堪忍袋の緒が切れました。


 青天の霹靂ってのはこーゆーことを言うのだ、と古市は目の前で繰り広げられている女の戦いを見てふとそう思った。
 よもや男鹿を巡って女二人が言い争うことになろうとは。
 ヒルダの記憶がないことをいいことに、美咲があれこれいらない知識を吹き込んだらしく、ヒルダは今、間違いなく自分は男鹿の妻だと思い込んでいる。世間的にはそうなのだろうけど、今までヒルダにそんな気がまったくないせいで、なんとも思っていなかったのだが、なんか、おかしくないか、と古市は眉を寄せる。
 ヒルダがにこにこと笑いながら、目の前にいるのは自分の敵だと女の本能で察しているらしく、こちらもにこにこと笑いながらこめかみを引きつらせている邦枝に先制攻撃をかます。
「ですから、私は辰巳さんの妻だと言ったんです」
「はぁっ? 今さら何言ってんのよ! あんだけ男鹿を蹴ったり殴ったり挙句は仕込み傘で掻っ捌こうとしておいて!」
 うんうん確かにそんなこともありましたねぇ、と古市は頷く。
「そんなことをした記憶は私にはありませんし、以前の私がそうであったとしても今は、心底、辰巳さんを愛しているんです! そんなことするわけないじゃないですか!」
 ぐっと拳を握り締め宣言するヒルダの言葉に、廊下がざわっとざわめく。
「あああああああいって、愛って…あんたねぇっ!」
 顔を真っ赤にして両手を振り回す邦枝と、ヒルダとの言い争いはさらに激しさを増している。
 ヒルダはいかに自分が男鹿を愛しているかを語り、それへ邦枝が突っ込みやら文句やらをぶちまけるやり取りが暫く続き、うーんなんだかなぁ、と古市は眉を寄せた。
 男鹿はぼーっと、と言うよりも、茫然と、そのやり取りを眺めていて収める気はまるでないらしい。廊下にはざわざわといろんな人が集まってきていて、石矢魔の生徒も聖石矢魔の生徒もごちゃまぜだ。まるで見せ物なこんな状況でも臆せず、ヒルダは両手を握りしめひときわ大声で叫んだ。
「私以上に辰巳さんを愛している人なんかいませんっ! あなたは私以上に辰巳さんを愛してるって言うんですかっ!」
「なななななな何馬鹿なこと言ってんのよ! そ、そーゆーこと言ってるんじゃなくって…ッ!」
「さっきからなんですっ、あなたときたら私の辰巳さんへの愛を疑うような事ばかりっ! 辰巳さんを私から奪うつもりなんですねっ?」
「ば、馬鹿言ってんじゃないわよッ! 奪うとかそーゆーことじゃなくってェっ!」
 ぎゃいぎゃいと喚く女二人の争いに、あー…、と古市は生ぬるい笑みを浮かべる。
「やってらんねー」
 ふるいち?と振り返る男鹿が、ぎょっとしたように目を見開く。
「え、ちょ…ふ、古市…くん? な、なんか怒って……」
 珍しく男鹿が焦ったような顔をしているが、フラストレーションの溜まりまくった古市の目には入ってはいない。
「あほらしくてやってらんねーわ」
 へっと溜息を吐き、古市はむしゃくしゃした気持ちをそのままに口を開いた。
「さっきからごちゃごちゃやってるとこ悪いんすけど」
 張り上げた古市の声に、ぎゃいぎゃいと口論を続けていた女二人も動きを止める。振り返った邦枝と、顔だけをこちらへ向けたヒルダに、古市は笑みを向ける。わざとではなくついついその笑顔は挑戦的なものになってしまうが仕方がない。苛々しているのだ。
「ヒルダさんがどんだけ男鹿を愛してるのか知りませんけど、俺に勝てるはずないですよね」
「はぁ?」
 邦枝が訝しく眉を寄せ、ヒルダは不愉快そうに眉を寄せる。
「なんですいきなり…えーと、キモ市。いきなり割り込んできて。今は辰巳さんの妻の座をかけて戦っているところなんです。邪魔をしないで……」
「だからぁ、それが無意味だって、教えてあげてるんじゃないですか、親切にも」
 にこりと意識して綺麗に微笑む自分の顔が、どれほど相手にダメージを与えるか古市はよく知っている。小学校、下手をしたら幼稚園の頃から顔だけは綺麗と言われ続けてきたのだ。取り澄まして、真顔を装っていれば誰も近付いてこないし、にこにこと相好を崩せば他愛なく相手を思い通りにできることを、古市はかなり早い段階で解っていた。だから相手を黙らせ、傷付ける方法だって解っている。
 口元を緩く微笑ませ、目は蔑むような眼差しを作る。少し首を傾げ、薄く開いた唇でふっと息を吐けば、邦枝が驚いたように目を丸くした。その隙を逃さず古市は畳み掛けるようにしゃべりまくる。
「だって俺は小学校の時からずっと、ずーっと、それこそ一年三百六十五日顔を合わさない日がないってくらいずーっと男鹿と一緒にいるわけですから。ベル坊やヒルダさんがきてからちょっと距離空いたけど、まぁ、それも仕方ないかなって思ってたんですよね。なるべくしてなったって言うか。男鹿のアホのせいでなし崩しにこういう悪魔がらみの出来事とかが立て続けに起きて、一週間近く顔を合せなかったことなんて男鹿と知り合ってから初めてってくらいなんですけど。解ります? ありえないでしょ普通。始終一緒なんですよ年柄年中! 正月の初詣は当然二年参りだし小学校中学校の頃なんて家族ぐるみで毎年夏休みに旅行ですよ! お互い誕生日には一緒にいて、週一でお泊りして、クリスマスだってお互いの家で祝うんですよ! 男鹿の好物だって知ってるし嫌いなものだって知っているし男鹿だってそうですよ。俺の好物も嫌いなものも知ってるし、それに俺が絶対にされて嫌なことはしませんしね。俺の言うことって割と聞いてくれるし、知ってます? 男鹿って二人きりの時ってめちゃくちゃ優しいんですよ。ああ知るわけないですよね、二人きりになる機会なんてそうなかったでしょうし。俺は今までずっと二人きりでいて、ベル坊が来てヒルダさんがきて、まぁそこまでは許容できますよ俺だってそこまで独占欲強いわけじゃないですよ。そりゃ独り占めしたいって最近は良く思いますけどね。事情が事情だからずっと我慢してきましたけどね! それはヒルダさんが男鹿に全く興味がなかったから我慢できたんであって、それが、なんですか? 記憶失った女がいきなり自分が辰巳さんの妻ですーなんて現れて、にこにこ笑ってられるわけねーでしょ。俺、そこまで寛大じゃないんすよね。て言うかヒルダさんも邦枝先輩も、男鹿が誰を好きか解ってます? そこんとこはっきり聞いたことあります? そもそもこのアホに今まで誰も言い寄らなかったって思ってます? なんか今はお二人だけが男鹿を狙ってるみたいな感じで言い争いされてますけど、だとしたらほんっと節穴ですよねお二人の目は。男鹿って意外とモテるんですよ。背高いし、かっこいいし、強いし、不良のお姉さまから普通の女の子までちょっと憧れちゃうわけですよ。無表情だと怖いけど笑うと可愛いわよねーなんて言われたことだってあるんですよ。でも今の今まで男鹿が誰とも付き合ってこなかった理由って考えたことあります? ちょっと考えたら解りませんかね? 始終横にそこらの女より綺麗な顔したヤツがいて、それを小学校からずっと見てきてんですよ。男鹿の美的センスが上がりまくってても仕方ねーでしょ、だから邦枝先輩程度の顔が頬染めてちらちら見たとこで、通用しないんですよ。興味持つわけねーでしょ俺の顔の方が綺麗なんだから。それに男鹿は俺しか見てないんですよね。俺の顔好きだし、言われたことないけど俺の声も好きっぽいし、俺の身体も好きっぽいし。ちょっと姿見えないだけで古市古市って昔からうるさくって、学校休みの日だって毎日顔合わせてるって言いましたよねさっき。それほとんど男鹿のせいですから。しょーもない理由つけて俺を呼びつけて一緒にいたがる男鹿のせいなんすよ。それくらい男鹿は俺が好きで、どう頑張っても逆立ちしても裸で色仕掛けしても男鹿がお二人になびくことは全く欠片もないわけなんですよね。それなのに辰巳さんの妻の座がどーとかこーとか、聞いててマジ腹が立ってくるんですけど。そんなに男鹿の妻の座が欲しいって言うんなら、まず俺に喧嘩売ってもらえませんかね? あ、でも妻の座って言い方は好きじゃないな。法的に妻って立場には俺は立てないし、誰か立たせるつもりもないし。ただ男鹿の恋人の座は現在埋まってるんで、そこ狙うのならそれ相応の覚悟してかかってきてもらわないと。俺、喧嘩弱いし、力技でならお二人に負ける自信たっぷりあるんですけど、男鹿と愛し合ってる以上そこは引けないんで、よろしくお願いします」
 にこにこと微笑む古市に、ヒルダも邦枝も、さっきまであんなにざわめいていたギャラリーもぽかんと口を開いて見入っている。どうします? 俺と喧嘩します? と微笑む古市の側で、男鹿はだらだらと脂汗を垂らしていた。
 よく解らないが、古市がものすごく、近年稀に見るほどものすごく怒り狂っていることだけは解ったのだ。
 口を挟んだら絶交とか一ヶ月禁欲とかもうお前としゃべらねーとか言われそうで怖い。
 一ヶ月禁欲は我慢できる。しゃべらねーとかあれはだめだ。過去にやられたので解る。おまけに無視されたら最悪だ。精神的ダメージは計り知れない。立ち直るのにかなり時間がかかる。
 男鹿がそんな気持ちでぐっと口を閉ざしていると、いち早く我に返った邦枝が、あんたねぇっ、と焦った声を張り上げる。
「何わけわかんないこと言ってんのよ! 古市は関係ないでしょ! これは私とヒルダさんとの……」
「関係ないわけねーでしょ」
 邦枝の言葉を遮り、古市がふっと頬を歪める。
「男鹿のことなら俺にだって関係大ありだって言ってんすよ。あんたらがあーだこーだ何言ってても勝手ですけど、男鹿を撒き込むのやめてもらえません? これ、俺のなんで」
 古市が顎をしゃくり男鹿を示す。なぁ、と顔を向けられ、うむ、と頷く男鹿に、はぁっ、と邦枝は甲高い声を上げた。ヒルダはすでに古市の長話に思考回路が停止して戦意喪失しているらしく目が泳いでいた。
「なんで男鹿があんたのものなのよ! あんたねぇっ、自分がモテないからってワケの解んないイチャモン付けるのやめなさいよね!」
「あー…まぁ、正直モテないのは否定しないっすけど……別に俺、女の子にモテよーがモテなかろーがどうだっていいんすよね。男鹿さえいれば」
 ぽかんと呆気に取られる邦枝の気持ちが、男鹿にはよく解る。
 古市がにこりと微笑むとそれはそれは綺麗なのだ。怒っている時は特に。だから男鹿からは見えないけれど、邦枝に向けられた古市の顔はものすごく綺麗なんだろうなぁと男鹿は想像する。ただし想像するだけだ。怖いから見たくない。
「なーんか、いまいち伝わってないよーな気がするんでもっかい言っときますね。これ、俺のものです。だから手を出さないでくださいね、邦枝先輩」
 これと言って腕を引かれた男鹿は、やっぱり、うむ、と頷く。腕を掴む古市の手にぎりぎりと力が込められていて実は痛い。ちょっと力弱めてくれと言いたいが言ったら、絶交とか言われそうでやっぱり言えない。
「そんじゃ、そーゆーわけなんでよろしくお願いします」
 行くぞ、と腕を引かれ歩き始めた男鹿は、ちょちょちょっと待ちなさいよっ、と反対側から邦枝に腕を引かれ足を止める。邦枝の手にがっしりと腕を掴まれ、頼むからやめてくれ、と男鹿は内心ガクブルだ。これ以上古市を怒らせてくれるなと神様に、いや、魔王様に祈りたい気分だ。
「そーゆーわけってそんなので納得できるわけないでしょ! 男鹿があんたのものだって、そ、そんなの……はいそーですかって納得できるわけないじゃない! しょ、証拠! 証拠見せなさいよ!」
 小学生かあんたは、と古市が小さく呟く。ちらりと見た古市の顔はさっきまでにこにこ笑っていたのが嘘のような無表情で、ああ怖い、と男鹿は震え上がる。男鹿の気持ちが伝わったのか、男鹿の背中でベル坊もぷるぷると震えていた。
「証拠って……何かあるかな。ここでセックスでもして見せたらいいですか?」「せせせせせせ…ッ……?」
「ああ、でも男鹿の身体見せるの勿体ないな……。あっ、それじゃキスでもして見せましょうか? それなら納得します?」
 自分で提案した妥協案がさも名案だとばかりに古市がぽんと手を打った。
「キキキキキキキスッ?」
 ぎょっと目を見開く邦枝と、その向こうで硬直するヒルダの視線、さらにはギャラリーの視線を一身に浴びながら、古市はまるでこの場には男鹿と自分しかいないのだと言わんばかりに蕩けるような微笑みで振り返った。
「おが」
 甘く呼ぶその声に誘われて、ふらりと足を踏み出すと、愛しい愛しいと言うようにとろりとした灰色の瞳が男鹿を見つめている。
「ふるいち」
 思わず、そう名を呼ぶと、古市の唇がにこりと緩む。花が綻ぶようなその柔らかく可愛らしい微笑に、男鹿はいつだって骨抜きになる、誘われるように手を伸ばせば、するりと古市の頬がその手に擦り寄る。猫の甘える仕草に近いそれに思わず頬が緩んだ。
「キスは?」
 しねぇの、と誘われ、即答で、する、と答えた。少し首を曲げて鼻先にキスをすると、くちだろばか、と甘い声に怒られる。ちゅっと音を立てて唇にキスをし、薄い背中を抱き寄せる。腕の中にすっぽりと収まってしまう身体を抱きしめ、ちゅっちゅっと触れるだけのキスを繰り返す。それだけじゃ足りなくて舌を伸ばせば、ぺろりと古市の甘い舌が男鹿の舌に触れたが、すぐに、ストップ、と止められてしまった。
「学校だし、家に帰るまでお預けな」
 いい子だから、と頬を撫でられちゅっと頬にキスをされる。甘やかされて嬉しくてだらりと相好を崩し、ふるいちー、と首筋に顔を突っ込むと、よしよしと背中を軽く叩かれた。まるで動物でも相手にしているかのような仕草だが、そうされるのは嫌いではない。細い身体にじゃれ付いて久々の感触に堪能していると、古市が男鹿の背を抱きながら、男鹿がすっかり忘れていた邦枝の方へと顔を向けた。
「これで納得してもらえました?」
 あ、そう言えば他に人がいたんだった、と男鹿は思ったが、古市が気にしないのなら男鹿も気にしない。元来男鹿はそう言うことに気を使うたちではないのだ。古市が口やかましく言うから人目を忍んだりしているだけだ。
「あ、あ、あ、あ、ああああああんたたち……ここここここんなとこでっ…!」
「邦枝先輩が証拠見せろって言ったんですよ。だから俺は証拠を見せただけです。でもこれでもう解ってもらえましたよね? これ、俺のなんで、余計なちょっかい出さないでください」
 ヒルダさんも、と張り上げた古市の声はヒルダには届いていない。ヒルダは茫然と虚空を見つめたまま、あめんぼあかいなあいうえお、と現実逃避を図っていたからだ。記憶はなくてもそう言う所は覚えているのだろうか。
 あうあうと口を開け閉めして必死で衝撃の事実を処理しようとする邦枝に、古市はふと止めを刺しておかなければと思った。戦いは何事も最初と最後が肝心だ。奇襲を仕掛けるのなら効果的に、そして止めを刺すのもやはり効果的に、だ。
「ま、ちょっかい出しても空回りするだけだと思いますけどね」
 ふっと鼻で笑って小馬鹿にすると、思った通り、あんたねぇっ、と邦枝は眉を吊り上げて噛みついてくる。しかしその邦枝が見たものは古市に抱きついてでれでれとしまらない顔をしている男鹿だ。古市の横からがっちりと抱きつき首筋に顔を突っ込んですりすりと頬を寄せ、ふるいち〜、と甘ったるい声を漏らしている。アバレオーガはどこに行ったのか。凶悪な、人を人とも思わぬ非情な悪魔はどこへ行ったのか。男鹿が古市に骨抜きなのは一目瞭然だった。
 ごろにゃんと喉を鳴らしそうなほど甘えきった男鹿の頭を撫でながら、古市は、もっと早くこうしておけば良かった、と戦意喪失しているヒルダや更に混乱に陥る邦枝、そして唖然としたギャラリーを眺めながら思っていた。



古市だってぶち切れる。
実は女嫌いな古市とか、好きなんです。