幸せの時間


 さわさわと風に擦れる葉が音を立てる。足元に流れる川の涼し気な音と相まって、それなりに暑いはずの気温が不快ではない。湿度が少ないせいだろうか。のんびりと流れる雲を見上げていると、平和だなぁ、と古市が目を細めて笑う。
 まったくもってその通りだ。
 訪れた一軒屋はしなびた温泉宿と言った風情で、小高い丘の中腹に建っていた。丘のてっぺんに行けば綺麗な星空が拝めるそうだが、くれぐれも夜には行かないようにと宿の女将が言っていた。凶悪な盗賊だか山賊だか妖怪だかが出るそうだが、それなら星空を眺めには行けない。行けないなら言わないでほしかった。そもそも魔界の夜をほいほい散策したいとは思わない。
 男鹿と古市に宛がわれたのは丘からの景色が一望できる部屋だった。遠くには湖があり、なだらかな丘はどこまでも緑で、時折花畑でもあるのか彩どりの鮮やかな塊が点在している。部屋には縁側があって、そのすぐ下には川がちょろちょろと流れている。足を下せば足首まで水に浸かって気持ちいい。露天風呂もあるし、食事の時間になれば女将が部屋まで膳を運んでくれると言う。ちなみに女将は美人だった。
 古市は有難がって喜んで、早速出された茶を飲み、部屋中を探索し、それが終わったら宿の中を見て回っていた。古市は意外と順応力がある。あきらめが早いと言うのか、状況を把握して落ち着こうとしているのかは解らないけれど、宿を一回りしたら部屋に戻ってきて、縁側に腰を下して景色を眺めている。
 男鹿もなんとなく、古市の隣に腰を下し、小川に足を浸した。ベル坊もよちよちやってきて、とすんと腰を下す。男鹿の真似をして小川に足を浸したいようだが、当然届くはずもない。古市が笑って縁側を下り、ベル坊を抱き上げて小川に足を着けてやっている。きゃっきゃと喜ぶ二人に、側の大木が作る影が、風が通るたびにわさわさと揺れ、木漏れ日を落としている。
 平和だ。
 男鹿はその光景に頬を緩める。
 日頃の貴様らの働きを坊ちゃまが評価してくださった。しかも褒美をやろうと仰っている。有難く思え。
 そう言ったヒルダがくいっと顎をしゃくった途端、いつの間にか背後をとっていたアランドロンの腹に飲まれた。不覚だ。あのでかいおっさんの気配を少しも感じなかった。
 ぐるぐる洗濯機の中のような渦巻きにもみくちゃにされながら、咄嗟に古市の腕を掴んだのは、どこか二手に分かれて放り出されてはたまらないと思ったからだ。魔界なら大変だ。古市なんて一瞬でヨップル星人に食われてしまう。
 ぎゅうっと腕の中に抱きしめた古市と一緒に放り出された先が、ここだったのだ。
 宿の女将には話がされていたらしく、まぁまぁ殿下、ようこそのお越しでございます、と地べたに土下座しかねない勢いで歓迎された。当然、女将の目は男鹿の頭に乗っていたベル坊にしか向けられていなかったが、どうでもいい。
 ヒルダが手配した一泊の慰安旅行らしい。
 せいぜいいちゃついて来い、と女将からヒルダの伝言を聞かされ、古市は複雑そうな顔をしていたが、それなら楽しまなければ損だと割り切ったようだ。
 小川で水をはじき、ベル坊が掴んだ小石を見て何かを言う。魚が通り抜ければ掴まえてみようとベル坊を唆して大はしゃぎさせている。
 その光景を見ていると、男鹿は心がじんわりと温まる。
 古市が笑っていると、いつもそうなる。
 幸せだと実感する。
 ずっとずっと、こんな時間が持てればいいと思っていた。
 悪魔野学園だの、焔王だの、男鹿は本当はどうでもいい。修学旅行だって、本当はどうでもよかった。古市が行きたいと言ったから行ったし、変な、哀場とか言う子連れ番長的なヤツと戦ったのも、それが終われば古市と部屋に戻れると思っていたからだ。
 なんだかんだ、どたばたと慌ただしく終わった修学旅行も、男鹿にとっては古市不足の不完全燃焼旅行だった。
 そこへ与えられた突然の慰安旅行だ。
 古市と二人きり。まぁベル坊がいるのは仕方がない。けれど、古市は側にいる。
 誰にも邪魔されずに、古市が笑っている顔を眺めていられる。
 縁側に片足を上げる。丁度いい感じの枕っぽいものがあったので(後で脇息と言うものだと古市から聞かされた)、腕を乗せて身体を預けると、なんとも心地いい。
 通り抜ける風のすがすがしさと、丁度良い気温、古市とベル坊の話す声の穏やかさに、ずっと古市を見ていたいのにとろんと瞼が落ちて行く。
 こっくりこっくりと船をこいでいると、おが、と遠慮がちの声に呼ばれた。
「ん? どうした?」
 目を擦り見上げると、古市がベル坊を抱いて見下ろしていた。木漏れ日を背にした古市の髪はきらきらと輝いている。
「下の方にちょっと大きめの川があったから、行ってみようかと思ったんだけど……」
 あっち、と古市が指差した方には確かに少し大き目の川がある。縁側の下を流れる小川が合流しているようだ。
「あー……行くか?」
「ベル坊が興味あるみてぇだし……でもお前、昼寝するんなら、どうしようかな」
 古市が腕の中のベル坊を見下ろす。ベル坊は男鹿と古市を見比べ、それから男鹿と川を見比べた。男鹿がくあぁっと大きな欠伸をすると、つられたようにベル坊も欠伸をする。はしゃいで疲れたのか、しょぼしょぼと目を擦る仕草に、古市は苦笑した。
「ベル坊、お昼寝しようか」
 古市はもう川に行くことはやめにしたようだ。縁側の横に置いてあったタオルを取って、ベル坊の足を拭いてやる。それから縁側に立たせて身体を拭こうとしているので、男鹿は脇息から身を起こしてタオルを取り上げた。
「俺がやる。お前、自分の足拭けよ」
「さんきゅ」
 古市がへにゃりと笑い、縁側に腰を下して小川から足を引き上げていた。ベル坊は身体をすっかり拭いてもらうと、座敷に戻って座布団を一枚運んでくる。脇息の側に置いて、また戻ってもう一枚座布団を運んでいる。それをまた繰り返し、全部で三枚の座布団を持ってきた。三つ横に並べて何をするのかと思ったらそこにごろんと横になる。ベル坊は小さいからひとつで充分なのに、何で三つも持ってきたんだ、と男鹿が思っていると、古市がこっそり教えてくれた。
「多分、俺らの分だぞ、あれ」
「おいベル坊、それ、俺と古市の分か?」
「だっ!」
 おうよ、とばかりに親指をぐっと突き出すベル坊に、古市は顔をくしゃくしゃにして笑う。
「さんきゅーな!」
 ここに寝ろ、とベル坊が傍らを叩く。ベル坊は一番端っこに寝ていたので、真ん中の座布団を古市に使わせるつもりのようだ。と言うことは男鹿は一番端か。縁側寄りのそこを指定され、テメェ俺を端にするとはいい度胸だ、と一瞬ベル坊を睨みそうになった男鹿だったが、途中で、ああ、とベル坊の意図に気付いた。
 ヒルダが手配した宿とは言え、ここは魔界だ。縁側は外に面していて、外敵が襲うとしたらそこからだろう。古市をそんな場所に寝かせたって、何の意味もない。けれど男鹿なら、咄嗟にやり返すことができる。
 また逆に中もそうだ。女将に信用ができないとかそう言うのではなく、敵がこっそり潜んでいたら解らないではないか。内側からの敵は自分が、と言うことか。
 赤ん坊の癖に、一人前に古市を守るつもりでいるらしい。
 上等だ、と男鹿は笑い、ベル坊の頭を撫でる。ぐしゃぐしゃにかきまぜると、古市は、乱暴にすんなよ、と眉を寄せたが、当のベル坊はきゃっきゃと手を叩いて喜んでいる。
 ごろんと横になり、古市の方へ身を寄せる。枕、と言われたので腕を差し出せば、古市は遠慮なくそこにどすんと頭を置いた。
 ベル坊が持ってきてくれた座布団では背中の半ばまでしかカバーできない。それでも動く気にはならなかった。
「あー……気持ちいいなー……」
 古市ののんびりとした声に、そうだな、と男鹿は頷く。
 すぅすぅと寝息を立て始めたベル坊が、時折、すぴー、と鼻提灯を膨らませている。
 古市と並んで天井を見上げ、男鹿はさわさわと葉擦れの音を聞く。さらさらと流れる小川や、ぴちょんと小魚でも跳ねたのか水の音が心地良い。
「あ……あれ、なんか、うさぎみたいだな…」
 古市が縁側の天井を指差す。小さな声に、ん、と目を瞬くと、ほらあそこ、と再度示される。
「うさぎっつーか……ヨップルじゃね?」
 天井のシミが作った、びょんと飛び出したのはうさぎの耳じゃなくてヨップル星人の触覚に見える。そう言うと、えー、と古市が嫌そうに顔を顰める。
「ヨップル可愛くねーじゃん。うさぎのが可愛いって」
「それ言うならお前のが可愛いだろ」
「うっせ、可愛いって言うなボケ。あ、あれは亀っぽい」
「あー……あれは亀だな」
「だろ?」
 そんであっちのがー…、と天井の木目やらシミを指で示し、ああだこうだと囁く古市の声に、再び眠気が訪れる。
 あー、とか、うー、とか、おー、とか返事をしてはいたが、二度目の欠伸で限界が訪れた。
「悪ィ………ねる……」
 目を閉じた男鹿の弱い声に、おー、と古市が声を返す。古市が寝返りを打ったのが解る。じっと自分の顔を見つめているのも解っている。
 けれど男鹿は余りの心地良さと訪れる眠気に抗うことなどできない。
 しあわせだなー、と独り言のように漏らされた古市の柔らかい声に、おう、と返事し、男鹿はことりと意識を手放す。
 それでもさわさわと揺れる葉や、さらさらと流れる小川の音、そして傍らにあるぬくもりの確かさは、夢うつつの中でもずっと感じていた。



たまにはゆっくり、のんびりと。