幸せパスケース



 金曜日の夜八時。繁華街の中を抜けて駅へ向かおうとしていたが三木は、前方に人だかりがあることに気付いた。また居酒屋のタイムセールでもやっているのかとさほど興味も抱かずに脇を通り過ぎようとしたのだが、その人だかりの中からかつて嫌と言うほど固執していた声を聞いたような気がして足を止める。振り返ると、人だかりの向こうから、ぎゃあ、とか、うわぁ、とか、勘弁してくれぇ、とかの泣き声に混じり、高らかな笑い声が聞こえてきた。
「クソガキどもが! 相手見て喧嘩売れってんだ!」
「………男鹿?」
 ふはははは、と高校時代と変わらぬ高笑いに、思わず踵を返す。騒動を見ようとする野次馬の間を縫って行けば、僕チンピラです、と言わんばかりの格好をした若者十人ほどを足蹴に、男鹿が高笑いをしている。地に這うチンピラ達がぼこぼこにされているのに反し、男鹿にはかすり傷ひとつ、羽織ったスーツに汚れひとつついていない。
「うわー……男鹿にスーツって超似合わない……」
 思わず口を突いて出た声を聞きつけたのか、全員土下座ぁっ、となんとも懐かしい光景を再現していた男鹿が振り返り、おお、と目を丸くした。
「お前、えーと、あれだ、三木!」
「……うん、意外と覚えてもらえてたようで嬉しいよ。久しぶりだねぇ。そして相変わらずだねぇ。どうしたのそれ」
 ずらりと並び地に額を擦りつけ、すいませんでしたッ、と声を揃えるチンピラ達を指差すと、ああ、と男鹿は実にはつらつとした笑みを浮かべる。
「喧嘩売ってきたから買ってみた」
「………ああ、そう。て言うか、男鹿、その格好もしかして仕事帰りじゃないのかい? 喧嘩なんかして大丈夫なの?」
 男鹿がまともな会社に就職できるとは思っていなかった三木だが、いざ男鹿のスーツ姿を見るとなんとも言えない違和感でもぞもぞする。まっとうな会社なら喧嘩をしたと耳に入ればまずいんじゃないかと思ってそう言うと、あー大丈夫だろ、と男鹿は呑気だ。
「正当防衛だからな。なっ、テメーら!」
「その通りです!」
 おら、と蹴飛ばされたチンピラ一人を除いた全員が一斉に声を揃える。それを見下ろしながら、よしよし、と男鹿は満足気だ。
「テメーらもう帰っていいぞー! まっすぐ家帰れよー! 五分後にこの辺うろついてるの見つけたらマジで血の海に沈めっからな」
「はいっ、すんませんっした!」
 わぁわぁと叫びながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出すチンピラを見送り、ああいいことをした、と男鹿は実にすがすがしい笑顔だ。それが振り返り、不思議そうに首を傾げる。
「そんで、三木は何してんだ?」
「ああ、僕も仕事帰りだよ。今日はこっちの方に用事があったから……。古市くんは?」
 ひょいと男鹿の向こう側を覗いてしまったのは、悲しいかな身体に染みついてしまった習性だ。高校時代の彼らはとにかく常に一緒だったので、男鹿の向こう側で面倒くさそうな顔をして携帯を弄ってやしないかとついつい古市の姿を探してしまうのだ。
「今日は家にいるぞ?」
「……あ、そう、相変わらずお互いの行動は熟知してるんだね」
 うーん、社会人になったのならそれなりに距離が空いてもいいはずなんだけどなぁ、と三木は何とも言えない気分になる。
 それでもこの偶然の機会を逃してなるものか、と男鹿の腕を掴んだ。
「ちょっと一杯やってかないか? 男鹿ももう帰りなんだろ?」
「あー……まぁ、一杯だけなら……」
 少し渋る素振りを見せた男鹿を引きずるように近くの居酒屋へ入る。さすがに金曜日の夜だけあって居酒屋は混雑していて、丁度カウンター席が空いていると言うのでそこに並んで座る。
 男鹿は携帯電話をテーブルに出すと、渋い顔で言った。
「一杯だけだからな。今日はなるべく早く帰るって古市に言ってあんだよ」
「なんなら古市くんも呼んだら? 久しぶりに古市くんとも話してみたいなぁ。石矢魔出た後、古市くん、大学進学したんだろ? その後のこと全然知らないんだよね。あ、生ふたつと……男鹿、何か摘むかい?」
 注文を取りに来た店員にオーダーを通し、つまみのことは考えていなかったと振り返ると、男鹿は壁に貼られた紙を見上げて言う。
「冷やしトマトとキムチ豆腐くれ」
「コロッケはいいのかい?」
 高校の頃の彼の好物を、からかうつもりで口に上らせると、いやぁ、と男鹿はなんだか照れ臭そうに笑う。
「古市が今日作るって言ってたんだよ。食って帰ったら怒られっだろ」
「ああ……そう。君たち、相変わらずなんだね……」
 この、二言目には、古市、を聞くこの感覚。久しぶりではあるけれど、相変わらずでホッとする…わけもなく、イラッとする。
 三木は早々に届いたビールジョッキを持ち上げ、それじゃとりあえず乾杯、と男鹿のジョッキにぶつけた。
 ごくごくとまるで水のようにジョッキ半分を空にする男鹿が、ぷはーっ、とうまそうに息を吐く。ぐいと口元を拭った後、トマトを頬張る男鹿に、三木はそれとなく尋ねた。
「男鹿はいつも帰りはこの時間なのかい?」
「んー、まぁそうだな。最近は早く帰るようにしてるけどな。古市一人じゃチビの相手大変だしよ」
 うん、と三木は首を傾げた。
 チビ、と言う単語は高校で更新がストップされている三木の脳内にある男鹿語録にはない。チビで連想するのは、高校時代、彼の背中に張り付いていた緑色の髪をした赤ん坊だが、高校卒業後十年もたった今となっては、チビなんて言える年ではなくなっているし、古市が相手をする必要もないだろう。
 チビってなんだろ…、と三木は眉を寄せる。
「えーと……チビってのは……犬とか、猫? ペットでも飼ってんの?」
 まさか男鹿がそんなね、と思いながら尋ねると、いや、と男鹿は眉を寄せる。
「うちのガキだよ。こないだ生まれたばっかでさー、夜泣きがひでぇのなんのって」
「……生まれたばっかの……ガキ? 夜泣きがひどい……って、それって……その、つまり、人間の子ども……だよね?」
 まさか悪魔の子どもじゃあるまいなと尋ねると、当たり前だろ、と男鹿はぎゅっと眉間に皺を寄せる。その表情を見て、あ、機嫌悪くなりそう、と三木は焦るが、男鹿がビールジョッキを持ち上げる手を見て、男鹿の機嫌よりもそちらに意識を奪われる。むしろぎょっと度肝を抜かれたと言ってもいい。
 ガキだとか、夜泣きだとか、聞きたいことはたくさんあったがひとつずつ片付けてくことにした。とりあえずは目の前にあるものだ。
「あのさ……男鹿って結婚したの?」
 男鹿はトマトをもうひとつ頬張り、いや、と首を振る。嘘をついている様子はない男鹿に、でもそれ、と左手を指差すと、ああ、と男鹿はちょっぴり照れ臭そうに頬を染め、左手の薬指を親指でついと撫でる。
「……結婚っつーのは、さすがに無理だけどよ、まぁ、事実婚ってやつだな」
「へぇ事実婚……」
 意味知ってたんだ……、と三木は遠い目をして、男鹿の相手って誰だろうなぁ、と考える。明けても暮れても古市古市と煩いこんな男と添い遂げようと思うのだから、相当な物好きに違いない。かく言う自分もその相当な物好きの一人だと思うのだが、男鹿との事実婚にこぎつけたお相手は、その相当な物好きの自分を上回るものすごい物好きな人物と言うわけだ。
 その人との子どもかぁ、と三木は感慨深い思いで男鹿を見る。
 中学の頃から男鹿を知っているが、その男鹿がとうとう子どもを持つようになったのだ。悪魔だの魔王だのではない、人間の子どもだ。しかも愛し合った相手との子どもだ。
 月日が流れるのは早いなぁ、と年寄りのようなことを思う三木は、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「子どもってさ、女の子? 男の子?」
「ん、女。すげー可愛いんだぞ。写真見るか?」
 あるぞ、と男鹿はいそいそと椅子の背にかけていたスーツの胸ポケットをまさぐり始める。なんとも嬉しそうに取り出してきたのは黒いパスケースで、手帳のように開く形になっているものだ。
 え、パスケースに写真入れてんの、と三木は目を丸くする。てっきり携帯で撮った写真でも見せてくれるのかと思ったのに、と驚きつつも、男鹿が開いて寄越したパスケースを受け取った。
「こないだお礼参りに行った時の写真なんだぜ」
 お礼参り、と首を捻りつつ、見下ろした写真に、ああ、と三木は笑みを浮かべた。パスケースには顔だけをアップで撮った写真が挟んである。赤ん坊の着た白い産着と、生まれたばかりと言う単語でお礼参りが何のことだかは容易く想像がついた。
「お宮参りだよね。へぇ、この子なんだー。可愛いね。目元がちょっと男鹿に似てるんじゃない?」
「お、やっぱそう思うか? 古市もそう言うんだよなー」
 でれでれと相好を崩す男鹿が、もっと写真あるぞ、とパスケースの中に指を突っ込んで写真を引っ張り出した。妙に分厚いパスケースだなと思ったのだが、赤ん坊の写真の下にまだ何枚か押し込んであったらしい。取り出した写真を一枚捲った三木はぎしりと動きを止める。思わず、え、と声が出てしまったのは仕方がない。
 二枚目の写真に写っていたのは、さっきの男鹿に目元が似ている赤ん坊を抱いた古市だ。なんとも幸せそうな笑顔で、カメラは見ずに赤ん坊を見下ろしている。赤ん坊の顔を正面から撮ろうとした写真であるようで、古市の顔は横顔しか映っていない。けれど高校の頃から比べると随分と落ち着き大人っぽくなったその表情は、慈愛に満ちて、本当に愛しいものを見る眼差しで腕に抱いた赤ん坊を見つめている。
 右腕で赤ん坊を抱き、カメラを持つ誰か(間違いなく男鹿だ)に良く顔を見せようとしてか、古市は左手で赤ん坊の産着の胸元を少し押さえている。その左手の薬指に、銀色に光る指輪があった。
「…………この指輪……」
 ものすごく最近どこかで見た、と三木は眉を寄せた。多分、そう、五分くらい前に見た気がする。気のせいだといいのだが、でもやっぱり、五分くらい前に見た指輪に、ものすごく良く似ている気がする。
 ちらっと視線を走らせれば、男鹿がビールジョッキを持ち上げる指に光る指輪と、写真の中のそれは、そっくり同じだ。
 結婚っつーのは無理だけど、事実婚ってやつだな。
 男鹿の言葉が蘇る。
 ああ……そう言う意味…、と三木は頬を引きつらせた。
「………男って、子ども産めるんだっけ……?」
 三木の心底の疑問は、キムチ豆腐を頬張っていた男鹿の耳には届かなかったらしい。それでなくても騒がしい居酒屋だ。少し声を張り上げないと隣の会話すら聞こえにくい。
 いやまさかね、と三木は期待に満ちながら写真を捲り、次の瞬間、あ、やっぱり…、と半端な笑みを浮かべた。
 三枚目の写真は赤ん坊を抱いた古市を、男鹿が後ろから抱きしめている写真だった。なんとも幸せそうな二人はまっすぐにカメラを見ていて、古市の腕の中の赤ん坊も幸せそうな顔で眠っている。
 横から写真を覗いていた男鹿が、なっ、と幸せボケした笑顔を浮かべる。
「すげー可愛いだろ! 絶対美人になるぜっ」
 でれでれと締まりのない顔が見下ろしているのは赤ん坊なのか、古市なのか、どちらなのだろう。て言うかぶっちゃけもうどっちでもいい。
 三木はしょっぱい思いで、写真とパスケースを男鹿に返した。ありがと、とどうなり呟き、それで、と気を取り直そうとしてビールを煽り、ちょっぴり口の端から零れてしまう。おしぼりでそれを拭い、三木は気持ちを切り替えようと、それで、ともう一度繰り返した。
 ここで引いては負けのような気がする。すでに敗戦色濃いことを感じつつも、なんとか場を乗り切る質問を考え、三木は果敢に笑みを浮かべ続けた。
「名前、なんていうの?」
「んとな、美しい雪って書いて、美雪っつーんだよ。古市は美しい幸せで、美幸のがいいんじゃねぇのって言ってたんだけど、やっぱ、ほら、雪って古市っぽいだろ」
「……ああ、白いしね」
「だろ? だから白い雪にしたんだ。俺が考えたんだぞ!」
 どうだすげぇだろ、と言わんばかりの男鹿は、それから滔々と、かつての無口っぷりが嘘だったかのように美雪がいかに可愛らしいかを語り始める。赤ん坊の世話がいかに大変かも話し、古市が毎晩寝かしつけるのに苦労していると言う辺りで、早く帰らなければならないことを思い出したようだ。
 やべぇ、と言いながらビールを煽り、つまみを食べ、俺帰るわ、と財布を取り出す。
「早く帰らねぇと、古市に殺される。いくらだ?」
「ああ、いいよ。僕が払っとく。とりあえずの……えーと、出産祝いってことで……」
「悪ィな! サンキュー! また今度は古市連れて飲みに行こうぜ」
「ああ……うん、そだね……よろしく伝えておいてくれるかい」
 おー解った、と男鹿が浮足立った様子で手を振り、急ぎ足で居酒屋を飛び出して行く。その後ろ姿をひらひらと手を振り見送った三木は、塩物を食べていないのにやたらしょっぱい口の中を流すためにビールジョッキを思い切り煽り、一緒に飲もうと誘ってしまった自分の浅はかさを後悔した。



男鹿のパスケースって多分古市の写真挟んであんだぜ。そんでそれをうっかり見ちゃった三木辺りがしょっぱい気分になっちゃうんだぜ。って話から生まれたものでございまして。
その辺をツイッターで呟いてたら、花梨さんがそれをリクエストしてくれたので。
花梨さんへ! リクエストありがとでした!
ちなみに美雪は美咲さんの子どもだよ。男鹿家に里帰りしてて、別のアパートで同棲してる男鹿と古市が世話をするために呼び戻されてるんだよ。もう一枚写真を捲ったら美咲と美咲の旦那、男鹿父、男鹿母も写ってる写真があって、その写真なら美咲が美雪を抱いてたんだぜって言うくだらないオチがあったりするのよさ。