さくたん!


「二十分休憩―っ!」
 ぴーっと甲高く吹き鳴らされる笛の音ともに、寧々の声が体育館に響き渡る。
 それまで、おりゃーっとかどりゃーっとかの野太い叫び声と一緒に、ボールが床や壁や人にぶち当たっては跳ね返るバンバンと騒々しい音がしていた体育館も、それを潮に静まり返る。だがすぐに、疲れたーっとそれぞれが声を上げ始めたので、ボールの音が消えただけで結局騒々しさは変わらなかった。
 男鹿も額から流れる汗を拭い、水分補給をしようと壁近くに置いてある鞄のところへ向かった。
 退学をかけ、なぜかバレーボールで六騎聖と勝負することになり、連日の練習に加え、学校が休みの日は丸一日バレーの特訓をすることになった。退学はどうでもいいが六騎聖に負けてなるものかと練習への出席率は、石矢魔高校の不良どもにしてはなかなかいい。今日など丸一日の練習なのに全員出席している。
 男鹿は水を飲みタオルで汗を拭う。少しの間でもいいから座って休憩しようと腰を下すと、うぁー、と妙な呻き声を上げ古市がやってくる。
「死ぬー……」
 げっそりと血の気の失せた顔にはびっしょりと汗が浮き、細い肩はゆらゆらしている。大きな目も虚ろで、男鹿が水を持っているのを見ると、俺もほしい…、ととぼとぼと力なくやってくる。
「お前……大丈夫か?」
 ほれ、と水を差し出してやると、古市は一気にペットボトルの半分ほどを飲み干した。そんなに一気に飲んだら咽るぞ、と男鹿が忠告しようとした時、案の定げほっと急き込み、口の端からだらだらと水をこぼしている。
「う、あ、お、男鹿、タオル…」
 おたおたと手を差し出す古市が、ペットボトルの蓋をすべきかそれともそれは後回しにして口を拭うべきかと迷っている。連日の練習で疲れ果てた智将は正常に物事の判断ができないらしい。男鹿はタオルを手渡す代わりにぐいと口を拭い、ついでに顔や首筋も拭ってやる。
「う、悪ィ……」
「とりあえず座れ。そんで落ち着いて水飲め。まだ蓋閉まってねぇから零すなよ」
 疲労困憊の古市に思わずあれこれ指示をして、これじゃいつもと逆だなと男鹿は笑う。古市もそれは思ったようで、弱々しい笑みを浮かべ、いつもと逆だ…、と小さく呟いている。ゆっくりとぎこちない動きでペットボトルを口に運ぶ手がかすかに震えているのに男鹿は気付いていた。
 それも仕方ないか、と男鹿は思う。
 何しろ体力自慢の喧嘩馬鹿ばかりが集まった石矢魔高校だ。東条を筆頭に桁外れに体力も腕力もある連中がバレーの特訓をしているのだから、一般人が想像するバレーボールの特訓の斜め上を行っている。アップをすると言って体育館を五十周も全力疾走させたり、とにかくボールを取れなければ意味がないとヒルダの殺人サーブをものすごい勢いで拾い続けたりしている。
 男鹿でも息が上がる特訓に古市も参加しているのだ。
 特訓一日目の翌日は筋肉痛がひどいと言って笑っていたが、その笑顔もだんだんと弱々しくなり、最近では授業中に居眠りをしている。授業態度はまじめな古市には考えられない珍事に、さすがの佐度原も驚いていた。
 今も男鹿が軽く腕を引くと、普段なら軽くあしらうはずの力であるにも関わらず、よろめくようにして男鹿の隣に腰を下す。どっと隣に腰を下した古市の肩が荒く上下している。俯き顔を隠す銀色の髪はいつもよりも色が濃い。汗をかいているせいだ。男鹿は手を伸ばし、頬にかかって邪魔そうな髪を耳にかけてやった。
 悪い、と言う古市の声も力なく掠れている。
「汗引かねーな」
 男鹿は少し休憩しただけですっかり汗も引いてしまったのに、古市の額からはまだふつふつと汗が噴き出している。首にもまた髪が張り付き気持ち悪そうだ。タオルで拭ってやると心地よさそうに目を細めた古市が、ちょっと肩貸して、と男鹿に寄りかかってくる。
「もー…自分で背骨支える気力がねー……」
 ぐったりと男鹿の肩へと倒れるようにもたれかかってきたせいで、古市の頭が男鹿の顔の間近へ来る。ふわっと鼻先をくすぐるのは古市自身の匂いと、咽るような汗の匂いだ。
 男鹿はこっそりと、古市にすら気づかれぬようこっそりと、その匂いを嗅ぐ。
 古市の汗は男の汗であるはずなのにまったく嫌な匂いがしない。
 むしろ甘いと感じるような匂いだ。男鹿の欲を煽り立て、たまらない気分にさせるそれは普段は古市の部屋でしかしない。男のたしなみだとか言って古市がつけている何かのスプレーのせいで、折角のその甘い匂いが普段は消されてしまっているのだ。それが今は汗でスプレーが流されてしまって、古市の首筋辺りから漂ってきている。
 ちらりと視線を落とせば汗に濡れたうなじが目に入る。
 あちー、と言いながら胸元のシャツを引っ張っては風を作るせいで、古市の胸元が時折露わになる。真っ白い肌は過激な運動をしたせいでほんのりと上気し色っぽい。
 今日は休みだから体操服ではなく私服のTシャツだ。襟ぐりが体操服よりも広いシャツの胸元をつまんでばさばさとするせいで、ともすれば乳首まで見えそうになる。
 古市の乳首なんて一度や二度ならず何度でも見たことがある。部屋であったり風呂であったり、小学生からの親友である男鹿には幾度となく目にすることがあった。何しろ友達だ。親友だ。どちらかの家に泊まって徹夜でゲームなんて珍しくもなく、いい加減風呂に入りなさいと美咲に蹴られていっしょくたに風呂に放り込まれることも多々あった。
 けれど高校に入ってからは少しばかり距離が開くようになった。
 他でもない男鹿が古市に対する気持ちがただの友情だけに収まらないものだと自覚したせいと、古市が男鹿の前で着替えることが少なくなったせいだがそれは、男鹿が意識して視線を逸らせているせいかもしれない。
 だって見てしまったらきっと男鹿の身体は素直に欲望を露わにするだろう。
 なんでそんなことなってんだと聞かれれば、男鹿は古市に嘘をつけない。
 親友ではいられなくなる。
 女好きの古市が男であり友人である男鹿を恋愛感情の入り混じった眼差して見るなんてことは、男鹿が東大入試に合格するくらいありえないことで、男鹿も端から自分の想いが古市に受け入れられるなんて思ってもいない。
 古市は優しいから、そっか、と笑って受け止めてくれるかもしれないけれど、確実にこのゼロ距離は失われていく。余所余所しくなって、距離が開き、いつの間にか見知らぬ人のように、出会わなくなる日がくるのだ。
 それは駄目だ。
 絶対に駄目だ。
 古市が視界から消えるなんて、男鹿には耐えきれない。
 だから男鹿は古市の親友の位置をキープし続けるために、自分の欲を殺さなければならないのだ。
 古市への気持ちが恋であると知った日から、そうしてきたように。
 けれどいつもは見ないようにと目を背けるそれが、時折、男鹿を煽るようにシャツの隙間から垣間見える。
 ぞくりと男鹿の欲が理性を揺るがす。
 下腹に熱が溜まりそうになるのを、違う場所を見ることで意識を散らす。
 そんな男鹿の必死さを嘲笑うように、古市は男鹿の肩で身じろぎをする。もたれる場所がおさまりが悪かったのか、殊更男鹿の方へ身を寄せ、頭をもぞもぞと動かし場所を探る。居心地の良い場所が見つかったらしく、ふぅと息を吐く古市の太腿がぴったりと男鹿の太腿に触れている。古市の背中が男鹿の胸板を背もたれ替わりにしており、おそらく、真正面から見れば男鹿が古市を後ろから抱きかかえているような恰好に見えただろう。投げ出された足の先がぶらぶらと左右へ揺れ、同じように投げ出した男鹿の爪先にこつん、こつんと触れる。
 誘ってんのかこの野郎、と男鹿は眉間に皺を寄せる。それならちょっとくらい良い思いをさせてもらったって罰は当たらないはずだ。
 そろりと古市の背中に腕を回す。抱き寄せるつもりはなかったのだけれど、古市は背中が支えられて助かるのか、より一層体重を預けてくる。甘い匂いが強くなる。
 しくじった、と自分を追い込む結果になり男鹿は古市から身を離そうとしたが、それよりも先に古市がぼんやりとした声を漏らす。
「疲れたなぁ……文化祭終わるまでずっとこんな調子なんかな……」
 それが心底疲れた様子だったので、男鹿はもぎ離そうとした身を更に引き寄せ、古市が力を抜いても倒れないように支えてやった。
「まぁ、多分そうだろ」
「男鹿はいいよな、体力あるしさ。俺なんかヨワヨワだから、もうだめだ…。毎日朝起きるのしんどいんだぜー…筋肉痛で朝起きた時ロボットみてーだし」
「知ってる。ほのかがムービー送ってきたから」
「え、マジかよ。ほのかの奴、帰ったら文句言ってやんねーとな」
「いーだろ別に、面白かったし」
「いや、面白いから駄目なんだろ。ったく、ほのかは何かってーと辰巳君辰巳君って……くそー…ほのかの兄ちゃんは俺だっつーの」
「俺としゃべってるときはお兄ちゃんの話ばっかだぞ」
「え、マジか? そうかー。えへへー、そっかー…」
 力ないながらも憤っていたのが嘘のように、古市はころりと相好を崩す。なんだかんだ言いながらも妹に甘く、妹に好かれていると解ると嬉しいらしい。
 それを可愛いな、と男鹿は思う。
 表情豊かで、ころころと変わる顔色は見ていて飽きないし、整った容貌からは想像できないほど情けない顔をするのもたまらない。そういうところを好きになったんだと改めて思い、男鹿は表情がころころと変わるさまを間近で見られる位置をキープし続けなければと改めて思う。
 はふ、と噛み殺した欠伸に小さな涙が目尻に浮く。
「あー……悪い、ちょっと寝る……時間きたら…起こして……」
 その様は上気した頬と相まってとても色っぽい。
「おー……」
 きっとセックスをした後の古市も、こんな表情を浮かべるのだろうと思いを巡らせ、男鹿はハッと我に返る。
 あとちょっと何かすれば一気に倒れてしまうんじゃないかと思うほど弱り切った古市に何を考えているんだ、と男鹿は自分を戒め、せめてこの束の間の眠りだけでも守ってやろうと古市の背を支える腕に力を込める。結果として抱き寄せた古市は、するりと男鹿の首筋辺りに額を摺り寄せ、小さな寝息をたてていた。



男鹿の中では、自分の欲<古市、な図式が出来上がっていると思うので、万が一、自分の欲がばれる=古市どっか行く=それは駄目、な図式が出来上がってわけです。
そんな風に、古市がいなくなる状況が過去に一度でもあって、死ぬより辛い目に男鹿があって、それがトラウマになってればいいとか思ったりして。
男鹿って物欲とかあんまないけど古市に対する執着心は鬼のようにあると思うんだ。その原因がそのトラウマだといいと思うんだ。
というか男鹿の原動力と言うか行動理由はすべて古市でいいんじゃないの?と最近思ってます。
そんなわけで、さくはら先輩へハピバ献上品でした!!
リク内容:片思いする男鹿。