きみがぼくのせかいのすべて


 視線を感じ、男鹿はくるりと頭を巡らせた。
 男鹿にとって視線を感じるイコール誰かに喧嘩売られてる、と言う図式ができあがるので、とりあえずはぐるりと辺りを見渡しておくに限る。いきなり殴りかかられても避ける自信もやり返して土下座させる自信もあるが、側に古市がいる場合は話は別だ。
 うっかりでもなんでも、古市に怪我なんてさせられない。
 鬼のように強い姉に半殺しの目に合わされるし、なぜか古市には甘いベル坊の機嫌が悪くなる。もっと痛いのは古市にしばらく口を利いてもらえないことだ。喧嘩腰でもいいから男鹿は古市にしゃべりかけてほしかったし、古市にしゃべりたかったし、古市の声を聞いていたい。だから男鹿の喧嘩に巻き込まれて古市に不利益があり、お前とはもうしゃべらん、と言われることが男鹿の最たる恐怖だった。
 そう言うわけで、誰からの視線かと、それとなくもなにも、あからさまに辺りを見渡した男鹿は、意外な人物と目が合い、ん、と首を傾げた。背中のベル坊も、あだ、と小さく声を上げる。
 男鹿に向けられていた視線の主は、教室の窓際にいた古市だった。
 それだけではなく、古市のすぐ側には東条の姿もあり、東条は古市と一緒になって男鹿の方を見、なんだか嬉しそうににこにこしている。東条と古市の組み合わせなんて珍しいな、と今まで見たことのない構図に男鹿が不思議に思っていると、東条は男鹿が自分達の方を見たことに気付いたらしく、古市に何かを言った。
 東条は背が高く、古市に何かを言うには、それも古市だけに聞こえるような小さな声で言うには少し身を屈めなければならない。がっしりとした体格の東条が、華奢な古市にまるで覆いかぶさるように身を屈め、耳打ちをする。
 古市はくすぐったそうに肩を竦め、それからふわりと笑った。
 男鹿の好きなちょっと困ったような、それでいて幸せそうな笑顔だ。
 いつも古市を困らせてばかりいる男鹿を、仕方ねぇなぁ、と諦めたように許す古市の顔だ。
 それが男鹿ではなく、東条に向けられている。
 男鹿はいらっとした気持ちのまま、眉を寄せた。
 本来、その笑顔を向けられるのは男鹿だけのはずで、本来、古市の側に立つのも男鹿だけのはずだ。
 それがうっかり昼寝をしている間に東条にとって変わられている。
 中学校のときならいざ知らず、石矢魔に入ってからは古市は男鹿とばかりいたので、女子以外の誰かに笑いかけるなんてこともなかった。
 それなのに最近は古市の周りに人がいて、あろうことか古市に笑いかけられている。
 夏目や、姫川、神崎に城山もだ。邦枝やヒルダの女子はともかく、今まで古市には関わりのなかった不良どもが古市の周りに集まっている。石矢魔のトップ連中が古市には一目を置いているような構図になっているので、自然とその下についている連中も古市への接し方が以前とは変わっている。
 中学のときのように男鹿を負かすための材料としてではなく、きちんと、古市と言う人間を認識して、他愛ない話をしたり、テスト勉強の何かを聞いたりしている。
 最初の頃はびくついていた古市も、時間がたつにつれ不良たちにも慣れていったようで、家で男鹿と遊んでいるときにも、夏目からのメールに返事をしたりしている。
 気に喰わない。
 ものすごく、気に喰わない。
 いつだって古市は男鹿の側にいて、男鹿だけを見ていた。女子が絡むと話は別だが、それでも最終的には女子よりも男鹿を優先していた。デートだと言って出かけても、電話をすれば戻ってきたし、たまたま女子と下校している時にかち合っても、男鹿が帰ろうぜと声をかければ、それじゃまたね、と女子に手を振って後をついてきた。
 それなのに、今は違う。
 男鹿がずっと睨みつけているのに、古市は一度目が合ってからは振り向かないし、東条の方ばかり見ている。
 東条が何かを言うと笑って、東条に何かを言って驚かせている。
 気付け気付けと念を込めて古市を見ているのに、古市は男鹿のことなんか忘れたみたいに東条ばかり見ている。
 気に喰わない。
 ものすごく、気に喰わない。
 ぎりぎりと歯軋りをしたとき、開いていた窓からざっと風が吹き込んだ。少し強めの風で、窓際に広げてある誰かのグラビア雑誌がぱらぱらと捲りあがる。男鹿には何が楽しいのか解らないが、古市はそれを指差してけらけらと笑い、東条も笑う。
「ほう、随分と禍々しい気配を発しているではないか」
 関心関心、とばかりのヒルダの声に、ああん、と男鹿が顔を向ければ、背中にいたはずのベル坊がヒルダの腕に抱えられ、ミルクを飲んでいた。
「貴様のその禍々しい気配に坊ちゃまもご機嫌が麗しいようだ」
「うっせーよ、放っとけ」
「貴様が今、何を考えているかは大体解るが…」
 ヒルダは不機嫌な男鹿の睨みにも動じず、男鹿の視線を追って窓際を見る。まっすぐに伸べられた視線が古市と東条を捕らえると、形良い唇をにんまりと持ち上げた。
「やはり貴様の関心ごとは古市絡みか…。あの男にはもっと古市を構うように言っておかねばな」
 あの男とは東条のことだろう。
 余計なことすんな、と男鹿が牙を剥いたとき、東条が、うん、と言うように首を傾げた。古市に何かを言って、古市は慌てたように髪に手をやっている。少し慌てたような素振りに、東条が首を振り、古市が手をやる場所を変える。
 桜の花びらがついているのだ。
 男鹿のいる場所からはそれがよく見えて、古市の銀色の髪に桜の花びらはとても似合っていると思った。男鹿が東条の場所にいたのなら、絶対に古市に桜の花びらがついているなんて教えない。偶然の結果でも、古市の髪によく似合うものがくっついているのだから、それが離れた後も覚えておけるようにできるだけ長く眺めている。
 それなのに東条は手を伸ばし、古市の髪に触れた。桜の花びらを取り、それを古市に見せる。古市はありがとうでも言っているのだろう。笑って東条を見上げた。そこまではいい。その後が男鹿的に良くなかった。
 古市は何かに気付いたように目を丸くして、東条に手を伸ばす。東条の肩に桜が、花びらではなく花そのものがついていたようで、古市はそれをつまみあげると、こんなものついていましたよ、と言うように東条に見せた。東条が腰かけている机で本を読んでいた陣野が何かを言い、ああ、と古市が頷いたとき、東条が古市の手を掴んだ。正確には手首だったが、男鹿にしてみれば手首も手も一緒だ。東条は古市の手ごと己の口へ運ぶと、桜の花をばくっと食った。古市の指も少し東条の口の中に入っていた。古市がびっくりしたように目をまん丸にしていたが、東条が顔を顰めて舌を出し、ややしおれた桜を取り出すとけらけらと笑い声を上げた。
 ざわっと男鹿の背中が総毛だった。
「ほう、随分と仲睦まじいではないか。あれは人間界で言う夫婦の営みだろう? あなた、あーんとか言う……古市がなにやらよからぬ妄想をしていた状況に似ているな」
 ヒルダの呟きも男鹿の耳には届かなかった。ベル坊が何かを期待するきらきらした眼差しで男鹿を見ていたが、それすらも目に入らなかった。
 男鹿は身体の奥底から湧き上がる燃えるような怒りに突き動かされ、椅子を蹴って立ち上がった。男鹿の席から窓際の延長線上にいた生徒が、ひぃと悲鳴を上げて椅子から転がり落ちたが男鹿の知ったことじゃない。
 ずかずかと足早に窓際に近付き、東条の手の中にある古市の手を取り戻した。ついでにその手を引き寄せ、代わりに東条を殴りつけようと右手を振りかぶる。
「おっと」
 渾身の力を込めたそれは、だが軽く避けられる。ひょいと最低限の仕草で避けた東条は、お、なんだやるか、と構え嬉しそうだ。
「いきなりなんだよ、男鹿! おい、放せって!」
 男鹿の手の中で、古市の手が逃げようともがく。逃がすまいと強く込めた力は男鹿の意識するよりもずっと強かったようだ。ぎりっと握り締めた手に古市が身を捩った。
「い、てぇ…!」
 その小さな呻き声は、喧嘩だ喧嘩だと騒ぐ野次馬の声よりも、やるんならやるぞ、と喜ぶ東条の声よりも、よそでやれよ、と呟く姫川の声よりもずっと小さかったけれど、男鹿の耳は確かに捉えた。無意識で握り締めていたものが古市の手首だったことにハッと気付き、慌てて手を離した男鹿の目に、真っ赤になった古市の手首が入る。
 元が白いだけに赤くなった場所がよく解る。男鹿の手の形だとはっきりと解るほどに赤くなった場所に、古市の反対側の手が触れようとしているが、少し触っただけですぐに手を離してしまった。古市の額にはじんわりと汗が滲んでいて、男鹿が掴んだ手は細かく震えている。
「くそ…イッテェ…」
 ざっと、男鹿の全身の血が地に落ちる。
 古市に、怪我をさせてしまった。
 多分骨は折れていないだろうが、ひょっとしたらヒビが入っているかもしれない。男鹿の無意識の力で握り締めたのだから、ヒビが入っていなくともしばらく跡は残るだろう。打ち身のように腫れるかもしれない。
 喧嘩の巻き添えでなく、男鹿が、古市を傷付けてしまった。
「おいおい、大丈夫か? こりゃ腫れるぞ」
 東条の手が古市に触れていることも、視界に入ってはいたが、男鹿には理解できていなかった。それほど男鹿はショックで、混乱していた。
 東条の手に触れられた古市が、いてっ、と小さく悲鳴を上げた。陣野が読んでいた本から目を上げ、保健室で湿布もらったら、と言っている。古市は引きつった顔にどうにか笑みを浮かべ、そーします、と頷いた。一人じゃ湿布貼れないでしょ、と夏目がいやに面倒見よく付き添い、古市が教室を出ようと男鹿に背を向ける。
 やばい、と男鹿は焦った。
「ふ、ふるいち……」
 すまん、と出すはずだった声はどうしてか喉の奥に絡み、素直に外へ出てくれない。
 どうにか古市の名を呼び、保健室には俺が一緒に行く、と続けようとした男鹿が、古市の後を追いかけようとしたが、それよりも先に、夏目の後に続く古市が振り返り、ぎっと男鹿を睨み付けた。
「男鹿の馬鹿っ、ついてくんな!」
 投げつけられた言葉に、男鹿の足が動きを止める。引きとめようとした手も中途半端に持ち上げたまま、動かない。ふんっと顔を背けた古市は、それきり男鹿を振り返らず、教室を出て行った。付き添う夏目が、あーあ、と同情したように男鹿を見たけれど、男鹿にはそれに反応する余裕などなかった。
 頭の中でわんわんと古市の言葉がこだましている。
 ついてくんな。
 ついてくんな。
 男鹿の馬鹿、ついてくんな。
「おし、そんで? やんのか?」
 東条が嬉しそうに何か尋ねてくるけれど、男鹿の耳には少しも入っていなかった。男鹿の頭の中は古市の言葉でいっぱいで、他のものなど入る余裕もない。
「あれ? おい、男鹿? おーい?」
 古市に拒否された。
 その事実がどんと胸にのしかかり、男鹿を動けなくする。
「あだー?」
 頭が真っ白で、古市のこと以外何も考えられない。
 古市は帰ってくるだろうか。
 古市の怪我はひどくなかっただろうか。
 古市は許してくれるだろうか。
 古市はまた話しかけてくれるだろうか。
 古市はまた男鹿を見てくれるだろうか。
「なぁ馨、こいつどーしたんだ?」
「さあ」
 許してくれなかったらどうしよう。
 帰ってこなかったらどうしよう。
 話しかけてくれなかったら。
 笑ってくれなかったら。
 見てくれなかったら、どうしよう。
「おい、男鹿?」
「あだーだ!」
 ベル坊がぐいぐい揺さぶろうとも、様子のおかしいことに気付いた東条が目の前で手を振ろうとも、男鹿は呆然としたまま動けなかった。
 最悪の事態ばかりが頭をよぎる。
 古市が男鹿の世界から消えてしまったら、どうしていいのか解らない。
 消える。
 古市が、消えてしまう。
 自分で想像した事態に、ぞくっと寒気が走る。古市の手首を傷めた手がかすかに震える。知らず溢れた涙がぽたりと頬に落ちたのは、目を見開いていたからなのか、違う理由なのか、男鹿には解らない。
「ダーッ?」
「お、おい……お前、どっかいてーのか?」
 男鹿の涙にベル坊が驚いたように悲鳴じみた声をあげ、東条がなぜか焦ったような声を漏らす。教室にいる誰もが、男鹿の涙に恐怖し硬直している。ヒルダだけが冷めた眼差しで卑下するように男鹿を睨む。
「ふん、軟弱者めが」
 だが男鹿はそれにすらも気付くことなく、古市が出て行った教室の後ろのドアを見つめていた。
 古市が帰ってくることを待ち願い、ただひたすら見つめていた。
 

男鹿は古市がいないと人として生活が成り立たないくらい終わるといい。てゆーか古市に拒否られて泣けばいい。と言うちょっとしたS心です。
男鹿の世界は古市を中心に回ってるといいよ。古市、それ以外って区分けだといいよ。ちなみに古市はけろっとした顔で帰ってきて、教室が凍り付いているのにも気付かず、あれーなんかあったんスかー、とのほほんとしていればいい。男鹿に、ついてくんな、と言ったのは、ベル坊置いてけねぇだろと言う意味です。
あ、古市が石矢魔の不良どもにちやほやされているのが好きです。だっていかつい男ばっかなんだよ。そんな中にいる荒野に咲いた一輪の薔薇のごとく麗しい古市(…)を可愛がらないわけがないじゃない。特に東条。可愛いもの好きだしな。始終古市を構い倒して男鹿に嫌われるといいよ。