらりと笑った。
「すみません、取り乱しちゃって……」
「おー、おかげでいい写真撮れたぜ」
 ほれ、と姫川が見せたのはめそめそと泣いている自分の写真で、やめてくださいよっ、と古市は慌てる。急に動いたものだから花澤が持っていたぺろぺろキャンディーが腕につき、そこでまたぎゃあと悲鳴を上げた。
 何やってんだよテメーは、こっちくんな、ちょっと振り回さないでよそれ、古っちパネェ、アメ……。
 わぁわぁと騒ぐ周りに、古市はようやく笑みを浮かべた時、バシンッとものすごい音がして教室のドアが開く。さぁっと外の冷気が教室に入ってきて、寒っ、と誰かが身を震わせたとき、古市テメェ、と男鹿がずかずかと大股で入ってきた。
「勝手に逃げ出してんじゃねぇ! 俺があの後どんだけ大変な目にあったか解ってんのかっ! このいくじなしっ! 弱虫っ! ばか古市っ!」
 ぎゃんぎゃんと騒ぐ男鹿に、あー、と古市は笑みを浮かべる。
 男鹿の言葉はいちいち古市の傷を抉るけれど、大丈夫。もう笑っていられる気力を友達からもらった、と古市は手を伸ばす。怒りに逆立つ髪を宥めるように、黒い髪を撫でると憤っていた男鹿の目から少しばかり怒気が減る。
「悪い悪い。でもさすがにあれには耐えられんわ。なんなんだよ、お前ばっかりいい目見やがって! 俺だって貴之さ〜んとか呼ばれてぇわ!」
「アランドロンのおっさんが時たま呼んでんだろ」
「おっさんに呼ばれても嬉しかねぇわッ! 女子に呼ばれてーんだよ女子に!」
 ぎゃあぎゃあとわざとらしく喚き、赤くなった目元を隠そうと男鹿の手を振り払う。周りを取り囲んでいた面々が、お前も苦労するねェ、と言う顔をしていたので、すみませんうるさくして…、と謝りかけた時、あーっ、と花澤が大声を上げた。
「そんじゃウチら、古っちのこと貴之さんって呼んだらいいんじゃないっすか? な、あきちー!」
 え、と目を丸くしたのは古市だけではない。男鹿もぎょっとしたように花澤を見下ろしている。なっ、と脇腹を突かれた千秋が、う、うん…、と戸惑ったように視線を彷徨わせ、ぽっと頬を染める。
「た、貴之さん……?」
「よしきたこれ貴之さん! パネェ!」
 げらげらと笑う花澤に古市もがくりと肩を落とす。なんとなく千秋の呼び方は可愛くて思わず落ち着かなくなってしまうが、花澤のその呼び方ではカツアゲされているようにしか思えない。夏目も必死で吹き出すのを堪えている顔だし、神崎は頬を引きつらせて、貴之さんって……、と呻いている。
「や……お気持ちだけで……」
 いいです、と古市が言いかけた時、ガァンッとものすごい轟音で古市の机が蹴り上げられた。天井近くまで蹴り上げられた机は、同じくらいの騒音を巻き起こし床に落ちる。ヒッと花澤が息を飲むその前で、怒気を孕んだ男鹿が唸るように言う。
「こいつのこと、そんなふざけた呼び方で呼ぶんじゃねーよ。来いよ、古市」
 ぐいと腕を引かれ、おい、と抗ったが男鹿の腕力にはかなわない。引きずられるように古市はその場から連れ出され、残ったのは呆気に取られた顔ばかりだ。
 古市は教室を出る間際、すみませんっ、と叫んでいたが、すぐに男鹿に掴まれた腕を強く握られてたせいか、痛い痛いと喚いていた。その声もどんどんと遠ざかりやがて聞こえなくなる。
「……解りづれぇやつ」
 くくっと姫川が喉を鳴らして笑う。携帯電話を操作し蓮井を呼び出すと、机が一個壊れたから入れ替えてくれ、と頼んでいる。古市の机は何をどうしたらたったの一撃でそうなってしまうのか、へこみ歪みひしゃげて割れている。これでは帰ってきても授業など受けられるはずもない。
「あー…マジパネェ、男鹿っち超やべーっすね」
「あの執着の仕方はパネェよねぇ」
 夏目もころころと笑い、胸を撫で下ろす花澤の言葉に頷く。それから少し遠い目をして、古市が引きずられて行った方を眺めた。
「あれだけ執着するのなら、古市くんの気持ちもちょっとは考えればいいのにね」
「……鈍感…」
 ぽそりと呟く千秋に、マジパネェ、と花澤の声が被る。
 神崎はぼりぼりとヒルダに殴られた頬を掻き、やってらんね、とそっぽを向いた。
「暴力亭主かっつーの……」
「ま、せめてもの救いは男鹿ちゃんが古市君に手を上げないってことだよ。あの執着でDVだったら最悪じゃない?」
 一歩間違えたらストーカーだよ、と夏目はけらけらと笑う。
 バラバラとヘリコプターの音がして窓から蓮井が学校机を持ってやってくる。割れた古市の机をどかそうとする蓮井に、せめてそれくらいは手伝ってやろうと城山は腰を上げた。




男鹿そっちのけで、古市と仲の良いイシヤマーズが好きなんです。
ゲーム組はきっと、男鹿がいなくても古市に声をかけるし古市が困ってたら助けてあげるんだろうなぁと思って。
あときっとゲーム組は男鹿より古市に味方すると思うんだよな。烈怒帝瑠のみなさんは邦枝が絡まなきゃ男鹿より古市寄りだと思うな。
っていう妄想です。