いとたん!



 目を細めた男鹿を膝の上に乗せブラッシングをする。寒がりの古市には男鹿は丁度いい湯たんぽ替わりで、男鹿は古市に構われるのならなんだって幸せなので、男鹿が猫になってからと言うもの、男鹿のブラッシングが一日として空いたことはない。
 今日も学校から帰ってゲームをして遊んだらブラッシングタイムだ。
 ふんふんと鼻歌を歌いながら男鹿の黒い毛皮に猫ちゃん用のブラシをあてていると、フローリングの床に直接座り込み、お絵かき帳に落書きをしていたベル坊がぺちぺちと古市の手を叩いた。
「あーだーっ!」
「ん、どした?」
 古市がブラッシングの手を止めると、糸のように細められていた男鹿の目がふわりと開く。金色の目が古市の手にぺちぺち触れているベル坊を見つけると、途端にぶんっと尻尾が振り回された。
 邪魔すんな、とでも言うように男鹿は、ニャウ、と鳴く。
 ベル坊はにぱっと笑うと男鹿の頭をごいごいと力任せに小さな手で撫でた。ベル坊に撫でられる屈辱に男鹿はぐっと堪えている。以前、ベル坊に撫でられまくって嫌になり逃げだしたら盛大に泣かれてしまったのだ。
 古市も苦笑して男鹿が耐えているのを眺めていたが、黒く長い尻尾がぶんぶんと振り回されるのを見て、そろそろ助けてやろうかな、と手を伸ばした。
「どうした、ベル坊?」
 男鹿を床に下すと冷たい寒いとうるさいので、ベッドの上へ下す。ベッドのシーツが冷たいと文句を言う男鹿を無視して、とりあえずベル坊を構ってやろうと膝の上に乗せた。多分、男鹿膝の上に乗って構われているのが羨ましかったのだろう。
「あいーっ、だぶっ!」
 案の定ベル坊は古市の膝の上に座らされると、喜んで両手を叩き始めた。小さな手を精一杯広げ、だっだっ、と自分の頭を叩いている。それからまた古市の手をぺちぺちと叩き、もう一度自分の頭だ。
 何言ってんだろう、と古市は眉を寄せる。
 男鹿の言っていることなら例え猫になったって九割方解るのに、ベル坊の言葉となると別だ。こちらに関してはヒルダの方が的中率はいいのだが、生憎ヒルダは魔界に行っている。魔界製の猫ちゃん用トキメキ玩具を調達しに行ったのだ。
 それよりもまず男鹿を人間にする薬を探してきてくれと古市は言いたいのだが、ベル坊が猫になった男鹿の姿を気に入ってしまったので、しばらくは人間に戻れないらしい。
 男鹿は男鹿で古市に構われて甘やかされる率が格段に高いのは猫の方だからもうしばらくならこのままでいいと言っているし、ヒルダに至っては、貴様らの腹立たしいイチャラブも男鹿が猫の姿ならまだなんとか我慢できる、と言って積極的に男鹿を人間の姿に戻そうとはしない。
 古市も猫の方が扱いが楽だなぁと思い始めてもいるけれど、でもやっぱり人間に戻るべきだ。男鹿が猫になって以来、ベル坊は古市家にいる。男鹿が古市から離れないので仕方ないのだ。たまに男鹿家に泊まっているけれど、男鹿が猫の状態の男鹿の部屋に泊まるのも奇妙な感じだ。古市の家族も猫になった男鹿とベル坊を柔軟に受け止めてはいるけれど、ベル坊の世話をまるっと引き受けている古市は結構大変なのだ。
 特に最近、ベル坊がやたら甘えるようになったので尚更だ。
「あ、もしかしてベル坊もブラッシングしてほしいのか?」
 何度も自分の頭と古市の手をぺちぺちと叩くベル坊の言いたいことがようやく解り、古市がそう尋ねると、ベル坊は満面の笑みで頷いた。
「あいっ」
「そっかそっかー、ベル坊もブラッシングしてほしいのかー」
 よしよし、とベル坊の頭を撫でると、ベル坊はむぅと頬を膨らませる。あれ違うの、と目を丸くする古市が見下ろすと、ベル坊は床に置いた猫ちゃん用ブラシを睨み付けている。どうやらあれで頭を撫でろと言いたいようだ。
 古市はへにょりと眉を下した。
「ベル坊、あれは猫用だからベル坊には使えないんだよ」
「だぶっ」
「いや、そんなこと言われても……。ベル坊のなら王族専用とかってブラシあるだろ? ほら、ヒルダさんが置いてったやつ、あれで……」
「あだっ!」
 ベル坊の荷物が置いてあるところへ手を伸ばそうとすると、ベル坊が閃光のごとくスピードで古市の手を叩き落とす。
「いてっ」
「だうぃーっ!」
 ベル坊は目を吊り上げて猫ちゃん用ブラシを指差している。どうしても男鹿の猫ちゃん用ブラシでブラッシングをしてほしいようだ。けれどあれは猫用だし、それに王族専用でないブラシでベル坊の髪を梳いたと解ったらヒルダに何をされるか解らない。
 まさかたかだかブラッシング程度でと思ってはいけない。
 あの悪魔のような侍女は、いや実際悪魔なのだが、ベル坊に使うものは高級品でなければならないと固く信じているのだ。まさかペットショップで買った五九九円の猫ちゃんブラシがベル坊の髪に触れるなんて恐れ多くも罰当たりなこと、ありえるはずもないと思っているのだ。
 うーん、困ったなぁ、と古市は眉を寄せる。
 ベル坊は今にも泣きそうにぷるぷる震えているし、かと言って自分の命を危険にさらすわけにもいかない。このままベル坊が泣いて癇癪を起こしても結局痛い目には合うのだけれども、ヒルダのように本気で命を狙っているわけではないのだから、どちらかと言えばベル坊の癇癪の方がいいかもしれない。
 でもできればびりびりは食らいたくない。
「ううううう……」
 じわじわと溢れる涙に、古市はなんとか打開策を見出そうと焦る。
「あああああっ、ベル坊泣くな泣くなっ! 男がそれくらいで泣くんじゃないってなんか俺、男鹿みたいなこと言ってないっ? てゆーかこれくらいでマジで泣くのやめて! ほらベル坊、高い高ぁいっ!」
 必死でベル坊の意識を逸らそうと、立ち上がってベル坊を高い高いしていると、ベル坊がだぁっと両手を上げる。ちょっと機嫌が治ってきたようだったので古市はここぞとばかりに追撃をする。
「よしっ、振り回してやるぞ!」
 男鹿のようにうまくは行かないけれど、ベル坊の両手をしっかりと持ってぐるぐるとまわり始める。するとベル坊も嬉しそうにきゃっきゃっと歓声を上げる。ブラッシングからうまく気を逸らせたことにホッとしつつも、今やめればまたブラッシングに戻る、と古市は必死でベル坊を遊ばせる。
 人間メリーゴーランドに高い高い、お馬さんごっこ、挙句は床に寝転がった古市の足の上にベル坊を乗せての飛行機だ。
 ぜぇぜぇと息を見出しながらあやしていると、すっかり存在を忘れていた男鹿がトッと軽い足音を立ててベッドから飛び降りてきた。
 すたすたと寝転がっている古市に近付くと、顔の側で、ぶみゃーっと大声を上げる。
 俺を構え。
 不遜にもそう命令する男に、あのなぁ、と古市は寝転がったまま顔だけを男鹿へ向け眉間に皺を寄せた。
「状況見ろよ! 今はベル坊と遊んでんのっ!」
 ニャーッ、と男鹿が声を張り上げ、うるせぇ、と古市は顔を顰める。
「そんなこと言っても駄目っ! ベル坊が先! 男鹿は後!」
 古市の足の上でぶいーっと飛行機の真似をしていたベル坊が、もっとしろと急かす。はいはーい、と古市は足を動かし、男鹿を構うのは後にしようとベル坊のご機嫌を取るのに必死になっていたのだが、敵は手強かった。
 ぐぅうう、と不機嫌そうな声で何かを呟き、男鹿がゆらりと動く。頭を下げ、お尻を高く上げる。獲物を狩る猫の動きに、なんだ、ネズミでもいたのか、と古市が不思議に思った時、男鹿は素晴らしい跳躍力で飛び上がった。
「ぐえっ」
 どすんと勢いをつけて下りた先は古市の腹の上だ。しかもしっかりみぞおちの上だ。思わず呻き声を上げた古市を、にやぁっと嫌な笑みを浮かべて男鹿が見下ろしている。
「お、男鹿……テメェ……ッ」
 振り落としてやろうとしたが、足の上にはベル坊がいて身動きができない。
「あいあいあーっ!」
 ばしばしと古市の足を叩き、ベル坊は飛行機を再開させろと要求している。
「はいはいベル坊ちょっと待ってなー! 男鹿、テメェは一旦降りろっ!」
 腹の上の男鹿が不機嫌に足踏みをしている。みぞおちの上で猫がどすどすと動き回ると結構圧迫感があって苦しい。顔を歪めて振り払おうとすると、男鹿はぴょいと俊敏に動いて古市の手を避ける。
「男鹿っ!」
 目を吊り上げる古市を嘲笑うように、男鹿はみぞおちの上をぐるぐると歩き回り、どすんと腰を下した。
「お、が! 降りなさいっ!」
 首根っこを掴もうとするとべしっと手を叩かれる。勿論爪の出ていない猫パンチだったけれど、男鹿の力で叩かれると結構痛い。猫になっても男鹿の腕力は変わらない。驚異の生き物なのだ。
「だーだうぃーっ!」
 テメェ覚えてろ、と古市が睨んでいると、動かない飛行機に焦れたベル坊がべしべしと古市の足を叩く。急かされ仕方なく足を動かし始める古市の腹の上で、男鹿がゆっくりと尻尾をくねらせている。
 満足そうな顔しやがって…、とぎりぎりと怒りを抑え込もうとする古市の上を、男鹿がもぞもぞと這い上がってくる。丸くなっていたのが伸びあがり、べったりと胸に張り付いた男鹿は、なう、と可愛らしい声で古市の顎をぺろりと舐めた。それから毛むくじゃらの顔をすりすりと顎の下に押し当てる。気が済むまでそうした後、男鹿は古市の首の上に顎を下す。つまり古市の胸の上に男鹿の身体が長々と寝そべったのだ。
 心地良さそうに揺れる尻尾は古市の気持ちを宥めるように時折古市の腹に触れては撫でて行く。
 どうやら、下りる気はまったくこれっぽっちも文字通り猫の額ほども思ってはいないらしい。
 こうなった男鹿は頑固だ。
 誰が何をどう言おうとも自分の考えを変えはしない。
 古市は怒りを諦めに変え、溜息を吐く。男鹿の耳の先に溜息が吹き付けられて、黒い尖った耳の先がぴぴぴっと動く。
「あいあいあーっ!」
 大喜びのベル坊に飛行機を続行しつつ、古市は手を伸ばし男鹿の額を指先で掻いてやる。
 後でブラッシングしてやるからな、と小さな声で囁くと、男鹿はごろごろと喉を鳴らし目を細めた。



いとさんへのお誕生日おめでとプレゼントです!
なんとクリスマス生まれなんですってよ! クリスマス絡みにしようと思ったけど入れる余地がなく無念な結果に…。ぐぬぅ。
リクは古市とベル坊が男鹿が嫉妬するくらい仲良くしてる感じのってことで。
どうだクリアだ! クリアですよ、ね……?
いとさん、おめでとでーすw