おかえりとただいまとそして



「うし、じゃあ行ってくっか」
 湿気ったせんべいをもりもりと食った後、のっそりと立ち上がった男鹿がうんっと背伸びをして身体のどこかの骨をぱきっと鳴らす。
 椅子に座ったまま茫然と、突然現れ好き勝手に己の部屋の中で動きしゃべる男鹿に目を奪われていた古市は、その言葉にハッと我に返る。すでに男鹿は部屋を出かけており、背中が見えるばかりだ。男鹿の背中にくっついたベル坊も、ばいばーい、とばかりに古市に手を振っていたので、古市は大慌てで椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。
 ラミアは最初から男鹿について行くつもりはないらしく、アランドロンにお菓子を要求している。対するアランドロンもいつぞやの時のように合戦ですぞと法被を用意する様子もなく、いそいそとどこからともなく(多分腹の中のある意味四次元ポケットから)取り出したプリンをラミアに差し出している。
 古市は狭い部屋の中をどたばたと大股で横切り、慌てて廊下に飛び出した。
「ちょっ、待てよ男鹿っ! 行くってどこにだよッ?」
「あ? 決まってんだろ、悪魔んとこだよ。ちょっと行ってぶっ潰してくる」
「ちょっと行ってって……一人で行くつもりかよ! またお前どうせノープランなんだろッ! 少しは考えて動けって前からあれほど…ッ…」
 部屋を出て数歩廊下を歩いていた男鹿は、ん、と振り返る。
 一見するとそれはのほほんとした、何も考えていないときの男鹿の表情だったけれど、古市はその内側に秘められた怒りのような感情を嗅ぎ取り、伸ばしかけた手を止めた。
 触れたら、その手を弾かれるような気がしたからだ。
 一瞬頭の中に入り込んだ『拒否されるかもしれない』と言う危惧は、古市の心の中に暗い影を落とす。たった数日離れていただけだったけれど、古市は確かに男鹿に会いたくてたまらなかったし、邦枝と一緒に泊りがけの修行に出かけていることが不安でたまらなかった。
 その前の修行とやらも、結果として帝毛学園のつるっぱげ四人組がいたから良かったものの、彼らが邦枝の祖父に弟子入りしていなければ、若者は二人きりで山籠もりをしていたのだ。
 それを聞いた時に感じた不安が再び溢れそうになり、古市は男鹿に触れたかった手をぎゅっと握りしめた。
 男鹿は古市の気持ちを少しも慮ろうとしない。
 口でどれだけうるさく強気なことを言っていても、古市だって不安にもなるし泣きたくもなる。男鹿に会いたくて会いたくて、声だけでも聴きたくて携帯電話を取り出しても圏外だからと繋がらず、過酷な修行にへこたれそうになって励まされたくても顔も見られない。
 どれだけひ弱でも男なのだから、男鹿が恋しくて泣くなんて馬鹿らしいことはしてはいけないと、堪えてきた。
 ずっと我慢してきたのだ。
 それが突然目の前に現れ、あたかもいつも通りずっと側にいたかのようにふるまい、ちょっと出かけてくるとばかりに悪魔を倒しに行くと言う。止めようとした手は男鹿の異様な迫力に触れることもできない。
 ためらったその手を振り払われたら、本当に、今度こそ泣く。
 黙りこくった古市の目の前で、男鹿がふーと溜息を吐く。
 その呼気にすら、古市はびくりと震えた。
「こいよ」
 傍らの部屋のドアを勝手に開き男鹿が顎をしゃくる。そこは古市家が物置として使っている部屋で、ごちゃごちゃと乱雑に物が置かれた部屋の電気を男鹿はぱちりと慣れた手で付ける。ほら、と再度促され、古市は己の家であるにも関わらず、敵地へ赴くような気持ちで足を踏み入れた。バタンと背後でドアが閉まった途端、古市はぎゅうっと温かいものに身体を包まれる。
 鼻先をくすぐる男鹿の匂いに、古市は目を見開く。
「………あー……」
 耳元に男鹿の吐息が触れる。身体中の息を吐き出すように長い溜息を吐いた男鹿は、古市の背に腕を回し、一ミリの隙間も許さないとばかりに抱き込んでくる。髪に顔を摺り寄せ、匂いを嗅ぐようにすんと鼻を鳴らす。
「古市だー……」
 逃れることなんて許さないと強く強く、骨も砕けよとばかりに込められる力に、古市はじわりと涙が滲んだ。それは痛みになどでは勿論ない。
「……おが」
 漏れた声に応えるように古市を抱き込む腕の力は強くなる。息苦しいその強さが、男鹿であることを間違いなく教えていて、古市はそろりと男鹿の背に手を伸ばした。ぎゅっとシャツを握りしめると、もっと、と男鹿が声を漏らす。
「もっと強く抱いてくれよ」
 古市は言われる通り、男鹿の背をしっかりと抱きしめた。背中にくっついていたベル坊は空気を察したのか男鹿の頭の上に避難しており、二人の抱擁を邪魔するつもりはないらしい。
「男鹿……」
 古市は男鹿の肩に顔を伏せ、ぐりぐりと額を押し付ける。匂いを嗅いで、抱きしめて、体温を感じて、これ以上なくここに男鹿がいると確かめたかった。
「会いたかったぞ」
「勝手に修行に行ったくせに」
「すげー会いたかった」
「俺を置いてったくせに」
「会いたかった」
「………俺だって会いたかったよ馬鹿男鹿」
 ひん、と喉が鳴ってぼろぼろと涙が零れる。
 男が泣いちゃまずいだろ、と止めようとするけれど、次から次へと溢れるそれは止める術もない。手で拭おうとしても男鹿が離してくれないので腕を顔の前に持ってくることもできない。それならと男鹿の肩でごしごし顔をこすり古市は、涙と同じくらい止められない愚痴をこぼした。
「毎日修行だとか言ってすげー過酷な運動させられるし、しんどいし、辛いし、他のみんなはちゃんとやってて、烈怒帝瑠の人らも頑張ってんのに俺だけついていけないし、俺だけ駄目だし」
「まー…しゃーねーな。古市はダメダメだからな」
 古市の後ろ髪を引いて強引に顔を上げさせた男鹿が、ごちんと額に額を触れさせる。その至近距離で見つめる目が優しくて、古市は喘ぐように続けた。
「お、俺は前から喧嘩は全然駄目なんだよっ! 力も弱いし、喧嘩もできないし、逃げることしかできねーのにいきなり悪魔と戦えとか言われたってできるわけねーだろ! なのにお前は邦枝先輩と離島だって言うし! 離島でも美女がいるとかって早乙女先生は言うし…! 俺ばっか、なんか、ひどい目にあってる…!」
 うん、と頷く男鹿が古市の涙を舐めとる。犬のようにぺろぺろと頬を舐められ、キスをされるのかと期待した古市の思惑とは裏腹に、ただ涙を舐めとるだけ舐めとって、男鹿は身を離す。
 離れてく唇に古市はとりつかれたように見入る。
「……キスしねぇの?」
 思わず漏れた言葉に、うわっ今のなしっ、と古市は慌てて否定をする。男鹿は笑って古市の銀色の髪を掻き回した。
「ははっ、お前、可愛いな古市」
「え、ちょ…男鹿っ、髪の毛やめろ…っ」
「今はしねぇよ、今はな」
 そうして自分が乱した髪を指先で梳きながら、愛おしくてたまらないと言うように、男鹿は古市の頬を包み込む。
「全部終わったら、な」
 そしたらゆっくりキスをしよう。
 そう小声で呟く男鹿に、うん、と古市は頷き返す。男鹿のように男鹿の頬に触れたいと両手を伸ばすと、どうやら次は自分の番だと勘違いしたらしいベル坊がダッと声を上げ、男鹿の頭の上から飛んでくる。
「うわっ、ベル坊!」
 慌てて受け止めた古市が焦っているのとは真逆に、男鹿は心底迷惑そうに顔を顰め、古市の腕の中できゃっきゃと歓声を上げるベル坊の頭を小突く。
「邪魔すんなよ」
「ダーッ!」
「あー? テメェが邪魔だっつーの」
「だぶーだっ!」
「はいはい、ベル坊にも会いたかったぞー」
 男鹿をそうしたようにぎゅうっとベル坊を抱きしめると、ベル坊も、あいーっと笑い声を上げ古市にしがみつく。相変わらずの裸の背中を撫でながら、この温もりにも飢えていたのだと古市は改めて思う。
「お邪魔虫め」
 舌打ちする男鹿を、ベル坊がアダッと睨み付けている。なんだよやんのかコラ、だーだだぶーっ、と言い合う親子の光景はすでに古市にもあって当然のものになっていたのだ。ヒルダが坊ちゃま不足だと訴える気持ちが少し解った。
 古市は片腕でベル坊を抱き、空いた手を男鹿の頬に伸ばす。
 ん、と目を向ける男鹿に、古市はすっかり言いそびれていた言葉を思い出す。
「おかえり、男鹿」
 言ってなかったから、と付け加えると、一瞬目を丸くしていた男鹿だったがすぐに破顔し、おう、と頷く。己の頬に触れる古市の手をぎゅっと握り、長い腕でベル坊ごと抱きしめる。
「ただいま」
 あいあいあー、とベル坊も声を上げる。
 古市は男鹿の首筋に額を寄せ、もうひとつの伝えたい言葉はすべてが終わってから言うよと心の中で告げる。
 それは伝わるはずもないのに、なぜか男鹿は、おう、と頷き、古市は溢れる愛しさに目を閉じた。



ただいまと、おかえりを言い合ったら、次にはキスをしよう。
そんな感じのお話です。
バブ130、あれちょっと問題でしょ。なんであの子、自分ち帰る前に古市んち行ってんのねぇ? 間違えちゃ駄目よ。そこは嫁さんの実家!寛いじゃ駄目なとこよ!!