緑のグラス


 ただいまー、と玄関が賑わい、美咲はリビングからひょこりと顔を出した。
「おかえり!」
 美咲の声にぱっと顔を上げたのは一番最後に入ってきた古市で、美咲さんっ、と嬉しそうに頬を染める。
「お久しぶりですー!」
「あらほんと、なんだか久しぶりの気分だわねー」
 五日程度の修学旅行で久しぶりという感覚もおかしいが、この弟の幼馴染はことあるごとに男鹿家を訪れているので、三日も顔を合わせていないと久しぶりの感覚になってしまうのだ。
 にこにこと笑う古市は修学旅行先から直接男鹿家へ来たようで手には大量の荷物がある。どうやら古市自身の荷物だけではなく、ヒルダの荷物も持たされているようだ。通りで靴を脱ぐヒルダはベル坊を抱きかかえただけの身軽な恰好だ。
 男鹿など言わずもがな、自分だけの荷物しか持っていない。眠そうに欠伸をかまし、ぺたぺたと足音を立てながらリビングへ入って行く。
「ちょっと辰巳! あんたたかちんが持ってる荷物運んであげなさいよ!」
「あっ、いいですいいです。俺運びます」
 ヒルダの荷物もまとめてリビングへは運び入れる古市は、まるで添乗員のようだ。自分の荷物は肩から下げ、ヒルダの鞄を右手に持ち、左手には買い物袋だ。修学旅行先でもこんな調子だったんだろうかと不安になりつつ、美咲は玄関の鍵を閉めてリビングへ戻った。
 リビングでは、男鹿とヒルダがソファに腰を下し、古市はフローリングに腰を下して荷物を漁っている。なんだか格差社会を表現したような光景に、美咲は違和感を抱き、あれ、と首を捻った。
 なんであたし今、違和感なんて抱いたんだろう、ともう一度リビングの光景をまじまじと見つめた。
 男鹿とヒルダがソファに座り、ベル坊がその間で何やら遊んでいる。そして古市は少し離れた窓際のフローリングに巣を作っているかのように周りに荷物を広げ、お土産あるんですよー、と微笑んでいる。
 ああ、と美咲は目を瞬いた。
 古市と男鹿との距離が開きすぎているのだ。
 いつもなら古市古市と煩い弟は、古市がフローリングに腰を下しているのならその横に座り、古市がソファに座っていたのならやっぱりその隣に座る。それが、今はまるで古市がいないかのようにソファに座り、付けたばかりのテレビをぼーっと見ている。
 喧嘩でもしたのだろうか。でも、どうせすぐに仲直りするだろう。
 美咲はそう結論付け、たかちん一人、フローリングってのもね、と思って古市の側に膝をついた。
「どう? 沖縄、楽しかった?」
「はいっ、すんごく楽しかったです! 海も超綺麗だったし、それにやっぱほら、暑いから綺麗なお姉さんが薄着で……写真も一杯撮ってきたんですよ。あ、これ美咲さんにお土産です! こっちはおじさんとおばさんと、みんなで食べてください」
 そう言って古市が取り出したのは、沖縄土産の定番のちんすこうと何やら紺色の紙包みだ。美咲へと向けられた紺色の紙包みは小さな見た目からすると少し重い。
「これ、あたしにくれんの?」
「はい、似合いそうだと思ったんですけど……気に入らなかったら違う色もありますよ。実はほのかとお揃いなので……」
「え、本当に? ほのかちゃんとお揃いってなんだろ、見ていい?」
 どうぞどうぞ、と勧める古市が見守る前で、美咲は紺色の紙包みを開いた。シールやテープで封がされていなかったのは中が確認できるようにと言う配慮だろう。古市はそう言う気遣いをさりげなくする。
 中から出てきたのは琉球ガラスのペンダントだ。鮮やかな水色のガラスの中に星砂が閉じ込められていて沖縄の海を思い出させる。
「うわ、綺麗だねぇ!」
「ほのかにって買ったのはピンクなんです。見てみます? そっちが気に入ったら美咲さんが気に入った方もらってください」
 古市がほのかにと選んでいたのは柔らかなピンク色のガラスで、やっぱり星砂が閉じ込められていた。少し形が違うのは手作りゆえだろう。見比べた美咲はにこりと微笑んだ。
「やっぱたかちんはあたしの好み知ってるよね。こっちの水色の方が好きだし、ほのかちゃんにはピンクの方が似合うと思うよ」
「ほんとですか? 良かった」
 ホッとしたように笑う古市に、ああもう本当にこの子ったら、と美咲は目を細める。じゃあこれはほのかに渡します、とピンク色のペンダントを丁寧に紺色の紙包みに閉じ直すのを見て、たかちんってスケベ心を出さなければすごくモテるだろうになぁ、と美咲は残念に思ったが、すぐに、でもやっぱりスケベ心が出ようが出まいが、たかちんはモテないかもしれない、と思い直した。
 古市が女の子にモテるには、美咲の弟をどうにかしなければならないのだ。
 古市古市と、彼がいなければ朝も来ないような弟が、古市を手放すはずがない。彼女ができたと聞いたら喜んでやればいいものを、心狭く邪魔しに行くような弟なのだ。
 たかちんかわいそう、と思う美咲に、おら、と横から紙包みが差し出された。
「土産」
「お、ご苦労。何買ってきたの?」
 いつの間に側に来ていたのやら、最近特に気配を読ませない弟が差し出す紙包みを受け取り、美咲は豪快に紙を破った。びりびりと引き裂かれる茶色の紙が床に落ちると、すかさず古市が集めてくれる。
「コップ。琉球ガラスの」
 端的にしゃべる弟は面倒臭そうに腰を下す。そこは古市のすぐ側で、わざわざそこにあった古市の荷物を足で蹴って場所を空けるいつも通りの弟に、やっぱりさっき感じた微妙な距離感は気のせいだったのかな、と美咲は首を傾げる。
「へぇ」
 びりびりに破いた紙包みの中から現れたのは、すっとしたシルエットの緑の琉球ガラスだ。細身のグラスは持った手の中指と親指が触れそうなほど細く、壊しそうで怖い。
「………ありがと……」
 美咲は手の中のグラスを矯めつ眇めつ眺めた。
 悪い品ではないと思う。綺麗だし、見栄えもするし、使い勝手も良さそうだ。
 けれど、なんだろう。
 好みではないな、と思ったのだ。
 緑は好きではないし、細いグラスも使わない。美咲は豪快なので多少乱暴に扱っても割れない頑丈なものが好みだ。弟にこういうものを選ぶセンスはない。多分誰かが自分の好みで選んだのだ。
 となると、一緒に買い物に行く人物か、と美咲は古市に顔を向けた。
「たかちん、最近ちょっと好み変わった?」
「え?」
 古市はびっくりしたように顔を上げた。そして何を言われているのか解らないときょとんとした顔をするので、美咲は弟からの土産を持ち上げて見せる。
「たかちんっぽくないな、と思って。これ選んでくれたの、たかちんでしょ?」
「あ……」
 緑のグラスを見た古市がへにょりと眉を下げた。
 なんだか泣きそうな顔に、あれ、と美咲は首を傾げた。何か悪いことを聞いたのかと、柄にもなく心配してしまった美咲に、古市は申し訳なさそうに、やっぱり眉を下げたまま謝る。
「すみません。あの…それ、俺が選んだんじゃないんです……」
「へ、そうなの? あ、なんだ、やっぱり! たかちんならこういうの選ばないなと思ったからさ。なーんだ。え、じゃあ何、これ、辰巳が選んだの?」
 古市のすぐ側に座り、身体が触れているのに顔を見もしない、古市に何かをしゃべりかけるでもない弟が、あー、と面倒くさそうに答える。
「それ選んだの、邦枝だ」
「………邦枝って……ああ、あの髪の毛の長い子! え、あの子が選んでくれたの? へぇ!」
 そうなんだ、と目を丸くしてグラスを見下ろす美咲は、なるほどねぇ、と納得する。通りで美咲の好みではなかったわけだ。古市なら間違えずに美咲の好みを選んでくれる。
 通りでねぇ、と美咲は手の中のグラスを見おろしながら笑った。
「それじゃ良かったね、たかちん。自由時間、女の子と一緒に回れたってことでしょ?」
 チッと盛大に聞こえた舌打ちに、ん、と顔を上げると、美咲の弟は苦虫をかみつぶしたような顔をして、窓の外へ顔を向けていた。そちらを見ても何があるわけでもない。それにその不機嫌さは一体なんなんだろう、と思っていると、いえ、と古市は柔らかく微笑む。
「俺、別行動だったんで……」
「え、あー…あ、そっか、班別……とか……」
「いえ、俺、先輩とまわってたんで」
 嘘だ、と直感で言いかけた美咲はぐっとその言葉を飲み込んだ。
 石矢魔高校の先輩なんてもれなく不良で、古市はそう言うのがあまり好きではないはずだ。
 一人で回ったの、と美咲はなんとなく事情を察した。
「超楽しかったです。写真一杯撮ったし、いろいろゆっくり見れたし、だから、超楽しかったです」
 にこにこと笑う古市の顔が泣いているように見えたのは気のせいだろうか。目元が少し赤いような気がするのは、空元気を装っているように見えるのは、美咲の気のせいなんだろうか。
 古市はデジカメを取り出して、ここが首里城でこっちも首里城、こっちは美ら海水族館で……、と説明をしてくれる。その写真の中に古市は映っていない。景色ばかりで、人物が映っていないのだ。
 誰かとまわれば、それこそ古市の言うように先輩とでも一緒だったのなら、お互い写真を撮り合うだろう。景色ばかりのデジカメは、古市が一人だったことを如実に物語っている。
 美咲はちらっと弟を見た。
 やっぱり苦虫をかみつぶしたような顔で窓の外を見ている。窓ガラスには薄く、デジカメを操る古市の横顔が映っている。
 床に置いた弟の手は拳の形に握り込まれ、ぐぅっと力を込めて白くなっている。ああ、後悔しているのか、と思ったけれど、もう遅い。
 修学旅行は終わってしまったのだ。
「美咲さん、聞いてます? これ見てくださいよほら! 超うまいんすよ、このアイス!」
「え、ああ……とうきびのアイス? へーおいしそう!」
「実はクール宅急便で送ったんで、明日届くんです」
「え、ほんと?」
「はいっ! 俺、持ってくるんで、一緒に食べましょう」
 にこにこと笑う古市に、美咲は何とも言えない気分になる。
 弟と喧嘩をして激怒しているのか、それとも、深く傷付けられたのか。
 古市は美咲の弟を一度も振り返らない。けれどもぴたりと寄せられた身体を、追い払おうともしない。
 いつもうるさく古市古市とまとわりつく弟は、身体を寄せるだけで手を触れようとも声をかけようともしない。
 何があったの、と尋ねたい気持ちを堪え、美咲は、アイス楽しみだねぇ、と満面の笑みを浮かべた。



沖縄修学旅行が、あまりにも…あれだったので。
そろそろ男鹿は古市に一度捨てられるといい。そんな気持ちも若干ある今日この頃です。