にょたるふるいち4





 なぜだか今日と言うこの日は男鹿家を訪れるのに緊張する。
 家を出る間際、玄関脇の姿見でさっと自分の姿をチェックした。
 ちょっと伸びてきた髪はどこも跳ねていないし、いつもと違う場所で分けた前髪もちゃんとピンに収まっている。学校から帰ってきてから着替えたのは、私服じゃ滅多に履かない膝上のスカートだ。グリーンのプリーツスカートの下には黒のタイツを履き、白いブラウスの上に羽織ったチャコールのカーディガンはロング丈だ。
 コーディネートもばっちり、と最後にむにっと唇を持ち上げる。着替える前に歯をしっかり磨いたから、おやつに食べたたこ焼き煎餅の青のりはくっついていないはずだ。
「あれ、お姉ちゃんどっか行くの?」
 二階から降りてきた妹にそう声をかけられ、古市は、う、うん、と目を泳がせる。
「えと……あの、男鹿の家行ってくる…」
「じゃあほのかからもチョコ渡しといて! 美咲お姉ちゃんと、辰巳くんの分もあるから」
「あ、うん、解った……」
 リビングに駆け込んだほのかがすぐに戻ってきて、手には色違いの箱を持っている。赤い方が美咲お姉ちゃんで、黒いのが辰巳くんのね、と念を押され、古市は鞄とは別に持っている紙袋の中に入れる。それじゃ行ってきます、と玄関のドアノブに手をかけると、婚約者によろしくねー、とほのかに手を振って見送られた。
 婚約者、と古市の頬が赤くなり、熱くなる。その熱さときたら、二月の冷たい風を顔一杯に浴びながらも、ちっとも寒さなんて感じないくらいだ。
 三年生になった四月、古市は男鹿からプロポーズされた。
 一週間悩みに悩んで、いいよと頷いた。
 ずっと前から好きだった幼馴染に結婚してくれと申し込まれて、いろいろ複雑な家庭事情があるにせよとても嬉しかったし、そうできたらいいなと思ったからだ。
 結婚となる以上、古市一人の問題ではない。古市は当然、両親にも相談した。
 両親は男鹿がヒルダとベル坊と言う、正式に届けを出してはいないものの妻子ある身だと思っていたので猛然と反対したけれど、古市が順を追って説明し、あれは男鹿の子どもではなく、ヒルダともまたそういった関係ではないのだと伝えると、良かったわね、男鹿くんなら安心だ、と笑ってくれた。
 一月には男鹿も一緒に初詣に行って、おせちをつつき、こたつでミカンを食べた。帰り際、男鹿が両親に向かって、卒業したらちゃんと挨拶に来ます、と敬語を使って告げたのが妙に嬉しかった。
 つまりそれは、娘さんを僕にください的なあれだ。
 あらやだどうしましょう、と古市の母は頬に手を当て、うう、どうしよう、と古市の父は腕組みをして微妙な顔をしていた。それでも二人は、まだ先のことだからとそれ以降もいつも通りに遊びにやってくる男鹿とはいつも通りの距離を保っている。
 そんなこんなで迎えたバレンタインだから、何か特別なことをしなきゃと古市は日曜日、丸一日をかけてチョコレートケーキを作った。小麦粉を使わない、どっしりとしたものすごく濃厚なケーキだ。
 男鹿家の全員分としてパウンドケーキ型一本を箱に入れて、リボンをかけた。それとは別に、同じようなチョコケーキだけれど食べやすいスティック状に切り分け、ひとつひとつをグラシン紙で包み、パウンドケーキ用よりは小ぶりな箱に入れたものも用意した。男鹿用だ。どちらも冷やしておかなければならないから冷蔵庫にしまっておいた。学校で顔を合わせた男鹿がそわそわしていたので、学校終わったら、一旦家に帰って、それからそっち行くから、とあらかじめ言い置いておいた。
 ちゃんと大人しく待ってるかなぁ、と思いながら、古市はてくてくと寒い風の中を歩く。
 古市家から男鹿家までゆっくり歩いても徒歩十分。
 これから行くから、とメールしておいたけれど、玄関の前で男鹿が待っていたことには驚いた。
「おせーぞ」
 マフラーもせずコートも着ず、パーカーを羽織っただけの男鹿は赤くなった鼻をぐいと擦って眉を顰める。
「外で待ってなくても良かったのに」
「もうすぐ暗くなるし、危ねーかと思ってよ」
「子どもじゃないから大丈夫だっての」
「だからだ、馬鹿め。古市馬鹿め」
 まぁ入れよ、と男鹿は玄関のドアを開けた。先に入れとばかりに顎をしゃくられ、エスコートされたのなんて初めてだと古市はただでさえ赤くなった頬を更に赤くする。お邪魔します、と靴を脱ぐと、いらっしゃーい、とリビングから美咲が顔を出した。
「わぁたかちん可愛い!」
「へへ、ちょっとおめかししちゃいました」
「うん、たかちん緑もよく似合うよー。ね、辰巳、似合うよね!」
 古市の後ろに立ち、ぼーと女の会話が終わるのを待っている男鹿の脇腹を、美咲のエルボーが容赦なく抉る。ぐへっ、と妙な呻き声を上げた男鹿は、あー、と古市の恰好を改めて頭から爪先まで見やり、チャコールのカーディガンを摘んだ。
「モモンガみてぇだな。飛べるんか?」
「飛べねーわ」
 古市ははぁっと溜息を吐いた。まったく誰のためにおしゃれをしてきたのか、本人が気付かないのでは意味がない。古市は諦めて紙袋からいくつかの包みを取り出し美咲に差し出した。
「これ、みんなで食べてください。チョコケーキ、あたしが焼いたの。それでこっちがほのかから美咲さんへって」
「わーありがとう! お母さーん、たかちんがケーキくれたよー!」
「あらあら毎年ありがとね! あーほら辰巳! ぼさっとしてないでお皿出して! あんたとたかちんの分切ったげるから!」
 男鹿母がばたばたと台所へ戻って行こうとするのを、あっ、と古市は慌てて止めた。
「あの…、えと、その……男鹿の分は…あるので……」
 別で、とごにょごにょと小さく付け加えると、へぇ、と美咲がにやぁっと笑う。男鹿母は、あらまぁ、と目を丸くした後、すぐにいつも通りにかっと笑って、それじゃ紅茶だけ持っていきなさい、とマグカップを二つ渡してくれた。
「はいたかちん、こっちが砂糖入ってるからね。ごはんできたら呼ぶわー」
「お願いしまーす」
 古市は鞄を持っていたので、男鹿が差し出されたマグカップを二つとも受け取る。零すんじゃないわよっ、と美咲に睨まれつつも慎重に二階の男鹿の部屋へ移動する。
「あれ、ベル坊は?」
 いつもは男鹿の部屋でヒルダと遊んでいるはずのベル坊の姿が見当たらない。リビングにもいなかったはずだと辺りを見渡すと、ローテーブルにマグカップを置いた男鹿が、面倒臭そうにカレンダーを指差した。
「魔界、チョコ撒き…? なにそれ」
 二月十四日のところには緑のペンでそう書いてある。
「大魔王がまた思いつきでなんか行事やるんだと。豆撒きとバレンタインを合体させた行事らしーぞ」
「……あ、そう」
 豆の代わりにチョコを撒くのだろうか。それよりも本来悪を祓うはずの豆まきを魔界でやってもいいものかどうなのか。思いつきで人間界を滅ぼそうとした大魔王の考えることだ、深く考えてはいけないのだろう。
 適当に座れよと言われる前にクッションをぶんどっていつも通り腰を下した古市だったが、今日はちょっとおしゃれをしていることを思い出して、スカートの裾を慌てて直す。いつもはジーンズばかりなので、その調子でうっかり胡坐をかいてはいけないのだ。
 それから、鞄と一緒に持ってきた紙袋の中に手を突っ込む。
 男鹿の目がさっきからちらちらとそこを気にしていたのを知っていたので、もったいぶらずにさっさと渡してしまおうと思ったのだ。こういうのは後々になればなるほど気恥ずかしくて渡しづらくなる。
「男鹿」
「おう」
 なぜか生真面目な顔で頷く男鹿に、古市は紙袋から包みを二つ取り出し、黒いラッピングの箱をまず差し出した。
「これ、ほのかから……」
「ほのかかよっ!」
 男鹿が思わずと言ったように叫んだあと、あー、と呻きながら黒い箱を受け取った。
「サンキューって言っといて」
「うん。そんでこっちがあたしからね」
 はい、と渡すと、男鹿は神妙な顔で古市からの箱を受け取る。ちらりと上目使いに見上げる三白眼に、古市はやっぱりちょっと頬を熱くしながら付け加えた。
「言うまでもないけど、義理とかじゃないから」
「おう」
「友チョコでもないから」
「おー」
「……ほ、本命チョコだからね」
 おう、と男鹿が嬉しそうに綻ばせた頬が、わずかに赤くなっている。男鹿は慎重な手つきで箱をテーブルに置き、リボンを解いている。ひっくり返したりしてケーキが崩れたら嫌だからと包装紙はせずにおいた。男鹿は箱を開けて、一本ずつグラシン紙に包まれたチョコケーキを見ると、すげぇ、と目を輝かせる。
「古市、すげーなこれ。作ったんだろ?」
「うん、まぁ」
「食っていい?」
「お前のだからいいよ、食っていいよ」
 んじゃ一個、と男鹿はひとつチョコケーキを摘み上げるとグラシン紙をはがす。形が崩れたらどうしようとひやひやしていた古市だったが、男鹿の手の中でケーキは崩れることなく、ちゃんと形を保っている。男鹿は半分を一口で頬張り、うめぇ、と笑う。
「すんげーうまい。なんか、イチゴみてーな味がする」
「ラズベリーだよ。シロップ入れてみたんだ」
「俺、これ好きだ」
「そか、良かった」
 へらっと笑うと、もう一口で一本目をすべて食べ切った男鹿は、もうひとつ食べようかどうしようか迷っている。ミニケーキは全部で十本くらいは入れておいたから、二本食べてもまだあと八本あるはずだが、あまりに早く食べ切ってしまうのは勿体ないと思っているようだ。
「大事に食えよ。美咲さんに渡したみんなのとお前のとは味、ちょっと違うんだから」
「マジか」
 男鹿はぎゅっと眉を寄せ、伸ばしかけた手を引っ込める。
「みんなのはラズベリー入れてないから。男鹿のだけ入れてある」
 特別だから、と言葉にしなかった思いは、テレパシーで過たず伝わったらしい。男鹿はなんとも言えない優しい眼差しで古市を見つめていて、そか、と愛おしそうに頬を緩めている。
 伸ばされた両手がそっと大事なものを扱うように頬に触れる。ふるいち、と名前を呼ばれて、ああキスだ、と目を閉じると、すぐにふわりとチョコの香りのする唇が重なる。ちゅっちゅ、と触れるだけのキスを何度もして、額を摺り寄せる。男鹿の両手が首筋辺りで揺れる髪に触れて、伸びたな、と額を寄せたまま男鹿が目を細めた。
「髪、切らねーんか」
「結婚式、髪、長い方がいいだろ。ドレスとか、着るんなら」
「……そか」
 うん、と頷く前にまたキスをする。
 ごはんよー、と階下から呼ばわれるまでのその間、何度もキスをする合間に、男鹿に潜めた声で、その服似合ってるぞ、と囁かれ、古市は思わずへらりと笑みを浮かべ、間抜けな顔、とまたキスをされた。







らぶい。高校3年生の冬ですね。もう進路もおおむね決まってる感じで。でもって結婚も決まってて。式の日取りもぼちぼちって感じ。
でも身体の関係はないんだぜ!
なぜって古市が拒み続けてるからさ! ここまできたら初夜まで処女でいる!って言い張ってるんだぜ。
らぶい。