きみはぼくのナンバーワン


 リビングの床の上にひっくり返り黒こげになる弟と、そこまでひどくないもののそれなりに被害をこうむっている弟嫁、そして弟に似て目つきの悪い甥がリビング中を縦横無尽に走り回る猫を追いかけ、怒り心頭の様子で這いまわっているのを見おろし、溜息を吐いた。
 弟が妙な厄介ごとを持ち込むのはいつものことなのですっかり慣れてしまったのだが、今回は相当ひどい。
 帰宅途中に拾ってきた猫が弟に懐いて離れないらしいが、それがベル坊の怒りを買っていることを弟は理解していないのだ。
 弟もそうだが、弟嫁もそうだ。
 若くして子持ちになってしまったこの新婚夫婦は(まだ正式に結婚はしていないので夫婦と言うわけでもないのだが)、赤ん坊の扱いに慣れていないように美咲には見えた。
「だーっ! だーっ! ぶーっ!」
 ベル坊は必死で這いずりまわっているが、俊敏な猫に叶うはずもない。
 それが更に怒りの炎に油を注いでいるようで、ベル坊はぱりぱりと放電しながら猫相手に喧嘩を売っている。
 爪先で弟を蹴飛ばしてみてもうんともすんとも言わず(だがさして心配はしていない。美咲の弟は頑丈なことにかけてはトリケラトプスにも匹敵する)、弟嫁は弟嫁で炭化したコロッケを残念そうに見おろし、坊ちゃまを怒らせてしまった…、と嘆いていた。
 さーどうすっかねー、と美咲は二本目のアイスを食べながら首を捻る。
 ベル坊のご機嫌を取るには弟夫婦がベル坊を甘やかしてやればいいと思うのだが、あの猫がそうはさせじと横槍を出してくる。
 可愛い顔してなかなか根性のある猫だ。
 どうしたもんかね、と思っていると、床の上に伸びていた弟がむくりと身を起こした。
「お、気付いたか。辰巳、あれなんとかしなさいよ」
 ぎゃーぎゃー喚きながら猫を捕まえようとしているベル坊を顎で示すと、知るか、と弟は不貞腐れてソファにどっかり腰を下す。それきり振り向きもしないので、こりゃ駄目だ、と美咲は溜息を吐いた。
 ベル坊もそうだが、弟もへそを曲げると手ごわい。
 昔からそうだ。へそを曲げた弟の機嫌を取れるのは姉である美咲でもなく母親でもなく、ましてやいるかいないか解らない父親などでは勿論ない。
 こうなった以上、美咲にできる手段はひとつだ。
 美咲はアイスを食べながらリビングを出た。部屋に置いてある携帯電話を取りに行こうと思っていたのだが、階段を中ほどまで上った所で、バリバリっとすさまじい電撃音と弟の悲鳴が聞こえてきた。またベル坊の癇癪が炸裂したらしい。やれやれ、と美咲は苦笑する。
 部屋に置いてある携帯電話は何かの着信を告げるランプが光っていた。どうでもいいメールだったのでそれは放っておいて、美咲は割と使用頻度の高い連絡先を呼び出す。
 電話をかけると、ほどなくして目的の人物が電話に出た。いつも通り嬉しそうな、ほんのりとはにかんだような柔らかい声に、美咲は知らず頬が緩む。
「あ、たかちん? 今どこにいる? 家? それならさー、悪いんだけどうち来てくんないかなぁ。ベル坊がへそ曲げちゃってさー…。辰巳もヒルダちゃんも手に負えないのよ。え? あ、そうそう、なんだ知ってんの? その猫がどーも気に食わないみたいで……あ、うん、いいよ。うん……うん、悪いね。うん、それじゃね」
 電話を終え、ぱちんと二つに折りたたんだ携帯電話を尻ポケットに捻じ込む。垂れそうになったアイスを、やべっ、と舐めとり、再びリビングに戻れば案の定、ソファの上には黒こげた弟と、器用にも電撃は避けた猫がいる。弟嫁も少なからず餌食になったらしく、さっきよりダメージは大きく、テーブルの下では見慣れないおっさんが縮こまっている。
 あの大きなおっさん、弟の知り合いらしいが、最近弟には妙な知り合いばかりが増えている。
 前は弟の知り合いはイコール友達で結ばれて、それは一人しかいなかった。
 狭い交友関係を心配していたものの、広がれば広がったで妙な連中ばかりで困る。
「あらーヒルダちゃんもまた食らっちゃったの」
 珍しいわねー、とのんびり声を漏らす美咲の足元に、猫がにゃあんとすり寄ってくる。けれどベル坊の癇癪の原因が解っている美咲は、癇癪の餌食にはなりたくないのでひょいとその足を避けた。
 にゃっ、と猫は驚いたように美咲を見上げ、ベル坊がにやぁあと嫌な笑みを浮かべる。
 ほらやっぱり嫉妬じゃん、と思った時、こんちわー、と玄関から聞きなれた明るい声がかかった。
「みょっ」
「ふるいちっ」
 ベル坊がぱっと顔を上げ、同じくらい勢いよくソファの上の弟も振り返る。
「お邪魔しまーっす。あ、美咲さん、こんちわー」
 ひょっこりとリビングに顔を出したのは、美咲がさっき電話で呼び出した弟の友人だ。銀髪に綺麗な顔をして、今でも十分に可愛らしいが小さなころはもっと可愛らしかった。弟が俺の友達だと連れてきたときには大丈夫かなこの子と心配したものの、今ではすっかり美咲にとっても頼りがいのある弟分だ。
「古市、いいところに……」
 弟が何かを言いかけたのを、美咲は強引に遮った。
「たかちん、いらっしゃーい」
 自分が電話をしたことはおくびにも出さず、また古市も電話で呼び出されたことなど匂わせもせず、偶然を装って笑顔を交わす。ちらりと合わせた視線で、どーです、やっぱだめ、りょーかいです、と言うやりとりがある。
 古市はにこりと笑うと床の上に座り込み、怒りもあらわに目を据わらせているベル坊にためらいもなく手を伸ばす。
「よーベル坊、どした? ご機嫌斜めなのか?」
 古市がひょいとベル坊を抱き上げると、ヒルダが、あっ、と思わずと言ったように手を伸ばす。多分ベル坊が怒り出すと思ったのだろうが、ベル坊は古市に顔の前まで両手で持ち上げられると、だぁ、と甘えた声をあげた。
「あれ、ちょっと目赤いな? 泣いたのか?」
 だぁだぁと両手を伸ばしてちゃんと抱っこをしてくれとねだる赤ん坊を、古市はしっかりと抱きしめてやる。ベル坊を腕に据わらせるようにして、もう片方の手で背中を支える。安定感のある抱き方を見て、うんうんたかちん、いいお母さんになるよ、と美咲は何度か頷いた。
「古市、なんか用か?」
 遊びに来た古市が自分を無視してまずベル坊の相手をしていることが気に食わないらしい。美咲の弟は目を据わらせ、不貞腐れた顔をして古市を睨んでいるが、古市はあまり頓着せず、いや、と首を振る。
「用事がなきゃ来ちゃ駄目なのかよ」
「いや、そんなことねーけど……。ま、座れよ」
 ぽんぽんと自分の傍らを叩く弟に、あらま、と美咲は笑いをかみ殺す。
 弟は自分の側に座らせて、手の届くところに古市を置こうとしているのだ。
 独占欲とか嫉妬心の強さなら、ベル坊よりも弟の方が強いんじゃないだろうか。事実今だって、腕に抱かれて安心しきった顔のベル坊に嫉妬心をむき出しにしている。
「えー…なんかそこ焦げくせーんだけど…」
「しゃーねーだろ、ベル坊がまた駄々捏ねたんだからよー」
 弟がそう言った時、元凶の猫がにゃぁあんと甘えた声を上げてソファに飛び乗った。弟の太腿に顔を摺り寄せ、長い尻尾をくねらせている。だっ、とベル坊が目を据わらせるが、さっきよりも険はない。
「あれ、その猫ってお前のコロッケ取った奴じゃねーの? なに家まで連れてきてんだよ」
「知らねーよっ! 勝手についてきたんだよ…! いいからこっち来て座れって!」
 弟の太腿に思う存分すり寄った猫は、今度は目標を古市へ変える。なぁあう、と甘えた鳴き声で古市を誘い、無邪気な顔で首を傾げている。うっかり可愛いなんて呟いてしまいそうなつぶらな瞳に、けれど古市は誘われない。
 腕の中で唸るベル坊に顔を向け、猫がいるけど、と声をかける。
 ベル坊は多分、古市も、わぁ猫だかわいいー、なんて言って手を伸ばして猫の頭でも撫でるのではないかと思っていたらしい。冷静な声をかけられて驚いたように古市を見上げている。
「ベル坊、猫がいるぞ」
「だ」
「撫でるか?」
「だぶっ」
 嫌だと首を振るベル坊に、そっか、と古市は笑いかける。
「そんじゃ俺もいーや。ベル坊、部屋に戻ってお昼寝しよーぜ。俺、眠たくなっちゃったから付き合ってよ」
 んー、と額に額をくっつけてぐりぐりする古市を見て、ほほうと美咲は感心する。たかちん、なかなかやるな、と思ったのはベル坊にまず意向を聞いてから自分の行動を決めたところだ。
 ないがしろにされて怒っていたベル坊には、一番に自分の意志が尊重されて効果てきめんだ。
「あいっ」
 さっきまで膨れ面が解けなかったのが嘘のように、ベル坊はにこーっと笑う。良い子のお返事に、古市も嬉しそうだ。
「男鹿、俺、ちょっと昼寝するなー」
「え、いやちょっと待て古市! 昼寝ってどーゆーことだ! ベル坊とかっ? 添い寝かちくしょう! 許さねーぞっ!」
 大慌てでソファから立ち上がり駆けよる弟は、美咲の目にはとにかく必死に見えた。すでに部屋を出かけていた古市はどたばたと駆け寄ってきた男鹿に腕を引かれ、眉を寄せる。
「なんだよ男鹿」
「俺も一緒に寝るっ!」
 子どもかお前は、と美咲は溜息を吐く。
 そして古市がベル坊の扱いに長けているのも当然か、とその光景を前に納得する。
 何しろ古市は、自分の前だけでは駄々っ子になる弟をずっと相手にしてきたのだから。
 その子供のベル坊の扱いに慣れていても当然だ。新米のパパママよりも年季が入っているのだ。
 男鹿の後から追いかけてきた猫が、ボクも一緒に寝る、とばかりににゃぁああん、と声を上げる。ベル坊がこめかみを引きつらせたその時、古市は、えー、と心底嫌そうに顔を顰めた。
「男鹿、お前焦げくさいからヤダし、猫はベル坊が嫌だって言ってるからヤダ。俺はベル坊とお昼寝したいんだもん」
 なー、と古市の甘い声にベル坊のつり上がった目もへにょりと下がる。
「え、いや、俺も一緒に……」
「だから嫌だってば。お前はその猫とそこで昼寝してたらいーだろ。部屋に入ってくんなよ」
 ぴしりと指をさし、古市はベル坊を抱いたままリビングを出て行く。
 置いて行かれた弟は、いやいや俺の部屋だろっ、と慌てて後を追いかけたが、先に部屋に入った古市にぴしゃりと眼前でドアを閉められてしまったようだ。二階からどんどんとドアを叩く音と、ここ開けろよ古市っ、と叫ぶ弟の声が聞こえてくる。
 自分の部屋なのだし、鍵もついていないのだから開ければいいのに、あの傍若無人な弟は古市の前だけではどうにも大人しくなるらしい。それこそ、借りてきた猫のように。
 ぺろりとアイスを舐め終え、美咲は裸になった木の棒をぽいとゴミ箱に放る。
 見ればヒルダもほっとしたように息を吐き、乱れた髪を整えている。美咲が見ているのに気付くと、恥ずかしさを誤魔化すようにちょっぴり笑みを浮かべ、散らかったリビングを片付け始める。
 二階からはどんどんとドアを叩く音と、開けてくれ古市〜っ、俺も入れてくれーっ、と懇願する弟の情けない声が聞こえてくる。その後に続く、にゃああ、と言う声が消えない限りそのドアは開かないと言うのに、理解力の少ない弟は気付いていないようだ。
 やれやれ、と美咲は溜息を吐いた。
 にぎやかさは変わらないが、甥のぱりぱりと放電を伴う癇癪は収まったのだからよしとしよう。それにそのうち、煩い弟も古市によって、ご機嫌よろしく黙らされることだろう。
 もう一本アイス食おうかな、と美咲は台所へ向かう。
 二階からはまだ、ふるいち〜っ、とドアに泣きつく弟の声が聞こえていた。





何かにつけて古市を呼び出す男鹿家の風習はベル坊が王熱病を発症したときにも発揮されてたなぁ。
きっと困ったときには古市! 困ってなくても古市! とにかく古市!な男鹿の行動が家族にも浸透してるはず。
もはや家族ぐるみで古市頼みな男鹿家萌え。
でもって美咲さんは古市=うちの子認識だと思うので、あらまーベル坊機嫌が悪くて辰巳にも手に負えないんならたかちん呼ぶか、てな感じだと思います。