おがにゃんの場合
※時間軸は適当です。思いついた順番です。



 ヒルダ曰くネコネコの飴と言うのが以前古市が食べた飴の正式名称だったらしい。どこかで聞いたような気がしないでもないが深くは考えずにいようと古市は肩の上でごろごろと喉を鳴らし続けている黒猫をちらっと見て思った。
 どうせいずれはもとに戻れるし、人間として意識もあるからそう害があるわけでもない。
「おい男鹿、もうちょっとお前離れろよ」
 肩と言うよりもうほとんど首にマフラー状態で巻き付いている猫の前足を軽く突いてそう言うと、黒猫はふみーと鳴く。
 黒猫は男鹿だ。
 男鹿が猫になったらどんなになるのかなと言ったら警戒心も何もなくネコネコの飴をぱくりと食べてしまったのだ。
「あちーんだよ、お前の身体毛皮なんだからな」
 ぶみーと不服そうな声に古市は溜息を吐いた。
「いくら秋でもまだ毛皮には早いだろ…」
「……貴様、なぜ猫と会話が成立するのだ」
 聖石矢魔学園への上り坂をてくてく歩き、古市の横をベル坊を抱えて歩くヒルダが若干顔を引きつらせて尋ねた。にゃ、と黒猫が返事をするが、貴様には聞いておらん、とヒルダは顔も向けない。
「いや、なんとなく解りません? だって猫になったって男鹿だし」
 なぁと肩の黒猫、つまりは男鹿に顔を向けると、なうー、と男鹿は甘えた鳴き声を上げ、首を伸ばして古市の頬にすりすりと頬を摺り寄せる。はいはいよしよし、と黒く小さな耳付の頭を撫でると、小さな舌が古市の頬をぺろぺろ舐める。ざらざらした舌で舐められるので少し痛い。
「キモイ……」
 だう、と思わず呻いたベル坊とヒルダの顔は心底気持ち悪そうに歪められているが、古市からしてみれば黒猫に懐かれていて心は癒されるし、しかも中身が男鹿とはいえ普段とやってることは大して変わらないので違和感はない。
「そーすか?」
 首を傾げた古市の耳に、あれー、とのほほんとした夏目の声がかかる。
「古市くん、その猫どーしたの?」
 見れば神崎、城山、夏目、姫川が連れだって歩いていた。
「あ、おはようございます。これ男鹿なんですよ。猫になっちゃう飴食べちゃって」
「へー…そんなんあるんだぁ。わぁ男鹿ちゃん可愛いねぇ」
 夏目は恐れもなく男鹿の頭を撫でるが、男鹿は全身の毛を逆立ててふーふー唸っている。肩の上で立ち上がるのはいいが、爪を立てるのはやめてほしい。シャツに穴が開くし、痛い。
「ちょ、男鹿、痛い」
 顔を顰めるとハッとしたように爪はひっこめられた。しかし逆立った毛は元に戻らず、ぐうぅううと唸る威嚇の声も収まらない。
「へー…こいつが男鹿かぁ。なんだかちっこくなっちまってまぁ…。ん?ひょっとして今なら俺、勝てるんじゃねぇの?」
 神崎がにやっと笑みを浮かべ、どうだ男鹿やるか、と手を伸ばしてくる。逆さまにするのか振り回しでもするつもりなのかは知らないが、古市は慌てて声をかけた。
「神崎先輩、その猫……」
「あん?」
「強いですよ」
 男鹿の首根っこを掴んだ神崎は、目の端にぎらっと光る黄色い目を捉え、ハッと手を離したが遅かった。
「フギャアアアアアッ!」
 とんでもない絶叫とともに小さくとも威力は相当ある猫爪が目にも止まらぬ速さで神崎の目の前を襲う。
「いってぇええええ!」
 網状に引っかき傷を作った神崎の顔を男鹿は最後に蹴り飛ばした。猫になっても蹴りの威力は変わらないらしい。軽くどんと吹き飛んで行った神崎を、思わず留めるように伸ばした古市の手は所在無く宙に向けられる。
「男鹿、お前ちょっとは加減しろよ…」
 がっくり落とした古市の肩に、満足そうな男鹿がとんと軽く戻ってくる。ごろごろと喉を慣らし、褒めて褒めてと頬を摺り寄せる男鹿を、よしよし、と古市は撫で、そんな一人と一匹を夏目、姫川、城山の残された三人は生ぬるい眼差しで見つめていた。






 今日も男鹿は、窓際に置いたカラーボックスの上に座り、古市に背を向けている。真っ黒の毛皮に覆われた背中は自己嫌悪に陥り意気消沈しているように見え、古市は溜息を吐く。
 二日前まで男鹿の首にあった赤い首輪は、近所の犬と喧嘩をして引き千切られ、ずたぼろになってしまった。男鹿に大きな怪我がないので古市としてはそれで良かったのだが、男鹿はどうやら古市に買ってもらったばかりの赤い首輪を壊してしまったことがショックだったようだ。千切れた首輪を引きずりながら帰ってきた男鹿は、古市が千切れた首輪を棄てようとすると、古市の手から首輪を奪い取って毛を逆立てて怒っていた。棄てないからと約束して、小さなお菓子の箱に千切れた首輪を入れ、カラーボックスの上に置いてやったらそれ以来その側から離れなくなってしまった。
 ネコネコの飴を食べて猫になってからずっと部屋の中を走り回ったり小さい身体だからこそ行ける場所に潜り込んだりと騒がしかった数日が嘘のように、この二日の男鹿は大人しい。男鹿が猫になって以来、猫になった男鹿と一緒に古市家で暮らしているベル坊が心配するくらい大人しいのだ。
 今もベル坊はローテーブルの上に広げたお絵かき帳に落書きをして遊んでいたのだが、その手を止めて古市を見上げ、あだー、と男鹿を指差している。その頭を撫で、古市は腰を上げた。
「男鹿」
 カラーボックスに近付いて声をかけると、窓の向こうに目をやっていた男鹿がちらりと振り返る。黄色い目は罪悪感で一杯だ。
「そんな落ち込むなよ。首輪ならまた買ってやるしさ」
 なう、と男鹿は小さな声を漏らし首を振る。古市は少し首を傾げた。
「もういらねぇの? 首輪、喜んでたじゃん」
 男鹿はふるりと首を振って、また窓の向こうに顔を向ける。
 これはどうしたものか、と古市は眉を寄せた。
 男鹿に首輪をつけたのは、猫になった男鹿を見た東条が、野良猫に間違えられたら保健所に連れてかれちまうぞ、と言ったからだ。それはいかん、とその日の学校帰りにペットショップで猫用の赤い首輪を買った。飾り気のない赤い首輪を男鹿は嫌がるかと思ったけれど、意外にも素直に古市の手に甘んじ、家に帰ってからも部屋の姿見に自分の姿を写して首輪を眺めていたのだ。
 男鹿がアクセサリーを気に入るなんて珍しいと思っていたが、そう長く持たなかった首輪にここまで執着するとはさらに珍しい。
「なぁ、明日もっかい買いに行こうぜ。千切れちゃったもんはしょーがねーだろ。新しいの買ってやるからさ」
 ふるりと首を振った男鹿が、なー…、と小さく鳴く。古市はその鳴き声に目を見張った。
「え、それ……俺から初めてもらったものって……」
 古市は目を丸くしたまま男鹿と首輪を見比べた。
 男鹿はふみーと鳴いた。古市が初めてくれたものだから大事にしたかったのに、と悔いる猫の鳴き声に、古市はそうだったかと首を捻る。
 言われてみれば確かに人間の男鹿にも特別何かを上げた覚えはない。
 誕生日のプレゼントもお菓子だとかそんな程度だったし、改めてこれと渡したものはないような気がする。
 だが、そのせいで、通りで、と首輪が千切れてからの男鹿の行動が腑に落ちた。
 千切れた首輪に張り付いて、古市に背を向けてばかりの男鹿は、古市に顔向けできなかったのだろう。大事にしたかったものを、大事にできなかった悔しさに情けなくもあったのだろう。
 まったく、猫になってもそういうプライドは高い男だ。
 古市はふっと笑うと、手を伸ばし男鹿の小さな頭を撫でた。むー、と声を漏らす猫を抱き上げる。両脇に手を差し入れぶらんと持ち上げると、黄色の目を据わらせた黒猫がふてくされた声でふみーと鳴く。
「あの首輪、大事にしてくれて嬉しいけどさ、お前が元気ないと心配するだろ」
 なぁう、と甘える声に古市は己の額を猫の額に押し付ける。ぐりぐりと毛むくじゃらの顔に顔を押し付けていると、にゃ、と呻く声を上げた男鹿が古市の頬を爪を立てていない柔らかな手でそっと押し返す。顔中の毛を逆立てて迷惑そうな顔をしている男鹿をカラーボックスの上へ下し、ごめんごめんと謝って、古市は男鹿の顔を撫でた。
「な、明日新しいの買いに行こうぜ」
 むぅと唸る猫においでと手を差し伸べると、男鹿はとことことやってきて古市の腕に抱えられる。そしてことんと胸に顔を押し付けるようにもたれ、なぅ、と小さく鳴いた。
 ごめんな、と謝る男鹿を、謝る必要ねーだろ、と笑い飛ばし、古市は猫の身体を抱きしめ、今度は違う色の首輪にしようぜ、と甘える男鹿を見おろし目を細めていた。






 ソファに座り雑誌を捲る古市の膝の上に男鹿はよっこらしょと飛び乗った。ちらっと見上げれば古市は「ねこのきもち」なんて雑誌を読んでいる。そんなもん読んでも役立たねぇだろ、と言うつもりでなぁうと鳴けば、いやー…、と古市は感心したような声を上げた。
「これ結構参考になるぞ。猫の行動理由が解るんだ」
 猫の行動理由が解っても仕方ねぇだろ、俺は一応人間なんだし、と男鹿はぶみーと鳴いたが、古市はなぜかドヤ顔で、いやいやと首を振る。
「そうは言うけどな、男鹿。結構猫っぽい行動してるぞ。爪研いでるし、顔洗うし、寝る前にぐるぐる寝場所定めようと歩き回るし、ついでに言うと俺の顔の側で寝るしな。知ってるか? 猫は好きな相手の顔の側で寝るらしいぞ。嫌いな相手だと足の方に行っちゃうらしいぞ」
 ふふんと笑う古市に、そうかよ、と男鹿は溜息を吐く。古市は上機嫌で「ねこのきもち」を読んでいて、その顔は本当に嬉しそうだ。男鹿が自分の顔の側で寝ているのが嬉しいらしい。
 昨日は近すぎて鼻に抜毛が入ると怒っていたくせに、解りやすい男だ。
 やれやれと思いながらも、男鹿は古市の膝の上でもぞもぞと足を動かした。なんだかよく解らないけれど、妙に足踏みをしたい気分だ。足の裏、肉球がむずむずするような感覚で、古市の膝を揉むように足を動かすとちょっと気持ちがいい。手を開いたり閉じたりしながら、よいしょよいしょと足を動かしていると、「ねこのきもち」を読んでいた古市がぶはっと笑い声を上げた。
「男鹿、そうやってモミモミするのは最大級の愛情表現らしいぞ」
 男鹿はハッとして足踏みを止める。無意識のうちにやっていたことを最大級の愛情表現なんて言われてはたまらない。
 古市が上機嫌で、そんなに俺が好きかー、と頭を撫でてくるので、慎重に爪を引っ込めたままの手でパンチをする。当たり前だろ好きなんだからっ、とちょっと気恥ずかしい思いでぶみーっと鳴くと、ローテーブルの前に座り、ベル坊とお絵かきをして遊んでいたヒルダがぼそっと呟いた。
「相手の上で足踏みをするのは、相手を殺そうとして弱点を探しているからだとこの本には書いてあるがな…」
 さてどちらが正しいのやら、と呟くヒルダの手の中には「ねこのひみつ」というタイトルの雑誌がある。けらけらと笑い声を上げながら、男鹿の猫パンチを受けていた古市は、ヒルダの言葉を聞くと頬を引きつらせ、男鹿を見下ろす。
「……お前、まさか俺を殺すつもりじゃねぇよな?」
 ちょっと心配そうな古市の顔に猫パンチを浴びせる。ぶにゃーっと叫んだ男鹿の鳴き声に、ヒルダは何を言っておるのだと首を傾げたが、古市は引きつっていた頬を真っ赤に染め、いや、別に、と口元を押さえている。
 男鹿はふふんと丸めた手で顔を拭う。
 殺して俺のものにしたいくらい好きだけど勿体ないからしない、なんて、人間の時には恥ずかしくて言えない言葉も、猫になったらにゃあの一言で古市は正しく理解してくれたようだ。
 真っ赤な顔をした古市を見上げ、みゃう、と鳴くと、ああもうくそ、と古市が呟く。俺もだよと舌打ちに紛れて聞こえた言葉に、男鹿は目を細め、みーと鳴いた。ローテーブルの方からはヒルダの何やら気味悪いものを見るような冷めた眼差しが注がれていたが、男鹿は気にせず古市の腹に頭をこすりつけていた。






 家の玄関の前の塀の上で男鹿は目を閉じ丸くなっていた。
 秋口なのに天気は良くぽかぽかと日差しが暖かい。うつらうつらしながらもぴんとたった耳は道の気配を探っている。
 男鹿は古市が帰ってくるのを待っていた。
 ちょっと朝寝坊している間に古市は一人で買い物に出かけてしまったのだ。
 俺をおいていくなんてと憤慨した結果、古市の枕はズタズタになってしまった。きっと怒られるだろうけど置いてった古市が悪いのだ。
 苛々しながら尻尾を振り回していると曲がり角から古市の話し声が聞こえてくる。
 帰ってきた、と飛び起きた男鹿は角を曲がってやってきた古市の横に邦枝の姿を見つけ毛を逆立てる。
 俺が猫になって大変な目にあってんのに女と出かけるなんて! 古市のアホ!
 目を釣り上げる男鹿に邦枝の方が先に気付き古市に教える。
 塀の上を見た古市はなんだよ待ってたのかよと笑って手を伸ばしてきた。
 男鹿は苛立ちのままその手を振り払おうとしたが自分の手が猫だと言うことを忘れていた。
 さっとないだ爪が古市の手に傷をつける。
 痛っと叫んだ古市の手から血が滴る。
 男鹿は自分の爪が古市に傷をつけてしまったことに驚き目を見張る。
 古市は、なにすんだと言い掛け、男鹿を見て言葉をとめた。代わりに大丈夫だぞ痛くないから、と優しい手で男鹿を撫でる。
 男鹿にはその優しさがいたたまれない。それに古市にあわせる顔もなく、塀の上から飛び降りる。
 おい、どこ行くんだよ、と呼び止める古市の声にも振り向けず、男鹿は脱兎のごとく逃げ出した。






 ふみーと古市を呼ぶと、ベッドに寝転がっていた古市が、んーどしたーと顔を向けた。
 広げていた雑誌を閉じて身を起こし、おいでおいでと手招く。別に何かしてほしくて呼んだのではないけれど、古市が待っているので、男鹿はベッドに飛び乗って古市を見上げる。
 頭撫でろ、とみゃあと鳴くと、古市ははいはいと言って男鹿の頭を撫でる。もっと、とねだると、古市は少し苦笑して男鹿をすくうように両手で抱き上げた。そのまま寝転がった古市の胸の上におろされ、お前は猫でも人間でも甘えただなぁと笑われる。
 ばかめ古市、と言うつもりでぶみーと鳴いた男鹿の耳を、誰がばかだ、と古市が引っ張った。たが加減された力で引っ張られても痛くない。男鹿は耳をぴぴっと動かし古市の顔の方へ移動する。頬に頬をすりよせ、キスをするつもりで古市の顎を舐める。好きな奴に触りてーのは当たり前だろ。ぶみーと鳴くと古市は一瞬目を見張った後すぐに、俺も好きだぞ、と柔らかく綺麗な顔で微笑した。






にゃんこ、にゃんこらぶ…もふもふしたい。
にゃんこ萌えがとどまりません。