もしもあの日あの時あの場所に古市がいたら
※以前書いた「もしふる」とは別ものです。






 毎度おなじみの悪魔の強制次元転送を経てぽいっと放り出された古市は、顔から地面に突っ伏した。じゃりっと頬で砂の擦れる音がして、じんじんと熱い痛みが走る。突っ伏したまま古市はぐっと拳を握りしめた。
「な…なにしやがんだアランドロン! 顔擦りむいたじゃねぇか、ちくしょぉおおおおッ!」
 びょんっと飛び起き振り返って叫んでも、そこにあるのは繁みばかりだ。古市を強制転送したアランドロンの姿はなく、さっさと石矢魔に戻ってしまったらしい。行かないと全力で拒否したにも関わらず、勝手なおっさんだ。
「……ったく、どこだよここ……」
 とりあえず立ち上がり、シャツとジャージに付いた土埃を払い落とす。頬に手をやるとべったりと血がついてきて、うげ、と古市は顔を顰めた。
 男鹿の喧嘩に巻き込まれて、一般の高校生から比べると割と怪我をする方なので、すぐに滲む血なら傷は深くないと知っているけれど、それでも血を見るのは嫌だ。シャツで拭おうかと思ったが、それもそれで嫌だ。汗だくだし、すでにシャツも汚れているし、血の付いたシャツでうろつきたくない。泥だらけで汗だく、血のついたシャツなんて組み合わせ、不審人物のできあがりだ。
 水場か何かないかなー、とぐるりと辺りを見渡した古市は、暗がりの中で自分がいる状況を把握しようとした。
 とりあえず、民家のすぐそばのようだ。
 裏庭なのか、塀があって、背の高い木が辺りに生えている。古市の腰の高さまでの繁みが方々に点在している。池もあり、立派な石も積み上げられているので、どこかの料亭かもしれない。
「あのおっさん、男鹿のとこに転送したんじゃねぇのかよ……」
 まさか男鹿が料亭にいるわけねーだろ、と古市は池を覗き込む。綺麗な水の中で錦鯉が泳いでいて、ますます料亭っぽい。この水で手を洗おうかと思ったが、池の中の錦鯉と目があってやめた。なんか、不気味だ。
 民家があるのなら外水道もあるだろうと家の壁面に沿って歩く。どこかでホーホーとフクロウが鳴き、ばさばさと鳥の羽音が聞こえた。びくっと古市は身を竦め、すぐ側の家の外壁に身を寄せる。
「うう……不気味すぎる……」
 ただでさえ、自分が今どこにいるのかも解らない状況だ。
 家があるようだから人は住んでいるのだろうけれど、何しろ男鹿が修行に行くような場所だから、まともな人物かどうかは疑わしい。変なおっさんが出て来たらどうしようとおっかなびっくり進む古市だが、アランドロン以上に変なおっさんはそういまい。
 びくびくと外壁伝いに進んでいくと、角を曲がり、少し開けた場所に出た時だ。
「だーうぃぃいいいいーッ!」
 聞き慣れた赤ん坊の声が突然頭の上から降ってきて、古市はぎょっと顔を上げる。
「ベル坊っ?」
 廂から飛び出して屋根の上を見上げると、果たしてそこには雄々しきベル坊の姿があった。
 ぬいぐるみめいた可愛らしいコマちゃん(自称)の後頭部に片足を乗せ、人差し指を突き上げている。さすがにこの寒さには負けたのか、首に巻いたマフラーの裾が夜風にたなびいているのが格好いい。
「……って寒っ!」
 吹き抜けた風にぶるっと二の腕を抱いた古市の声に、あだっ、とベル坊が吊り上げていた目をぱちくりとさせる。きょろきょろと辺りを見渡し、古市が軒の下で身を震わせているのに気付くと、真ん丸の目をきらきらと輝かせる。
「あだうぃいいいっ!」
「よーベル坊! 親父どこ行った?」
「だーっ、だぶーっ、あーっ、うぃいいいいいっ!」
 足蹴にしていたコマちゃんの後頭部の上で、ベル坊が歓喜の舞を披露する。じたばたと足を動かし、両手を振り回す。お尻もちょっぴり振っているのが可愛い。
「だっだうぃいいーっ!」
「う、か、堪忍やでぇええ……」
 コマちゃんが呻き声を上げてもお構いなしだ。ベル坊の歓喜の舞は更に激しさを増し、足踏みでぐえっとかうおっとかおえっとかコマちゃんが呻き声とともに血を吐き出しているが、ベル坊は頓着しない。そろそろ止めた方がいいだろうか、と古市は思ったが、まぁ踏みしだかれているのがコマちゃんだしまぁいっか、とベル坊の気のすむまでやらせてやることにする。
「あだうぃっ!」
 ひとしきり踊り狂い気の済んだベル坊が、再び古市を見おろし、目をきらきらさせた。
「お、ベル坊、終わったか? うまくなったなー」
 にへらと笑って歓喜の舞を褒めてやると、ベル坊は嬉しそうの頬を染める。それから、だぁっと屋根を蹴って飛び降りてきたが、それはもう想定の範囲内だ。しっかりキャッチした古市はベル坊がぎゅーっと抱きついてくる暖かさにほうっと息を吐いた。
「おお…さすが魔王様、あったかいぜー」
 ぬくぬくした赤ん坊の体温に頬を緩めていると、ふと尻に妙な感触を覚えた。
「ほんまやでー、たかちん、めっさあったかいでぇ……ちょっと硬いけどまぁかまへん、そのちんまいのに傷つけられた繊細なわいの心が癒されるわぁ……」
 例えて言うなら髭面の背の高いいかつい濃い顔をしたおっさんに尻を撫でられているような、そんないやな感触に振り返ると、脂下がった顔をしたコマちゃんが、すりすりと尻に顔面を摺り寄せている。
 古市は眉を寄せた。
「ベル坊」
 ぽん、と背中を叩くと、古市の意図を察したベル坊がきっと目を吊り上げる。
「あだっ、うぃぃいいいっ!」
 腕の中でベル坊がちょっと力んだその瞬間、ぴしゃっと雷がコマちゃんの脳天を焼いた。
「ほぎゃぁあああっ!」
 飛び上がって倒れ伏すコマちゃんを踏みながら、古市は緑の髪を撫でてやる。
「すごいなぁベル坊は。男鹿が側にいなくてもちゃんと電撃使えるんだなぁ」
「だぶっ」
「か、堪忍やでぇ……たかちん、後生やら足どけてぇな……あっ、ごりごりせんといてぇっ! ああっでもそんなドSなたかちんもぐへっ!」
 ごりっと踵をめり込ませるとコマちゃんは呻き声とともに静かになった。それでも油断なく足をどけないのは、女子にしか興味がないはずのコマちゃんがなぜだか古市の尻やら太腿やら腹やらには興味満々だからだ。
「そんでベル坊、お前の親父はどこ行った?」
「あー、だぶー」
 ベル坊がちっちゃいおててで何やら一生懸命説明してくれるけれど、古市にはいまいち理解できない。困って眉を寄せていると、古市を見上げていたベル坊がハッと顔を強張らせた。
「あだっ、だぶっ、だっだー!」
 ぴたぴたと自分のほっぺたを叩き、古市の方へ両手を伸ばし、また自分のほっぺたを叩く。何事かと思っていた古市だったが、理由に思い当ると、ああ、と苦笑した。
「さっきちょっとこけちゃったんだよ。痛くないから平気だぞ」
「だうぃー?」
「おー、まじまじ。ちょっと擦りむいただけだし……お」
 疑り深いベル坊に笑いながら頷きつつ、踏みつけたコマちゃんの後頭部に更に踵をめり込ませていると、ベル坊がいた屋根の真下の障子が開く。勢いよく横に開いたせいで、障子は柱にぶつかりスパーンと派手な音を立てる。そこからのっそりと姿を現したのは、なぜか柔道だか空手だかの胴着を着た男鹿だ。
 ベル坊がいた場所は、道場の真上だったらしい。
「おーい、ベル坊、メシ………」
 道場の明かりを背にした男鹿は、庭を見渡し、ぽかんと目を丸くした。
 凶悪な三白眼が零れ落ちそうなほど真ん丸に見開いた目と目が合い、古市はほっと息を吐く。
「おが」
 来ちゃった、とか、これは言うところだろうか、とかそんなことを考えながらも、名前だけが思わず口をついて出る。
「ふるいち?」
「え、古市? どうしたのあんた」
 男鹿の後ろから現れたのは長い髪をひとつに結った邦枝だ。こちらも胴着を着ていてわずかに乱れた着衣と言い、髪と言い、浮いた汗と言い、激しい修行をしていたのだと知れる。
「すみません邦枝先輩、邪魔するつもりなかったんすけど……アランドロンに転送されちゃって……」
 真剣に修行をしていたところを邪魔したのなら悪かったとそう詫びれば、いいわよもう今日の分は終わったとこだから、と邦枝は微笑む。その後ろから顔を出したのは黒髪の相当な美女だ。長い髪をさっと無造作にまとめた様が大人っぽくて色っぽい。革ジャンの下から覗くくびれた腰がセクシーだ。
「あ? 誰?」
 思わず見入る古市を不審な眼差しで見る美女に、邦枝が慌てて説明する。
「うちの学校の生徒です。男鹿の幼馴染で……」
「ふるいち」
 ぽかりと、呆けたような声に、古市も、ほー石矢魔にあんなのがねぇ、と呟いていた美女も目を丸くする。見やれば邦枝の横に立ち尽くしていた男鹿がゆるりと動き、裸足で縁側から地面へと降り立つ。ふらふらと、まるで夢を見ているような顔をしてやってきて、そろりと伸ばされた男鹿の手が頬に触れる。
「ふるいち?」
「おう。なんだよ。来ちゃ駄目だったのかよ。言っとくけど俺だって来たくて来たわけじゃないんだからな! アランドロンの野郎が余計なことしやがって無理矢理ここに――――」
 まじまじと顔を見つめられる気恥ずかしさに、言い訳が次々に飛び出してくる。あわあわとベル坊を抱いたままそう言い募っていると、男鹿が長い腕を伸ばし、ぎゅうっとベル坊ごと古市の背を抱き寄せた。
「う、お、おいっ!」
 ぎゅうぎゅうと、力任せに抱き寄せられてたたらを踏む。ふげっ、とコマちゃんが足の下で呻き声を上げたが気にしてなどいられない。
 男鹿は今まさに修行が終わった体で汗臭くて湿っている。抱きしめられると汗のせいで男鹿の匂いがいつもより強く、古市はぎゅっと唇を噛みしめた。離れていたのはほんの一日なのに、まるで数週間、数ヶ月も離れていたような気分に陥る。男鹿が邦枝だと二人きりで修行に出かけたせいもある。魔二津での修行の時も二人きりで、今度も二人きり。帰ってきたら山のように、勿論冗談交じり愚痴混じりではあるけれど、文句を言ってやろうと思っていたのが、こんな思いがけない再会をすることになった。
「夢じゃねーよな。マジで古市だよな。これで夢オチだったらマジでぶん殴るぞ」
 男鹿の苦しそうな声に、古市はそろりと手を伸ばすと、男鹿の胴着を握りしめた。
「うん……夢じゃねーぞ」
「……くそ、ふるいちばかめ」
「ばかはお前だ、ばかおが」
「勝手に一人で留守番しやがって」
「知るか、んなもん! ラミアがお前連れてくからって準備させられて、後は知らねーんだよ。気付いたら出発してて、俺だって、知らなかったんだからな」
 知らなかったし……、と尻すぼみになる言葉を浚うように、男鹿の唇が触れる。ちゅ、と軽い音を立て、触れるだけで離れていった男鹿の唇を思わず目で追うと、後でな、と笑われた。
 別にキスしてほしいとか思ってねーしっ、と慌てる古市の頬を、あっ、と叫んだ男鹿ががっしりと掴む。
「てめ、これどーしたんだ?」
「ぎゃあ、痛い! そこ痛い!」
「血出てんじゃねぇか! 何やってんだ俺の顔に!」
「お前の顔じゃねーだろ、俺の顔だろ!」
「お前の顔は俺のもんだっつーの! 跡残ったらどーすんだ!」
 おらこい、と腕を引かれる。抱きしめていたベル坊が、にょーっと声を上げて古市の腕の中から、先を行く男鹿の背に飛び移る。
「おいっ、男鹿っ、どこ行くんだよっ!」
「ラミアんとこ。あいつ救急箱持ってっからな」
「あっ、ちょ……お前、足泥だらけ…っ!」
「あー…別に汚れて気にするとこじゃねぇし構わねーよ。明日テメーで掃除しろよ。それに、まぁ、部屋はあるからゆっくりしてきゃいいけど、盛んなよ」
 初対面の美女にそんなことを言われ、古市の顔は真っ赤になる。いやっこれはその違うんですっ、と大慌てで言い訳をしても、違わねーだろ、と軽く笑われてしまう。どうも美咲と同じ性質の人物らしい。けらけら笑う美女の横で、邦枝が真っ赤な顔をして固まっていて、そんな邦枝と視線が絡み、余計に古市の頬は熱くなる。
 気恥ずかしさで死にそうになりながら男鹿に腕を引かれて行った先で、まだ早い時間なのに床に入っていたラミアに引き合わされる。移動中にお菓子を食べて気持ち悪くなってしまったらしい。お前また…、と思わずげんなりした顔を、なによっ、とラミアが睨み上げる。
 あんた何しに来てんの馬鹿じゃないのと散々お小言を食らいながら乱雑に手当てされる。頬に押し当てられる消毒液の刺激に飛び上がり、それでも古市はすぐ側にぴったりと寄り添う男鹿の体温と、膝の上に乗って離れないベル坊のぬくもりに微笑みを隠せなかった。







べるぜ15巻に触発されたもので。
あの場所に古市だっていれば良かったじゃん!
て言うかアランドロンに飲まれかけてたんだから、今までの流れ的にそのままいっちゃってた可能性のが高いじゃん!てことで。
親子万歳。ベル古大好き。