ピカイチクッキングラブ!



 ただいまー、と玄関のドアを開けた男鹿は、途端にぶわっと吹き出してきた煙に顔面を覆われ、げほっと急き込んだ。ただいまを言うつもりで息を吸い込もうとしたので尚更だ。喉に煙が入り込み、喉の粘膜を刺激する。ついでに涙を滲み、男鹿はばさばさと顔の前で片手を振り回した。
「くそっ……またかよっ!」
 悪態をひとつ吐くと、男鹿は履いていたスニーカーを蹴り飛ばして脱ぎ、狭い廊下をずかずかと歩く。目指すはもちろん台所で、途中に目についた窓はすべて開け放っていく。煙は逃げ道を求めて家中を彷徨っていたので、新鮮な空気と引き換えに外への道を見つけると少しずつではあるけれど、煙に覆われた天井が見えるようになってきた。
 今日もまた危なかった。
 もう少しでまた火災報知機が鳴るところだった。
 古い木造住宅で火災報知器なんて鳴らした日には、近所中が大騒ぎになる。最近ではもうすっかり慣れっこになってしまった近隣のお年寄りたちが、また男鹿さんちかねー、とのんびり様子を伺いくる程度だが、慣れない頃は大変だった。消防車を呼ばれ、町内会の消防団も出動し、大騒ぎだった。ご近所さんに頭を下げて回ったことを思いだし、台所へ飛び込んだ男鹿は、もくもくと煙を上げる鍋を前に、途方に暮れた顔で佇む古市を見つけ、くわっと叫んだ。
「古市っ、この馬鹿っ! まず火を止めろっ!」
 大声で叫んだあとで煙が喉の奥に入り込み、げほごほと咽たが振り返った古市はへらっと呑気な顔で笑う。
「あ、男鹿、おかえりー」
「じゃ、ねーよ! 火を止めろっ、火をっ!」
 男鹿はコンロの火を消すと、そのまま腕を伸ばしてコンロの真上にある換気扇を回し、台所の窓を開け放つ。そのまま家中の窓と言う窓を開け放ちに行くと、案の定、男鹿ならひょいと飛んで渡れそうな距離にあるお隣さんの窓から、八十近いのではないかと思えるアパートの大家さんが顔を出していて、また焦がしたんかね、と呆れたように言われてしまった。とりあえず、すんません、と謝った後で、男鹿はなぜ俺が謝らなきゃなんねーんだ、と眉間に皺を寄せた。
 どかどかと足音も高く台所へ戻ると、古市は依然コンロの前でもくもくと煙を上げる鍋を覗き込んでいる。
「うーん……おかしいな。今回はうまくいくと思ったのに……」
 事態を重く見ていないあまりにも呑気な古市の様子に、ぶちんと男鹿の堪忍袋の緒が切れる。
「今回はうまくいくって根拠もねぇのに思ってんじゃねぇよ! お前はもう料理すんなっ! 火ィ使うなっ! 湯すらまともに沸せねぇくせに無駄に料理しようとすんなっ! 材料が勿体ねぇんだよ! つか鍋が勿体ねぇんだよ! 何個無駄にすりゃ気が済むんだ!」
 台所に充満する煙すら吹き飛ばす勢いで怒鳴るけれど、古市はそんな男鹿の怒りなどどこ吹く風で、うーん、とやっぱり不思議そうに首を傾げている。
「いやでもな、男鹿。本当に今回はうまくいく気がしたんだ。だってほら、ちゃんと料理の本も買ってきたし、材料も揃えたんだぞ。野菜もちゃんと切ったし、なんでかよく解んないけど焦げちゃったんだよな。鍋が悪いんかな?」
「鍋のせいにすんな! 鍋は悪くねぇ、絶対!」
「えー…でも絶対鍋のせいだって。それ以外はうまくいってたもん」
「何作るつもりだったんだよ」
 見せてみろよ、と古市が買ってきたと言う料理本を見せろとジェスチャーすると、古市は台所のテーブルの上からしぶしぶ本を持ってくる。
 ほら、と見せられたレシピブックに『彼も喜ぶビーフ★シチュー』と、やたらデコレーションされた文字が躍っている。ピンクのハートが飛び散るページの中で、レシピ部分は非常に少なく、大半はどうでもいいイラストや、こんなアレンジで彼氏が喜んでくれましたぁ的な内容だ。
 よりにもよってなぜこれを選んだのか。もうちょっとまともな料理本があっただろう、と男鹿は煙のせいではなく痛み始めた頭を押さえる。例えばすでに家にある『初心者のためのお料理ブック』や『誰でも簡単、失敗知らずのお料理』とかだ。それがなぜ『彼氏とラブラブ★クッキングラブ!』に発展したのか、非常に理解に苦しむところだ。
 しかしそこに突っ込んではいけないのだ。
 高校時代、残念なことにかけては右に出るもののいなかった石矢魔の智将、古市貴之の考えは一般人には理解しがたい。この状態の古市と話が合うのは梓くらいだ。そう言えばカズと梓、最近見てねぇな、と現実逃避を計ろうとした男鹿だったが、なぁなんでだと思う、と古市に再三尋ねられ、惨状に再び目をやった。
 まな板の上では几帳面に切りそろえられた人参や玉ねぎがあり、確かに材料を切るところまではうまく進んでいる。
 するとやはり鍋か、と火を止めてもまだぷすぷすと煙を吐き上げる鍋を覗き込む。
 ゴウンゴウンとすごい音を立てて換気扇が回る中、鍋を覗き込んだ男鹿は絶句した。
 鍋の中には恐らく、牛肉が入っていたのだろうがすでに炭化して原型をとどめていない。もしかしたら違うものも入っているかもしれないが定かではない。それも炭化しているからだ。
 男鹿はコンロの周りを見渡し、あるべきはずのものがないことに気付く。
「………油、敷いたか…?」
「あぶら?」
 きょとんと目を丸くして首を傾げる古市に、男鹿は頬を引きつらせる。
「いや、油っつったらサラダ油だろ。あんだろ流しの下に……」
「えー……油がいるなんて書いてなかったけどなー…」
 古市が『彼氏とラブラブ★クッキングラブ!』をぱらぱらとめくり『彼も喜ぶビーフ★シチュー』のページで指を止める。目を走らせ、あ、ほら、と自慢げな顔を上げた。
「書いてねーよ、ほら!」
 んなわけあるか、と本を覗き込んだ男鹿は再び絶句した。
 そこには、野菜切りまーす、炒めまーす、お水入れまーす、と実にアバウトな作り方が記載されていた。
 これはレシピとは言わねぇ、とこめかみを押さえる。
 怒鳴り散らしたいのは山々だがここで怒鳴っても古市にはなんの効果もない。
 男鹿は大人になって笑顔を貼りつけ、腕を組んで難解な謎の解明に取り組んでいるかのような古市に言った。
「……普通は、炒めるときっつーのは油敷くもんなんだよ」
「え、そうなのか? びっくりだな!」
 びっくりなのはテメェの足りない常識だ、と男鹿は男鹿らしくないことを考え歯軋りをする。
 なにが石矢魔の智将だ。何が石矢魔始まって以来の秀才だ。所詮は石矢魔高校レベルでの智将だ。結局、馬鹿は馬鹿なのだ。
 ふーむ、と真剣な顔をする古市をちらりと見て、男鹿は肩を落とす。
 料理にかけては壊滅的な腕しか持ち合わせないこの男は、なのに自分の実力を過信していつも鍋を焦がす。そのうちアパート全焼とか洒落にならない結末を招く前に、男鹿がなんとかしてやらなければならない。
 男鹿は『彼氏とラブラブ★クッキングラブ!』を閉じ、資源回収でまとめて出すつもりの雑誌の山へそれを置く。
 焦げた鍋を前に首を捻る古市に、貼りつけた笑みを向けた。
「そんじゃ、一緒に作るか、ビーフシチュー」
 本当は今日は煮物にするつもりだったが、古市のやる気を正しい方向に導いてやるためには仕方がない。うんと頷く古市と一緒に、まずは鍋を洗うため、男鹿は袖を捲り上げる。俺のもと伸ばされた古市の両腕のシャツを捲り上げ、もう勝手に飯作ろうとすんなよ、と忠告することは忘れなかった。




古市が料理下手だったらバージョンでした。
料理上手だったらバージョンはまたそのうち書くね。