桃色のゾウ


 バタンと両開きのドアを乱暴に開ける音に、ん、と古市は顔を上げた。二日前ならびくびくと飛び上がっていたその音にもすっかり慣れてしまった。
 椅子を引き、背もたれに腕を預けて身体を捩じって振り返ると、眉間に皺を寄せ、今から人を殺しますと言わんばかりの形相のジャバウォックと目が合う。やっぱり二日前なら硬直して身動きもとれないほどビビりまくっていた相手だが、肉体的苦痛の意味で危害を加えられないと解った途端、そんなに怖くないと思ってしまった。我ながらものすごい適応力だと古市は思う。
「どーしたんすか」
 窓から入る風にぱらぱらとページが捲られそうになって、慌てて片手で教科書を抑える。ジャバウォックの手によって拉致られた際、親切にも彼は古市が取り落とした鞄も持ってきてくれたらしい。三木に頼んで手に入れた聖石矢魔の教科書で自習をしていたのは、他にすることがないからだ。
 部屋から出るのは構わないが見張りをつけると言われると、どうにも出辛い。それなら勉強できるような机ほしいです…、とダメ元で頼んでみたら、ベルサイユ調のごてごてした彫刻が施された机が運ばれてきた。程よい高さの椅子も与えられ、ジャバウォックの部下らしい馬鹿でかいオッサンが壁際に設置してくれた。
「またそこにいるのか」
 ジャバウォックは眉間に刻んだ皺をぐっと深くして、唸るような声を漏らす。
「だって他にすることないですし」
「……あれで遊んでいればいいだろう」
 指で示されたのは天蓋付きのベッドでくたっと横たわっている白いうさぎだ。その横には昨日持ち込まれた桃色のゾウもいる。
「……そう言う年頃じゃないので」
 第一男がぬいぐるみで遊ぶわけねーだろ、と内心で呟き、古市は溜息を吐く。
 拉致られたと言うのに古市がここまで順応し、ジャバウォックに恐怖心を抱かずにいられるのは、ジャバウォックの趣味の悪さが第一の理由だろう。
 ヤクザも裸足で逃げそうないかつい顔をして、男鹿と対等に渡り合えるだけの力量を持っている。古市の首なんて一瞬で粉砕できそうな大きな手をしているのに、ジャバウォックは趣味が悪い。ものすごく趣味が悪い。
 どれくらい趣味が悪いかと言うと、古市に女物のネグリジェやワンピースを着せ、ごてごてと飾り付けられたベルサイユ調の部屋に閉じ込め、午後にはアフタヌーンティセットを運んで一緒に茶を飲もうと誘うくらいには趣味が悪い。
 しかもネグリジェやワンピースはもれなくレースやリボンがついていて、大抵は白かったりアイボリーだったり水色だったりと清楚な色合いばかりなのだ。それを古市に着せては満足そうに、あまり表情が変わらないので察するしかないのだが、多分、満足そうに眺めている。
 本気で趣味が悪い。
 昨日の午前は珍しく黒いシンプルなワンピースに赤いリボンを頭につけられた。何かのアニメで見たような格好だと思いつつも古市に逆らえるはずもない。レースもないし逆に快適かも、と喜んでいたのだが、やっぱり気に食わなかったらしく、違うな……、と呟き昼には白いフリル付きのワンピースに着替えさせられてしまった。
「ここへ来い」
 部屋の中央にあるカウチ(やっぱり猫足のベルサイユ調)を示され、古市は大人しくそちらへ向かう。床はふかふかの絨毯なので靴は履いていない。ひらひらとくるぶしの辺りで揺れるフリルをくすぐったいなぁと思いながらカウチに腰を下すと、ジャバウォックは古市側の肘置きにクッションをたっぷりと積み上げる。
「何やってんすか」
「これを塗る」
 ジャバウォックが取り出したのは淡いピンク色の液体がとろりと揺れる小さな瓶だ。あああれ美咲さんの部屋に一杯ある……、と古市は遠い目をした。
「マニキュア……」
「そうだ。手を出せ」
 とうとうここまで来たか、と古市は思いつつも逆らわない。逆らったら無言でずっと睨み付けられるので、正直それは居心地が悪い。さすがと言うべきなのか、ジャバウォックの目力は相当なのだ。
 ジャバウォックのいかつい手が古市の手を取り、ちまちまと指先に色を乗せて行く。淡い桃色の少しだけパールがかったそれは、ほのかに似合いそうだとぼんやり思う。
「もう片方もだ」
 ぺたぺたと右手を塗られた後、左手も差し出せと言われて素直に出す。真剣な顔でジャバウォックが小さな爪に向かっている様は何とも異様だが、声をかけると邪魔をするなと怒られそうなので黙っておく。
 暇だなぁ、と古市は塗られたばかりのマニキュアを眺めた。どんな感じなんだろ、とちょっと興味があって、中指の爪を親指でちょんと押すと、まだ完全に乾いていなかったらしく、ぐにっとマニキュアがずれてしまった。
「う、わ……」
 思わず漏らした声を聞きつけ、ジャバウォックが顔を上げる。古市がだらりと冷や汗を垂らし硬直していると、ジャバウォックは訝しく眉を寄せた。
「どうした」
「え、あの…いや……ご、ごめんなさい…わざとじゃないんすけど……」
「何がだ」
「ず、ずれちゃいました……」
 これ、と手を差し出すと、ジャバウォックは僅かに目を大きくし、すぐに短く息を吐く。
「乾くまで触るな」
「ごめんなさい」
 やばい、今度こそ殺されるかも、と古市が顔面蒼白になっていると、貸せ、とジャバウォックが右手を取る。どこにしまっていたのか除光液を取り出し、コットンを濡らし、慎重に中指の爪のマニキュアだけを落としていく。
「左手が終わったら、もう一度そっちもしてやる。触るなよ」
 うっかり触ってしまわないようにと古市は手をパーにして掲げて乾くのを待った。ふーふーと息を吹きかけて早く乾けと願っていると、左手が終わったらしく、そっちを貸せと右手を取られる。左手にふーふー息を吹きかけて、乾いたかどうか確かめたいなぁと思うが、ぐにゃりと歪める失敗をまたやらかしたくはない。ぐっと堪え、ふーふー息を吹きかけていると、終わったぞ、と右手を解放される。
「次は足だ」
「はいっ? あしっ?」
「足は足だ。貸せ」
「うわっ」
 ぐいっと乱暴に片足を掴まれ、カウチの端に座っているジャバウォックの膝の上に置かれた。無理に足を引っ張られたせいでずるりと尻が滑り、カウチに半ば寝そべる格好になる。ジャバウォックはそれを見ると、丁度いい、と古市の腹の上にクッションを置き、その上に雑誌を乗せた。
「それでも読んで暇を潰していろ」
 マニキュアには気を付けろ、と念を押されながらも、ただぼーっとしているよりはマシか、と古市は雑誌を捲る。どこから調達してきたのか、日本の女性向け雑誌だったけれど、教科書以外の活字を読むのは久しぶりでなんとなく嬉しくなる。
 スイーツ特集と銘打たれたページに行き当たり、古市はページを繰る手を止めた。
「これうまそう」
 思わずぽつりと呟いたのは、てろりと濃い赤色に光るチェリーパイだ。格子状にかぶせられたパイ生地がこんがりとおいしそうなホールと、その横には切り分けられてカスタードが添えられ、チェリージャムもたっぷりと添えられたカットも映っている。
「どれだ」
 ちまちまと足の爪にマニキュアを塗り付けていたジャバウォックが顔を向ける。
「これです」
 チェリーパイのページを見せると、ふむ、とジャバウォックは真剣な顔をしてそれを眺めている。
「今日のデザートはそれにするか」
「え、買ってきてくれるんすか」
 マジで、と思わず喜ぶ古市に、いや、とジャバウォックは表情を動かさずに答えた。
「焼く」
 レースにリボン、マニキュアの次はお菓子作りか。
 もう意外性なんて言葉は出尽くして品切れだ。
 古市はふーと溜息を吐くと、またマニキュアを塗る作業に戻ったジャバウォックを見た。
「普通に買ってきてくれたらいいんすよ」
「いや、焼く。レシピはある」
「そーすか……」
 勝手にして、と古市はチェリーパイから視線を逸らし、ん、と眉を寄せた。
「これもうまそう……」
「チェックしておけ。どうせだ。一緒に焼く」
「え、でもキッシュとか、ミートパイですよ。お菓子じゃなくて、どっちかっつーとおかずっつーか」
「オーブンを使うのは一緒だろう」
「はぁ、まぁ、そーっすね……」
「なら構わん」
 じゃあチェックしとこ、と古市はそのページの右端をぺきりと折った。
 右足が終わり、左足の爪を塗り始めるジャバウォックを、物は試しにとちらりと上目遣いで見つめる。
「スープも飲みたいなー……なんて」
 マニキュアを塗っていたジャバウォックは手を止める。そして古市が精一杯自分なりに可愛いだろうと思う上目遣いで見つめているのを見て、ふっと唇の端を持ち上げた。
「その顔、キモイな」
「キモ…ッ……?」
「まぁいい。何のスープがいいのか考えておけ」
「……はーい……」
 キモイって……絶対可愛いと思ったのに……、と不貞腐れてた顔でぶちぶちと呟いていた古市は、そんな自分をジャバウォックが僅かに頬を緩めて見つめていたことに気付いていなかった。



かっこいいジャバ様が好きなんです…。