これからもとてのひらに願いを込めて
おがふるキス企画 お題「てのひら」


 じわじわと近付く夏の暑さに夜とは言え窓を開けていても暑い。窓を全開にしていた古市は、外から聞こえる調子っぱずれの鼻歌に頬を緩めた。どんどんと近付いてくるそれは、男鹿の鼻歌だ。続いて玄関が開く音がして、ちわー、と男鹿の声が響き渡る。古市の母親が何か言うのが聞こえ、すぐに階段を上がる足音が続いた。
「うおーい古市、帰ったぞー」
 男鹿が来たことを男鹿が家に入る前から知っていた古市は、おう、おかえり、と軽く声をかけ、勉強机から顔を上げない。机一杯に広げたのは聖石矢魔学園で使っている教科書だ。佐渡原が都合してくれたそれで、古市は暇さえあれば勉強をしている。石矢魔高校に通っているからと言って、大学進学をあきらめたわけではないし、できればいい大学へ入りたいとも思っているのだ。
 古市が勉強を始めたばかりの頃は何かと邪魔をしていた男鹿も、最近では特に用事がなければうるさくまとわりつかなくなった。今も部屋に入ってくるなり、古市が勉強していると知ると、お、と足を止め、ちょっと困ったような顔をしている。
 古市はかりかりとシャーペンを動かす手を止めずに言った。
「もーちょいしたらキリつくから」
「おー……んじゃ、風呂行ってくるわ」
 男鹿はそう言うとタンスの中から着替えを持って部屋を出て行った。
 ちなみにここは古市の部屋で、男鹿が勝手に開けたタンスは古市のタンスだ。けれど少し、男鹿の着替えが入っている。今更、誰んちだと思ってんだよ、などとは言わない。古市の家族も誰も言わない。
 男鹿が部屋を出て行くと、古市はぱらりと教科書を捲り、書き連ねられている英語に目を走らせる。
 古市が勉強するようになったのは、この春に卒業した薫の影響だ。彼は石矢魔高校から大学へ、しかもそれなりの大学へ進んだのだ。卒業式で薫はそれまであまり交流のなかった古市に、使い古しですまないが、と参考書やらをくれた。恐らく彼には、古市が大学に進もうと思っていることも、なんとなく今の状況では前に進めないと焦れていることも解っていたのだろう。
 薫の参考書を使いながら勉強を始めたものの、一年間何もしてこなかった古市の学力はかなり落ちていた。石矢魔高校の教科書など役には立たず、佐渡原に相談したら、聖石矢魔学園の教科書を都合してくれたのだ。個別に教えることはできないが、頑張る分には応援するからと、意外にも親身になってもらえた。
 できたら医者になりたいな、と男鹿にだけは打ち明けた。
 なんで、ときょとんと目を丸くする男鹿に、誰かが怪我ばっかするからな、と笑うと、男鹿はぐぅと唇をへの字にした。あれは泣くのを堪えた顔だったんだろうか、と古市は息を吐き、勉強から意識が逸れた頭をぶるりと振るう。
 そう言えば、なんで勉強なんかするんだよ遊びに行こうぜゲームしようぜ漫画読もうぜ、と煩かった男鹿が、勉強中は邪魔をしなくなったのもそれを打ち明けてからだっただろうか。そして男鹿は古市が勉強する合間を埋めるように、バイトに精を出し始めた。
 東条の紹介で建築現場で働いている。東条同様に力が強いので重宝されているのだそうだ。学校が終わったらバイトに行き、十時頃に帰ってくる。自宅には帰らず、古市の家に帰ってくる方が多い。
 ふわりと入った風に目を細め、古市は再び英文に取り組む。一通り読み、解らない単語を抜き出し、辞書を捲る。電子辞書は便利だが、スペルを覚えるのなら辞書の方がいい。
 そうしていると男鹿が部屋に戻ってくる。水とシャンプーの匂いがして、相変わらず烏の行水だなぁと思っていると、おら、と机の端に氷の揺れるグラスが置かれた。ラムネの匂いがする。
「おばさんが」
「ん、さんきゅ」
「今ほのかが風呂行ったから、上がったらお前風呂行けだって。あとゼリーあっからって」
「んー」
 古市の生返事に、男鹿は怒りもしない。ぱたぱたと団扇で顔を仰ぎながら勉強机の横の壁にもたれ、ぱらぱらと漫画を捲っている。
 いつの間にかそこは古市が勉強中の男鹿の居場所になってしまった。よく躾けられた犬のような男鹿にふと頬を緩め、古市は口を開く。
「もうちょいな」
「おう」
 かりかりとペンが走る音、ぺらぺらと辞書と漫画を捲る音、からんと氷が動く音だけが部屋に広がる。
 単語をすべて訳し、文章を訳し、接続詞で少し手間取ったけれどなんとか訳すことができた。それから参考書を見て接続詞の使い方を勉強し、薫が書き込んだ文字にも目を走らせる。独特の字だが慣れれば何とか読めた。それを古市なりに解釈し、適当な文章を一個作って、納得がいかなかったのでもうひとつ作る。それから、ぱたりと教科書を閉じる。
 男鹿が顔を上げていた。
「終わったぞー」
 うんっと腕を伸ばして背中をぽきりと鳴らすと、そーか、と男鹿が頬を緩めた。嬉しそうな顔に手を伸ばせば、男鹿の大きな手が手首を掴む。汗ばんだてのひらにキスをされる。手相を辿るかのように舌が這い、しょっぱい、と男鹿が笑ったので、当たり前だろ汗かいたんだから、と古市は苦笑する。
 男鹿はキスをしたその手のひらに頬を摺り寄せる。甘えているのだ。
「今日のバイトはどうだった? 今、ビルだっけ、作ってんの」
 いつものようにそう尋ね、古市は椅子を引いた。おいでと促したわけでもないのに、男鹿は立ち上がらずに尻をずらして近付き、古市の膝に頭を預ける。首からかけていたタオルで濡れた髪を拭ってやると、心地良さそうに細める目がやっぱり犬のようだ。
「おう。荷物運びばっかだけどな。今日、ビルん中入ったぞ。骨組ばっかだけど」
「へぇ。廃ビルみたいな感じ?」
「いや、なんか、足場しかなくて超怖ェ」
 男鹿の口から自分が見たことのないものの話をされるのが新鮮だ。
 バイトを始めてから男鹿は見てきた様々なものを、できる限り古市に伝えようとしてくれている。ベル坊の絡みでたまに魔界へ行くこともあるけれど、帰ってきたら拙い言葉で一生懸命、ベル坊がどうだ、ヒルダがああだ、といろんなことを話してくれる。
 気の短い男鹿が時間をかけてそうしてくれるたびに、ああ愛されているなと古市は頬を緩めるのだ。
 ある程度水気を拭い取った髪を撫でていると、男鹿がやっぱり古市の片手を掴む。指を絡め、ちらりと見上げる目に、うん、と首を傾げると、あのよー、と男鹿は驚いたことに自信のなさそうな顔で尋ねた。
「夏休み、ずっと勉強すんのか?」
「ああ…そだな。どうしようかな……夏季集中講座とか、そう言うの塾でやるって言うから、申し込めそうならそうしようかと思ってたけど……なんでだ?」
「旅行、行かねーか?」
 男鹿の口から出た思いがけない言葉に、旅行、と目を丸くすると、旅行、と男鹿は神妙な顔で頷く。
「どこでもいいけど、二人で行かねーか? バイト代、結構溜まってるし、ちょっとくらい、そのかききゅーかとか休めねーんか?」
「夏季集中講座な。夏季休暇は夏休みのことだぞ。ま、ちっとくらいなら休んでも平気なんだけどな。なんだよ男鹿くん、最近遊んでもらえねーから寂しくなってきたのかなー?」
 んー、と顔を覗き込むと、悪ィかよ、と男鹿は頬を膨らませる。
「だってお前ずっと勉強してばっかだしよ。そんな勉強ばっかしてっと頭悪くなるぞ!」
「頭悪いから勉強してんだよ。そんで? どこ行く?」
 え、と顔を上げる男鹿に、古市はにかっと笑って見せた。
「旅行行くんだろ? 俺、あんま金ねーから近場だな。軽井沢なら別荘あんぞ」
「軽井沢行くんなら姉貴もついてくっからやだ」
「あー…そか。そんじゃ、どこがいいかなー。いっそ行ったことないとことか」
「北海道とか」
「おお、いいな。うどん食いたいから四国めぐりとかどーよ」
「うどんよりラーメンがいい」
「博多かぁ」
 見上げる男鹿の頬に、額にキスをする。それから唇をそっと重ねるとすぐに男鹿の舌がぺろりと古市の唇を舐める。やっぱり犬のようだと思いながら、古市は間近にある男鹿の目を見つめ微笑む。
「行ったことないとこ行こうな」
 おう、と頷く男鹿の伸ばした手に首を引き寄せられる。再び唇を重ね、男鹿の力に従うがまま椅子から男鹿の太腿の上へと滑り落ちる。背を抱き寄せられ、首筋に顔を突っ込んでぎゅうぎゅうと抱きすくめられる。いつになく甘えたモードになっている男鹿の髪を撫でていると、来年も、とくぐもった声が直接肌に囁かれる。
「来年も、再来年も、その次も、行ったことないどっかに行こう」
 古市は、うん、と頷き濡れた髪に頬を寄せる。
 夏が近付く夜は暑くて、べったりとくっつくのも嫌な気温なはずなのに、男鹿の体温はなぜか心地よい。古市は離れる気にはならなかった。



おがふるキス企画 お題「てのひら」。
背中へのキスの意味は懇願の意味だそうで。
ずっとずっと一緒にいろよこんちくしょー!な男鹿さん。