雲のようにふわふわした幸せが足元いっぱいに





 白いやつを着せたい、と男鹿が言ったからなのか、美咲が友達からウェディングドレスを借りてきた。しかもベールやアクセサリーも入った本格的なやつだ。それもそのはずで美咲の友達はウェディングドレスや着物を扱う貸衣装やに勤めているのだ。
「どうよこれ!」
 ばーんっと突き出されたウェディングドレスを前に、古市が呆気に取られて言葉を失っていると、美咲がにんまりと悪戯小僧のような顔で笑う。
「たかちんにはこういうのが似合うと思ったんだー!」
「……おお」
 すげー、白い…、と男鹿がそろりと手を伸ばすのを美咲が電光石火の勢いでぴしゃりと叩き落とす。いや、ぴしゃりなどと可愛らしいものではなかった。ゴッと骨の折れたような音を立てて男鹿の手は床に叩きつけられる。
「汚い手で触るんじゃない! 汚れるでしょ!」
 普段なら、痛ェとか何しやがんだとか反論するはずの男鹿は叩きつけられた己の手を抱えて悶絶している。相当痛いらしく呻き声しか聞こえない。大丈夫かとさすがに心配になる古市の視界を、ずいっと美咲が占領した。
「ねねっ、これ、可愛いと思わないっ? これ、今年の新作なんだってよ! 特別に超安く借りたんだけどさ! ふわっふわでふわーってなってるの、可愛いでしょ! ねっ! 似合うと思わないっ?」
「あー……そーっすね……美咲さん、よくお似合いかと……」
「あたしが着てどうすんのよ! あんたが着んのよ! 折角持ってきてもらったんだからさっ、ほら、脱いで! ほらっ!」
「え、ちょっちょっと待って美咲さんまさか本気でそれを俺に着せるつもりなんすかっ?」
「当たり前でしょ! でなきゃわざわざ借りてこないわよ! ほらほらとっと脱ぎな! それとも無理矢理脱がせてほしいのっ?」
「いやもう無理矢理脱がそうとしてるじゃないっすか! ちょっと男鹿! テメーもちょっとは助けようとしろよ!」
 美咲の腕力に非力な古市が叶うはずもない。腕を取られ床に押さえつけられ、マウントポジションを取られる。せめてシャツを死守しようとがっちりシャツの合わせを押さえても、にやりと笑う美咲の手にいともたやすくシャツをはぎ取られる。びりっと嫌な音がしたが、せめてボタンが取れたとかその程度であると思いたい。
 助けてくれと男鹿の姿を探すと、男鹿は古市のベルトに手をかけている。カチャカチャと淀みなく古市のベルトを外す男鹿は、ずるりとジーンズを脱がしてしまう。
「裏切り者―っ!」
 思わず絶叫する古市に、ぽいとジーンズを放り投げた男鹿がにやりと笑って青ざめる古市の顔を見下ろす。
「なんとでも言え。テメーが白いの着てるの見たかったしな。諦めて着ろ」
 ちゅっと音を立てて鼻先にキスをされ、ひゃっと古市は悲鳴を上げる。あまりに突然な上に、あまりに当然のようにキスをされ、古市はぐるぐると目を回す。マウントポジション、つまり腹の上には美咲が乗っていて、間近でキスをされたのだ。口にではなかったけれど、まさかの出来事に混乱していると、あらら顔真っ赤、と美咲に笑われる。
「おおおおおおおおおがっ、お前、なななななっ」
「おーおー、顔がリンゴみてーだぞ」
「だだだだだっだれっの、せいだとっ!」
「あー、辰巳、そのままたかちん押さえといてー」
「おー」
 古市の両手をがっちりと男鹿が押さえる。美咲の手から男鹿の手に抑える手が変わっても、古市が抗えないのは同じだ。がっちりと掴まれた腕はびくともせず、男鹿がにんまりと見下ろす間、美咲がごそごそと何かをやっている。
 古市貴之、男鹿家へ訪れるようになって早十年近く、男鹿姉弟がこんなにも協力している姿を見るのは初めてだった。どちらかと言えば一方的に美咲が男鹿へと命じ、男鹿が嫌々渋々やらされていると言う姿を見ることが多かった。と言うよりもそれしか見たことがなかった。それなのにこの姉弟、目的が一致すればこんなにも協力してことを運ぶことができるのだ。ああ人間って成長する生き物なんだ…と目頭を熱くしている場合ではない。
「男鹿っ、テメェ今すぐこの手を離さないと一生口利いてやんねーからな!」
 男鹿に言えば必ず一発で言うことを聞く魔法の言葉を口に上らせると、男鹿は一瞬ぴくりと眉を動かしたが、すぐに真顔で古市を見下ろす。
「別にいーぞ」
 え、と息を飲む古市に男鹿はちょっぴり困ったような顔で笑って言った。
「今離したら、お前が白いの着てるとこは一生見れねーし。お前が白いの着てるとこ、一回見たいって思ってたし。一生口利かねーのはヤだけど、一生会えねーわけじゃねーしな」
 そんならいい、と笑う男鹿に古市はぐっと口を噤む。
 ばかめ、といつもは男鹿が言うセリフを古市は胸の中で吐き捨てる。
 一生口利かないなんてそんなことあるか、と唇を噛みしめていると、足にさらりとしてふわりとしてするりとしたなんとも曰く言い難い感触があたる。
「なななななにっ? なんか足にっ、足にっ!」
「あ、ドレス履かせるからちょっとじっとしてよたかちん。これ、結構高いんだから」
「そんなドレスを俺に着せようとしないでくださいよーっ! 美咲さんが着たらいいじゃないですか!」
「あたしが着たって面白くないじゃん。大人しくしてないと、足へし折るわよ」
 ふとオクターブほど下がった声で言われ、古市はひいっと竦み上がる。
 美咲に怯えている間に、ドレスは足に通されて太腿の辺りまで押し上げられてしまう。固まっていると、ちょっと立って、とようやく腹の上から降りた美咲に腕を叩かれた。
「いや、立ってって言われても……」
 どうやって立てばいいのか、と困惑する古市の足元はすでに白い布の渦だ。どこに足をついていいのかも解らない。そのまま立っちゃえばいいから、と言われて男鹿に腕を掴まれながら身を起こし、そろりと腰を上げる。するとすかさず美咲がずるっとドレスを引っ張り上げ、胸のところまで持ち上げたそれの背中のチャックをじゃっと上げる。
「よしできた!」
 足元に広がる白い布をささっと美咲は手で整え、前に回り込んで古市の姿を頭から爪先までとっくりと眺めた。
「おーっ、可愛いじゃん、たかちん! やっぱ似合うね、エンパイア!」
「……エンパイアっつーのが何か解らんです…」
 げんなりと溜息を吐くと、美咲は古市の胸の下辺りをぎゅっと掴んだ。ひゃっと悲鳴を上げると、美咲は胸の下の切り返しを指で示す。
「ここのこう…胸の切り替えしのとこ? そっからふわーって広がってるのがエンパイアラインっつーデザインらしいわ。腰のきゅっと絞ったやつもかわいいかなーって思ったんだけど、たかちんはこっちのふわふわしたやつかなって! うーん可愛い! あ、頭にこれ乗っけてね!」
 ちょんっと頭に乗せられたのは短めのベールだ。ドレスの裾同様にふわふわしていて、手で押さえないと落ちてしまう。慌ててベールを掴むと、ぱしゃりと美咲に写真を撮られる。
「ちょ、何撮ってんですか!」
「だって撮っとかないともったいないじゃん」
「いや意味解んないっすよそれ。男鹿、お前もなんとか言って……男鹿?」
 そう言えばさっきから静かだなと、男鹿がいる方を振り返ると、男鹿はなんだか夢を見ているような呆けた顔で古市を見つめていた。食い入るようなとは少し違う、けれど熱心に熱を帯びた眼差しに、うん、と首を傾げる。
「おーい、男鹿、どした?」
 いつにない表情が心配になり、スカートを踏まないように持ち上げて近付く。そっと手を伸ばしてぱちりと頬を叩くと、男鹿はハッと目を瞬く。
「う…あ、いや……すげ、古市、お前、超ふわふわだな…」
 これも、と銀髪の上に乗ったベールに男鹿が触れる。
「雲みてーだ」
「雲じゃねーだろ、霞だろ」
「かすみ? なんだそりゃ。乱馬のねーちゃんか?」
「あかねのねーちゃんだよ。そうじゃなくて、もやみたいなもんだよ。向こう側が見えるか見えないかの……たまにあんだろ、朝とか早いとき」
「おーあるある、それみてーだ」
 ふわふわとベールに触れ、男鹿は物珍し気に古市を見つめている。
「ふわふわだな」
「そればっかだなお前は」
「だってふわふわだしよ。マジで雲みてーだな」
「だからかすみだって」
 進展のない会話に焦れ、古市はそれで、と胸の前で腕を組んだ。ベールは頭のいい位置に置いておけば落ちないと解ったし、腕を上げっぱなしも疲れてきたのだ。
「そんで? 男鹿くんはこの恰好を見れて満足なのかな?」
「おー超満足だぞ!」
 にかっと笑った男鹿が、あ、でも、と眉を下げる。
「一生口利かねーのって、明日からか? それとも今からか?」
「あ? あーあれか…いや、あれは別に……」
「一生口利かなくなる前に、好きだつって」
「は?」
 何を言っているのだとぽかんと男鹿を見つめると、男鹿はすがすがしいくらいに明るく笑う。これから一生口を利かないはずの相手を前に、それはあまりにもあっけらかんとしている。
「だってちゃんと言ってもらったことねーし」
 だからちゃんと聞いときたい、とそう言う男鹿に古市はやっぱり内心で、ばかめ、と吐き捨てる。
 古市が脅すために一生口利いてやらないと言った言葉を真に受け、それを守ろうとする馬鹿な男鹿に、古市は両腕を伸ばした。驚く男鹿の首にぎゅうっと両腕を回しかき抱く。
「男鹿のアホ!」
 男鹿と自分との間でふんわりとドレスが揺れる。慣れない感触に戸惑いながらも、古市はぎゅうぎゅうと男鹿を抱きしめた。咄嗟に背中に回された手は、白いドレスに触ってもいいのかどうかと迷っている。
「一生口利かねーなんて冗談に決まってんだろ馬鹿! そんな簡単に諦めんなバカオーガ! つかそんな簡単に諦めるつもりかよ俺のこと! そんでいいのかよ! 一生口利かなくていいのかよ!」
「いいわけねぇだろ」
 ぎゅうと背中を痛いくらいの強さで引き寄せられ、息が詰まる。けれどそれも男鹿の執着の強さだと思えば辛くもない。むしろ幸せなくらいだ。
「言っとくけど、お前に口利かねーって言われても、俺はお前の側から離れねーぞ。ずっと付きまとってやる」
 それこそ一生、と男鹿の言葉は耳に直接触れて鼓膜を揺らす。
 古市はぎゅうと男鹿の肩に顔を埋める。じゃあそうして、と小さく囁いた言葉は、おそらく男鹿の耳に届いたのだろう。そうする、と返る同じくらい小さな声は恐るべき大きさで古市を幸せにする。だから古市は今自分が抱えているこの幸せを少しでも男鹿に伝えて、男鹿も幸せにしてやろうと顔を上げる。すんっと鼻を鳴らして額を摺り寄せ、間近で男鹿の目を見つめながら笑って言ってやる。
「好きだぞ」
 しっかりと、はっきりと、きっぱりと。
 聞き間違える余地のないほどきっちり伝えた言葉に、男鹿はぽかんと呆気に取られていたが、聞こえたのかよと古市が尋ねると、途端に見る見るうちに満面の笑みを浮かべる。そして感極まったかのように古市の頬を両手で掴むと、ぶちゅっと勢いよくキスをした。
「ん、うっ」
 思わずぎゅうっと目を瞑ると、魂まで根こそぎ奪うような深く濃いキスを求められる。頬を包む男鹿の手に、己の手を重ねる。そのまま腕を辿りもう一度男鹿の首に両腕を巻きつけようとした時、ゴホンッ、と大げさにされた聞えよがしな咳払いにハッと我に返る。
「あー……えと、熱烈なチューしてるとこ悪いんだけどさ」
 男鹿の首に両手を伸ばしかけた中途半端な姿勢のまま、古市はぎくしゃくと振り返る。そこにはにんまりと笑みを浮かべた美咲が、とりあえず真面目な顔を取り繕おうと失敗した奇妙なにやけ顔で眉を寄せている。
「そのドレス、一応借り物だから、あんま汚さないでね」
「あ、う、いいいいいいいいや、ああああああのみさっ、美咲さんっ! これは…そのっ、あのっ!」
「いや、たかちん、何言ってのか解んないけど何も言わなくていいから」
「じゃあどっか行け」
「ちょっと辰巳! あんたね、影の功労者に向かってその態度は何よ! レンタル料あんたのお小遣いからさっぴいとくからね! えーとまぁたかちんそう言うことだから、お邪魔みたいだし出て行くけど、とりあえず、汚さなきゃ何やってもいいし」
「ななななななにやるってなにやるって…ななななにもしませんよっ!」
 顔を真っ赤にした古市に、美咲はいいのいいの解ってるからと取り合わない。
「ヒルダちゃんには黙っといてあげるからね。たかちんには苦労かけるかもしれないけど、ま、嫁入りしたつもりでこれからもよろしくね!」
「よ、めいり…って……いや、あの……それは違うんじゃ…っ?」
「一生てのはそういうことじゃないの? あんたはそういうつもりだったんでしょ?」
「おー、そーゆーつもりだ」
「だってさ。そんじゃお邪魔虫は退散するわー!」
 最後にぱしゃりと携帯電話で写真を撮り、美咲はひらひら手を振りながら部屋を出て行く。いや美咲さんちょっと待ってっ、と追いかけかけた古市をがしっと掴み、男鹿はひょいと古市の身体をいともたやすく持ち上げて抱き上げてしまう。ぎゃあと思わず悲鳴を上げ、振り落とされないようにがっしりとしがみつく古市を見上げ、男鹿がにんまりと笑う。その顔はさすが姉弟だけあってそっくりだ。
「よっしゃ、そんじゃ古市は俺の嫁さんだな!」
「ああああアホかっ! 男鹿テメェ馬鹿振り回すなっ! 超怖ぇっ!」
「おー、ふわっふわだぞ!」
「振り回すなばかーっ!」
 がっしりと抱き上げられたまま、くるくるとその場で回られるので目が回る上にものすごく怖い。ウェディングドレスのスカートは想像するよりも長くて、男鹿がうっかりそれを踏んでしまったら古市はもれなく床に激突だ。
 恐怖でぎゅうっとしがみつくとそれを勘違いした男鹿が喜んで更に回転に勢いをつける。狭い部屋でぶんぶんと振り回される間に恐怖がどこかへ吹っ飛んでいったらしい。ふわふわ揺れるスカートの裾を目の端に捉え、古市はいつの間にかけらけらと笑い声をあげていた。






ツイッターでぼろぼろと古市に着せたいウェディングドレスを呟いていたら某様が拾い上げてくださってイラストにして下ったので。
きゃっふーと喜びながら文章を作ってしまった…。なんていうかお手軽な私。
らっぶらぶな感じを表したかったんだ!!
おがふる結婚企画に寄せた小説でした。