もしもあの日あの時あの場所に


 ドゴンドカンと破壊音が河原に鳴り響く中、古市はせっせと夕飯の支度をしていた。
 傍らでは素っ裸のベル坊と光太が河原の石を積み上げて遊んでいるが、ベル坊の鬼気迫る表情から察するに、どちらがより高く石を積み上げられるかを競っているようだ。今のところベル坊の負けが混んでいるようで、光太は幼児ながら人を食ったような表情を浮かべている。
 まーた泣かねぇといいけどな…、と古市は横目でベル坊の様子を伺いつつ、人参の皮を剥く。
「あらー、意外とうまいじゃないのぉ」
 いかつい容貌とは裏腹に帝毛の影組の一人、つるっぱげの頭に男と女の文字を刻んだ出崎の口調は柔らかい。ペティナイフでジャガイモの皮をするすると剥きつつ、古市の手元を覗き込んでなんとも満足そうな顔をしている。
「ちょっとびっくりしちゃったわー。手伝ってくれるのは有難いけど、もっと不器用なのかと思ってたのよ」
 はは…、と古市は苦笑いを浮かべる。
「いやぁ、俺もびっくりしました。俺一人で作んなきゃなんないかと思ってたから…。えーと……」
「出崎よ出崎! でもアンタなら巧姐さんって呼んでくれても構わないわよ」
「はは……遠慮しときます…」
 ぱちっとウィンクを飛ばす出崎から僅かばかり離れ、古市は皮を剥いた人参を適当な大きさにカットしていく。
「出崎さんも料理するんスねー」
「本当は鬼ちゃんの方が上手なんだけどねー。彼、今回は修行に夢中だしねー」
「えーと…鬼ちゃんってのは…」
 なぜか男鹿と一緒に修行することになった帝毛の影組の残り三人を振り返るが、どれが誰だかさっぱり解らない。この出崎が何度も連呼するせいで、孝ちゃんとやらがピアスを付けた一番軽そうな奴だとは分かるのだが、後の二人が古市にはさっぱりだった。
「あの大きい方よー。ま、あっちの方なら孝ちゃんもおっきいんだけどーって何言わすのよこの子ったら!」
 キャッと頬を染める出崎に、はは…、と愛想笑いを浮かべ、古市は一番長身で体格のいい男が鬼ちゃんなのかと納得した。
「それにカレーなんて誰だって作れるわよ。さ、じゃがいもは終わったわー…ってアンタなにやってんの?」
 残る一人の名前はなんだろう…、と古市が考えていると、古市の手元をちらりと見た出崎が不可解そうに眉を寄せた。
 古市は河原の岩にまな板を乗せ、そこで人参を切っていたのだが、一本の人参には側面からいくつも切れ込みを入れていたのだ。三角形になるように端を切り落とし、残った部分を輪切りにしていけば星型の人参ができる。
「あー…カレーの時はこうやらないとアイツ、人参食わないんすよ。アイツの真似してベル坊も人参食わねぇし…」
 力任せに岩を割砕いている男鹿をちらっと振り返りそう言い、ついでに足元で打ちひしがれてうなだれているベル坊を見下ろした。またもや光太に石積み競争で負けたらしい。涙目で茫然としているので、泣く前に、と古市は切り終えたばかりの人参をベル坊に見せた。
「ほら、ベル坊。今日のカレーに星さん入れてやるからな」
「あだっ!」
 手渡された人参を見おろし、ベル坊ばぱぁっと顔を輝かせる。よっしゃ獲ったどー!とばかりに人参を掲げるのを見て、あらぁ、と出崎がのほほんと笑みを浮かべた。
「子どもってそういうの好きだものねぇ」
「型抜きあればもっと早いんですけどね」
 どうだ、と光太に星形の人参を見せているベル坊がなんだか自慢げだ。光太も光太で悔しそうに歯ぎしりをしているので、光太にも人参を渡してやろうかと思ったが、ベル坊のご機嫌をとる方を優先し、古市は切り落とした残りの人参を適当に切り、他の人参と一緒にしておいた。
「にしても大丈夫なの? この子、カレー食べるの?」
 素っ裸で魔王とは言え、傍目にはただの子どもに見えるベル坊に、確かにカレーは早いように思えるが、ベル坊の好物なので仕方がない。男鹿家でもよく男鹿の膝の上に座り、おしゃぶりをくわえたまま器用に食べている。
「ああ…カレーとコロッケが好物なんスよ。普段はミルクなんスけどね」
 多分男鹿の好物に影響されているのだろうと古市は見当をつけているが、出崎に説明しても仕方がない。適当に話を変えようとした時、光太に星型の人参を見せびらかしていたベル坊が古市の膝にぺたりと張り付いた。
「あだーっ!」
「あ? どうした?」
「あだっ、だーぶっ!」
 古市の膝をぺちぺちと叩き、星形の人参を掲げるベル坊が、他の人参を指差すのを見て、ああ、と古市はベル坊の手から人参を取り上げた。
「他のと一緒にしときゃいいんだな?」
「だっ!」
 ベル坊が大きく頷いたので、他の星形の人参と同じ場所へおくと、ベル坊は満足げな顔をして、古市の膝にもたれたままふんふんと鼻歌を歌い始める。調子っぱずれの歌は多分ごはんくんの主題歌だ。ついさっきまで光太に石積み競争で負けて打ちひしがれていたのが嘘のような上機嫌っぷりだ。夕飯までこのご機嫌がもつといいんだけどなー、と古市は内心で溜息を吐きつつ、ベル坊が膝の上へよじ登ろうとするのを察し両手で抱え上げた。
「包丁には触っちゃダメだからな」
「だう」
「あらー、お膝に抱っこ? いいわねぇ、ベルちゃん」
「だー!」
 石崎が品を作りながらにこにこと笑うのへ、ぐっと親指を付き出して見せ、ベル坊はごはんくんの主題歌を歌い続けている。
「その子、男鹿ちゃんの子どもでしょ? アンタによく懐いてんのねぇ」
「まぁほとんど一緒にいますからね」
 ヒルダ辺りが聞いたら絶対零度の微笑みでもって、懐くなどと思い違いも甚だしい、と切って捨てられそうだが、幸いにしてヒルダはいない。
 修行だ修行だと騒ぐ男鹿が家に迎えに来たのは今日の早朝。まだ夜も明けきらぬ頃で、事情も分からないまま引きずるように電車に乗せられ、やってきたのがこの河原だ。電車の中で邦枝の作ったおにぎりを頬張りながらヒルダの所在を聞けば、寝込んでいると言う。だからヒルダさんいねぇのか…てか悪魔でも寝込むんだ、と感心した古市だったが、その後は修行に勤しむ男鹿の代わりにベル坊の世話をしつつ出崎と二人、炊事班としてカレー作りに精を出しているというわけだ。
「それにしてもアンタも偉いわよねぇ。友達の子どもの世話するためだけにこんなとこまでついてきたんですって? 修行するわけでもないのに、ほんと、感心しちゃうわー」
 気付いたら連れ出されてたんです、と古市は何度目になるか解らない訂正を入れる。
「だとしてもね、偉いわよ、文句も言わずに子守りしてるんだから。ねー、ベルちゃん。古市ちゃんったら偉いわよねー」
「だーっ!」
 包丁の代わりに握らせたお玉を突き上げ、ベル坊が雄叫びを上げる。お玉が顔面直撃しそうで怖い。
「はいはい、ありがとうよ」
 カレーの材料はすでに準備し終え、今は出崎が玉ねぎを炒めている。本当は飴色にするのがいいんだけどねぇ、と困ったような顔をしながらも、ま、時間ないししょうがないわよね、と次々材料を投入している。
「ねぇ古市ちゃん、ベルちゃん抱っこしてるところ悪いんだけど、お米といでくれないかしら? 老師様は簡単だって仰るけど、飯盒なんて使うの初めてだし、ちょっと心配なのよねぇ。老師様に見てもらわなきゃ」
「あ、俺、前にキャンプで使ったことあるから大丈夫ですよ」
「あら、本当?」
「ええ、うち、家族でよくキャンプとか行ってたんスよ」
 最近はでっかいおっさんに邪魔されてそれもままなりませんけど、とは心の中だけで呟き、古市はベル坊を下して立ち上がった。古市が何かしようとしているのを察してか、米と飯盒を取りに行くとベル坊もついてくる。
「ちょっとそっちの川行ってますね。ここの川の水、普通に飲めるっておじいさん言ってたし」
「そうなの? 助かるわぁ。あら、ベルちゃんもお手伝い? えらいわねぇ」
 飯盒をひとつ持ち、えっちらおっちらと古市の後を追いかけるベル坊に、出崎が頬を緩める。ダッ、と叫び声を上げるベル坊に対抗心を燃やしたのか、光太までもが飯盒を持たせろと古市にまとわりつく。
 何しろ育ちざかりの男子高校生が六人もいるのだ。炊く米の量も半端なく、飯盒もたくさんある。それに加えて米も多い。ベル坊と光太がひとつずつ、古市が四つ腕に下げ、米も抱えた。それで足場の悪い河原を歩くのだから、右へ左へと危なっかしい。ついてくるベル坊を踏んでしまわないかとそれも怖い。怪力自慢の他の連中とは違い、石矢魔最弱の男古市はひ弱なのだ。
「運ぶの手伝いましょーかー?」
 野菜を炒めつつも見るに見かねたらしい出崎の声に、お願いしますーっ、と叫びかけた古市だったが、それよりも先に腕に抱えた米がぱっと消えた。
「うわっ」
 突然消えた重みに、身体を後ろへ倒してバランスを取っていた古市は危うく背中から河原へひっくり返るところだった。それをさっと支えたのが男鹿の腕だ。片手には米を抱え、もう片方の手で古市の背を支えている。
「あぶねーぞ、古市」
「お前こそあぶねーだろ! まぁ米持ってくれんのは助かるけどよ……あっ、出崎さーん! 米、男鹿に運ばせますんで! こっちは大丈夫でーす!」
 あらそお、と微笑む出崎がひらひらと手を振っている。若いっていいわねぇ、と呟く声が聞こえたような気がしたが、それよりも男鹿の気が変わる前に米を運んでもらわなければならない。
「その米、川まで運んでくれ」
「おー。米ってことはもうすぐ夕飯か? 古市が作んのか? なに作るんだ?」
 心なしか男鹿がそわそわし始める。修行だ修行だと騒ぎながらも、目の前の文字通り餌には心奪われるらしい。
「カレー。これから米研ぐとこだったんだよ。ベル坊も手伝ってくれてんだ」
 後からついてくるベル坊を振り返って言うと、両手で飯盒を抱えて運んでいたベル坊が、だーっ、と顔を輝かせた。飯盒を運ぶのに必死で男鹿がいることに気付いていなかったらしい。飯盒を抱えたまま両足をだんだんと打ち鳴らし、だーだー、とご機嫌さをアピールしている。
「おお、すげーなベル坊。新しい踊りか? あっ、古市! カレーってことはアレ入れるの忘れてねーだろな! アレが入ってないカレーなんて俺はカレーと認めんぞ!」
「はいはい、星形の人参なら入れたよ…。つかお前本当そーゆーとこガキだよな…」
「ん? 何か言ったかね、古市くん?」
「なんもねーよ! 光太、大丈夫か?」
 ベル坊に負けじと飯盒を運んでいた光太の足取りはおぼつかず、今にもべしゃっと崩れそうだ。泣きそうな顔をして光太が河原に座り込んでしまったので、飯盒を取り上げ、男鹿に押し付ける。ついでに自分が持っていた分も米の袋の上に置き、光太を抱き上げた。
「さすがの光太も魔王様には勝てなかったか」
 汗でびっしょりの光太の顔を手持ちのタオルで拭ってやり、ぽんぽんと軽く背中を叩く。はふ、と息を吐く光太がぐったりと持たれかかってきたので、古市は光太を抱いたまま水際に行くことにした。
「じゃくなんものめ」
 男鹿が気に食わないような顔をしてそう吐き捨て、古市は毎度おなじみの訂正を入れる。
「軟弱者、な。お前、光太をベル坊と一緒にすんなよな。普通のお子様だっつーの。なぁ?」
 弱りきった様子がかわいそうで、くったりした光太の顔を覗き込んだ古市は息も絶え絶えのはずの光太が、にやりと薄暗い意味深な笑みを浮かべているのを目撃してしまった。そのにやりの視線が向かう方を恐る恐る振り返れば、古市達から遅れること数歩、目にびっしょりと涙を浮かべたベル坊が飯盒を抱えて立ち尽くしている。
「だぅ……」
 ぷるぷる小刻みに震える様子に、しくじった、と古市は慌てた。
「あーっ、ベル坊っ! ベル坊も飯盒重いよなっ! えーとっ、ほらっ、男鹿! 男鹿くんっ! ベル坊の飯盒も持ってさしあげなさいっ!」
 わたわたとベル坊のご機嫌を取ろうとする古市の傍らで、男鹿は迷惑そうに顔を背けている。
「ベル坊ならあれくらい運べるぞ」
「いやっ、そりゃそうだろうけど今の状況考えろよ! ベル坊だけ放ったらかしみたいなもんだろ! 怒るって、泣くって!」
「あー? そんなんでいちいち泣いてて魔王勤まるかよ」
「いや、今は魔王とかそんなん関係ないですから!」
 慌てふためく古市の腕の中で、光太のにやりは止まらない。ベル坊のぷるぷるも止まらない。あと一押しで絶対泣く、と古市が竦み上がったとき、男鹿がのんびりとベル坊に声をかけた。
「ベル坊、お前、それっくらい運べるだろ?」
 さも当然とばかりに男鹿が尋ねたので、あとちょっとで泣き出す寸前だったベル坊はびっくりしたように目を丸くした。
「光太には無理でもよー、お前なら平気だろ?」
 魔王だもんな、と付け加えられた言葉に、ベル坊の涙が引っ込む。
「あだっ!」
 ビシッと敬礼をして見せるベル坊に、な、ほら、と男鹿が笑う。
「大丈夫だってよ」
「いやいやいや、お前なに無理矢理言わせてんの? 鬼かお前は! ベル坊、無理しなくてもいいんだからな。俺、持ってってやるしさ」
 古市がそう言って飯盒を取り上げようと手を伸ばすと、ベル坊がキッと目を吊り上げ、ダブッ、と古市の手を叩く。ベル坊はつーんと顔を背け、しっかりと飯盒を抱え、たったか先に歩き始めた。
「な? 大丈夫だろ?」
 なぜか自慢げな男鹿がガッシャガッシャと派手に飯盒を鳴らしながら河原を歩く。その隣を歩き、まぁなぁ、と古市は溜息を吐いた。
「ベル坊なら正直大丈夫だったとは思うけどさー。お前もうちょっとベル坊見ててやれよー。今のだって一人放っておかれてるみたいなもんだったしさぁ。や、俺も悪いんだけどよ」
 抱えた光太は妙にがっかりした顔をしてベル坊の素っ裸の後姿を眺めている。泣かせる気満々だったのか、と古市はまたもや溜息を吐く。幼児にあるまじき光太の腹黒さは主にベル坊にのみ向けられているようなので、好きな子ほどいじめちゃうってあれかなぁ、と古市はしみじみ思う。
「いつも構ってるわけじゃねぇし、放ったらかしにしてんのなんていつものことだし、甘やかすのはよくねぇってうちの姉貴は言ってるぞ。赤ん坊だろうがなんだろうが男は自立してなんぼだってよ」
 確かに美咲ならそれくらいは言いそうだ。
 これ以上言っても堂々巡りになりそうだったので、古市は水際で光太を河原におろしつつ、米を抱えたままの男鹿に尋ねた。
「男鹿、修行は?」
「ちょっと休憩だ。汗だくであちーし、川で顔洗おーかと」
「そんなら下の方行けよ。これから米研ぐんだから。お、ベル坊サンキュー! 超助かったよー」
 ベル坊がぜぇはぁ息を乱しながら飯盒を掲げ持っていたので、古市は慌てて受け取った。子どもは褒めて育てるものだとどこかで聞いたことがあったので、すごいなベル坊、と頭を撫でてやると、あだー、と嬉しそうに笑っている。だがその顔は汗でびっしょりで、髪もしんなりしている。この暑さでは仕方ないか、と古市はシャツを脱いでいている男鹿にベル坊を差し出した。
「男鹿、ベル坊も一緒に水浴びさせてやれよ。汗だくだし」
「おう!」
 ベル坊の首根っこを掴みそのまま川へざぶざぶ入っていく男鹿を、光太がぼんやり見送っている。
「光太も水浴びするか?」
 邦枝先輩にお伺い立ててからの方がいいかな、と巫女姿もキュートな邦枝の姿を探し、河原をぐるりと見渡すと、光太はぶるりと首を横に振った。無言ではあるが水浴びはしたくないらしい。それでもうらやましそうに男鹿とベル坊を見ているので、ははぁ、と古市はにんまり笑った。
 男鹿と水浴びをしているベル坊がうらやましいのではなく、ベル坊と遊んでいる男鹿がうらやましいのだろう。
 いいなぁ青春だなぁ初恋かぁ、とうんうん頷く古市の耳に、ひょーっと叫ぶ男鹿とベル坊の声が聞こえる。
「古市っ、古市! 超気持ちいーぞー!」
「だーぶーっ!」
「あーそりゃ良かったなー」
 言われた通り川下の方で水浴びをする男鹿とベル坊が、ざっぷざっぷと水をはね散らかしている。あれでは川下で水浴びしろと言った意味がないなと思いつつも、楽しそうなので止めはしない。
 古市は飯盒の蓋で米をはかり、それを飯盒に入れるという作業を繰り返した。
 ぼうっと男鹿とベル坊を見ていた光太も寄ってきて手伝いをしてくれた。小さな手で飯盒の蓋を開けて、並べてくれる。正直言って古市が米を入れるスピードの方が断然早いのだが、光太の気持ちも無下にはできないので、遅々としか進まない米の計量にも根気よく付き合うことにした。
「古市、古市っ!」
 光太が飯盒の蓋を開けるのを待っていると、川下からざぶざぶと水を蹴散らかして男鹿がやってくる。大股で跳ねるように歩き、裸の背中にはいつものようにベル坊を背負っているが、前にそれで悲惨な日焼けをしたことを忘れているのだろうか。
「見ろよ、これ、捕まえた!」
 片手に掲げ持っているのはカニだ。小さいので沢蟹だろうが、カニはカニだ。
 男鹿の満面の笑みと、ベル坊の期待する表情に古市は嫌な予感に顔をしかめた。
「……カレーには入れねぇぞ」
「え」
 男鹿がショックを受けたように、ベル坊はびっくりしたように目を丸くする。血がつながっていないのが不思議なほど妙に似通った二人に、古市はやれやれと首を振って見せる。
「沢蟹なんて食えねーだろ、どう考えても。そもそもそんなちっこいんだし身なんて詰まってねーだろ」
「えー…なんとかなんねーのかよ」
 手の中のカニをしげしげと眺め、男鹿は残念そうだ。
「さすがの俺にもカニの大きさだけはどーにもならんわ。ほら、ベル坊。風邪ひく前に身体拭くぞ」
 男鹿の背中に張り付いているベル坊を抱き上げ、顔を拭い、びしょ濡れの髪にタオルをかぶせて身体ごと拭いていると、あーだーぶーだーだー、とベル坊がしきりに何かを言っている。
「えーベル坊くん、なに言ってるか全然解んないです」
「だぶーっ!」
 憤慨するベル坊をひょいと覗き込み、男鹿が笑う。その髪からぽたぽたとしずくが落ちるので、折角拭いたベル坊がまた濡れてしまう。
「どーせカニが食いたいとか言ってんじゃね?」
「カニが食いたいのはお前だろ。つか髪拭け」
 ベル坊を拭いていたタオルで男鹿の髪をがしがしとかき回すと、おー、と間延びした声がタオル越しに返ってくる。
「自分で拭けよ。俺いまベル坊抱いてんだから」
「なんだよケチくせーな」
「ケチくねーって……男鹿?」
 身体を拭くために抱えていたベル坊を、今度は安定よく抱くために抱えなおしていると、タオルを頭に被った男鹿がきょろきょろと辺りを見渡している。何やってんだ、と眉を寄せた古市は突然ぐいっと男鹿に腕を引かれ、たたらを踏んだ。足元にあった飯盒のひとつを蹴飛ばしてしまって、米がっ、と慌てたが、幸い米の入っていない飯盒だったので、転がった飯盒を光太が拾おうと背を向ける。
 その一瞬の隙をつくように、ばさりと頭にタオルがかけられた。ベル坊と男鹿の頭を拭いたタオルでびしょびしょになっている。何すんだ、と叫びかけた古市は、そのびしょびしょのタオルを持ち上げた男鹿が、タオルの中に顔を突っ込み、問答無用で唇を合わせてきたので黙らざるを得なかった。
「んんっ……」
 ぬるりと男鹿の舌が唇を舐め、歯列をこじ開けて口内へ強引に割り込む。男鹿の手が顎を掴み、口を閉じられないように力を込められているので痛い。ぎゅうっと目を瞑り、男鹿の腕にかけた手に力を込めると、無言の要求に気付いたのか、はふと吐いた息も奪い取る男鹿のキスが唐突に終わる。唇が離れると男鹿の額が古市の額にするりと押し付けられた。
「……んだよ、いきなり」
 あだー、とベル坊が腕の中で目をきらきら輝かせながら見上げており、見られたじゃねぇか、と古市は頬を赤くする。額がくっついたまま、男鹿が笑う。
「誰も見てねぇからヘーキだ」
「ベル坊が見てるっつの」
「ベル坊はいいんだ。父親と母親が仲良くしてるのを見るのはいいことらしーぞ」
 姉貴が言ってた、と付け加える男鹿に、誰が母親だ馬鹿、と古市は唇を曲げるが、その唇にちゅっと音を立ててキスをされればふくれっ面も長くはもたない。
「ばかおが」
「もっかい」
 キス、と男鹿の言葉は古市の唇の中に消える。ん、と喉を鳴らす古市の唇の中で、男鹿の舌が驚くほどの優しさでもって口内を撫でさする。
 あー、と声を上げたベル坊が引っ張ったせいでタオルが頭から落ちたことにも気付かず、飯盒を手にしたまま光太が固まっていることにも気付かず、古市は男鹿のキスに酔いしれていた。


ナチュラルに夫婦なおがふる萌えです。え、ベル坊? 古市が生んだんじゃなかったっけ? それくらいの勢いです。
もしも原作(もしくはアニメ)のあの日あの時あの場所に古市がいたらこんな展開だったはず…!と言う妄想がとどまらなくて…、お寺に行ってからもあれこれあったと思うので、あれこれ書きたいー!
あ、ちなみに孝ちゃんは巧姐さんとマジでできてるといいと思います。孝ちゃん若干逃げ気味だけど姉さん女房に逆らえなくて尻に敷かれてる感じ。
あと、誰も見てないと男鹿は言い張ってますが、巧姐さんはしっかり見てました。