柔らかな力




 ピピピピッと小さいけれど耳に障る電子音に、古市はひどく重く感じる手を持ち上げた。脇に挟んでいた体温計を取り上げると、三十九度二分の数字がくっきりと浮き上がっている。通りで身体が重いはずだ、と体温計をケースに戻し、ぱたっと手を落とす。ベッドの上のシーツがいつもは何とも思わないのに、今日はやけに冷たい。熱で肌が敏感になっているのだ。
 朝から身体が重く、節々が痛い。大事を取って横になっていたら、どんどんと症状は悪化してきた。そして体温を測ってみたら三十九度を超えていたと言うわけだ。平熱が三十六度前後の古市にとっては高熱だ。
 古市は、しんどいなぁ、と思いながら目を閉じる。
 毛布を手繰り寄せて肩までを覆い、とにかく寝て治すしかないかと息を吐く。
 母親は古市の体調不良を知ってはいたが、妹のピアノの発表会があるので父親ともども出かけている。どちらか残ろうかと言われたが、子どもじゃないんだからと断っていた。
 ほのかのピアノの発表会は所属しているピアノ教室の全国的なもので、出られるチャンスはあまりない。ほのかが毎晩遅くまで練習していたのも、両親が発表会を見に行くことを楽しみにしていたのも知っていたので、二人でちゃんと見てきてやってよ、と送り出した。
 他県での発表会はどちらかと言えばコンクールに近い。泊りがけで出かけて行ったので、帰ってくるのは明日の夜だ。
 うまいこと弾けてるといいんだけどなぁ、と心配そうな妹の顔を思い出す。発表会当日に余計な心配をかけてしまって申し訳ないと思う反面、それで失敗なんかするなよとも思ってしまう。
 目を閉じてそんなことを考えている間に、少しばかり古市は眠っていたようだった。
 ひやりと額に触れる心地よい感触に目を開き、側にあった人の気配に目を瞬く。
「あー…、起こしたか?」
 すまん、といつもよりも小さな声で囁くように詫びる男鹿の顔を、古市はぼんやりと見上げる。
 熱に浮かされて夢でも見ているんだろうか、と瞬きを繰り返す男鹿をじっと見つめていると、男鹿はベッドに腰を下し、手の甲で古市の頬に触れた。
「喉、乾いてねーか? ポカリあるぞ」
 頬を撫でる男鹿の手は冷たく乾いていて心地良い。思わずするりと頬を摺り寄せると、男鹿は少し笑い、もう少ししたら冷えピタ変えてやるからな、と言った。持ち上げるのも億劫な手を額にやると、寝に落ちる前にはなかった冷えピタが貼ってある。
「…これ、お前…?」
 がしたのか、と続けるつもりだった言葉は、口を開くしんどさに負けて消えてしまう。けれど男鹿は正しく理解し、おう、と頷いた。
「おばさんから電話あってよー。お前が熱出したっつーから様子見に来たら、すげーデコ熱ィしよ、びっくりしたぜ」
 家には冷えピタなんてなかったはずだ、と古市がよく考えのまとまらない頭で一生懸命答えを探していると、男鹿は古市の頬を撫でながら笑う。
「冷えピタとポカリと、あとゼリー買ってきたからな。風邪薬は適当なもん飲ませねぇ方がいいって姉貴が言うから買うのやめた。明日の朝になっても熱引いてなかったら、病院連れてってやっから、それまで我慢しろな」
 うん、と古市はぼんやりと頷き、男鹿を見上げる。
 男鹿はいつになく優しい目をして古市を見つめていて、その目に見られていると言うだけで古市はほっとして身体が軽くなるようだった。
「姉貴がおかゆ作ってっから、それ食ったらもう一回寝ろよ。朝からなんも食ってねーだろ」
 朝から、と言う言葉に、今は何時だ、と古市は視線を巡らせる。
 壁掛けの時計は夕方を示していて、少しの間寝ていたつもりが四時間近く寝ていたことに驚いた。一階の台所からは物音がしていて、男鹿の言う通り美咲がおかゆを作ってくれているのだろう。美咲は何度も古市家を訪れているし勝手も知っている。しばらく待っていれば美咲がおかゆを運んできてくれるだろう。
 きっと男鹿はそれを古市に食べさせて、冷えピタを貼り変えてくれるはずだ。
 それが終わったら、帰ってしまうのだろうか、と古市は目を瞬いた。
 背中にいつも張り付いているベル坊の姿はないが、十五メートル制限を考えると、ベル坊はヒルダと一緒に古市家のリビングにいると考えるのが妥当だ。魔王や悪魔にどれくらい影響があるか解らないけれど、風邪菌が蔓延した家に赤ん坊を置いておくなんてとんでもない。
 帰っちゃうんだろうな、と古市はぼんやりと思う。
 優しい目をして古市を見下ろし、お前でも風邪引くんだなぁ、と笑う男鹿はもう少ししたら帰ってしまう。
 帰ってほしくないな、と古市は引き止めたくなる手を、毛布の下でぐっと握りしめた。
 本当は男鹿の手を掴んで帰らないで側にいてと言いたかったけれど、ベル坊のことを考えるとそうもいかない。自分は高校生で、一人で留守番できないほど子どもでもないのだから、男鹿が帰ってしまうからと言って駄々をこねることもできない。
 だからぐっと手を握りしめて、側にいてと言いたくなる口をしっかりと噤む。
 それなのに男鹿はふっとさっきよりもよっぽど優しい微笑を浮かべ、古市の髪を撫でる。身を屈め、目元に、頬にキスを落とし、毛布の上から古市の手に手を重ねた。
「ベル坊は俺んちにいるし、ヒルダが面倒見てる。お前が寝込んでるって知って、ベル坊が自分でリンク切るから看病に行けって言ったんだぞ。すげーな古市、ベル坊にリンク切らせるなんて相当だぞ。熱下がるまで一緒にいるから、そんな顔すんな」
 するりと冷えピタ越しに男鹿の額が額に触れるけれど、冷えピタのせいで感触は伝わらない。けれど間近にある男鹿の目に、うん、と古市は頷く。
 もそもそと毛布から手を出すと、ぎゅっと握りしめてくれる。男鹿の長い指が一本一本絡みつき、しっかりと隙間なく手を繋ぐ。ちゅっと音を立てて唇にされたキスに、風邪がうつる、と古市は弱々しく訴えたけれど、男鹿は、俺にはそんな軟弱な風邪はうつらねー、と意に介さない。
 男鹿の甘いキスを受けながら、どうしてかな、と古市は弱った心で考える。
 男鹿には何をどうすれば古市を喜ばせることができるか、何もかも解っているようだ。キスをして手を繋いで、側にいてほしい。熱に浮かされ弱った古市を甘やかしてほしい。そんな風に思い、けれどそんなこと無理だろと諦めた古市を、思う通り甘やかしてくれる。
 超好き、と呟くと、目を丸くした男鹿が、俺もだ、とすぐに目を細める。
 何度も何度も繰り返されて、キスに溺れそうになった頃、美咲がおかゆを持ってやってくる。古市に覆いかぶさっている男鹿を見て、こら辰巳っ、たかちんは病気なんだから労わりなさいっ、と目を吊り上げる。
 うっせーな労わってんだよっ、と言い返す男鹿と、どう見たって襲ってるようにしか見えないっつーの、と回し蹴りをかます美咲とのやり取りを眺めながら古市はさっきまで感じていた泣きたくなるような寂しさがどこかへ消え去ってしまったことに気付き、男鹿パワーってパネェ、と笑い声を上げた。




ツイッターで頂いたリクエストより、風邪引いた古市を看病する男鹿、のお話でした。
男鹿つっても男鹿姉弟になっちゃったけど、この二人と古市の組み合わせが好きなんだ。
古市は美咲さんをお姉さんって思ってるけどほのかはちょっと遠慮がちだといいな。憧れ入っちゃって近付けない感じ…ってほのか出てきてないんですけどね。