慈しみ触れ合う日
※2012年スパコミで発行したプロポーズ本の設定です。
 男鹿は整備工場、古市は輸入雑貨を扱う会社に勤め海外を飛び回っています。
 ボロい昭和の香り漂うアパートで同棲しています。



 カンカンと足の下で鉄と靴底が触れ合う音がする。日付もとうに変わったこの時間では、薄い壁を落として他の住民まで起こしてしまうんじゃないかとひやりとするが、どうしようもない。築三十年のアパートの外階段は老朽化も著しく、崩れ落ちていないだけでも僥倖と言った具合なのだ。
 古市は重い足を引きずりながら、鞄の中からキーケースを取り出す。革のキーケースは男鹿とお揃いで、初めてボーナスをもらった時に嬉しくて思わず奮発してしまったものだ。端が少し擦れ、折り畳みの部分に皺がついたキーケースから自宅の鍵を取り出しながら、これも長く使ってるよなぁと頬を緩める。
 今度休みが合ったら一緒に買いに行こうと誘ってみようか。男鹿のことだからまだ使えるし、と渋るだろうか。
 そんなことを思いながら一番奥の角部屋の鍵を開け、ドアを開ける。
 古いアパートの玄関などなきが如しで、一歩上がったそこはもう台所だ。鞄を側に置き、煩くないように転がさず持ち運んでいたスーツケースも下す。ふぅと一息吐き、靴を脱ぐ。やっぱ寝てるか、と首に巻き付けていたマフラーを外した所で、しんと静まり返った室内にたたたと軽い足音が響き、ニャーンと柔らかな猫の鳴き声に出迎えられた。
 台所から擦りガラスを隔てたところにある和室から、ひょこりと顔を出すのは黒猫のくろまめと白猫のおもちだ。
「まめもち」
 二匹まとめて呼ぶと、揃ってにゃーんと声を上げ、それぞれが好きなように身体を摺り寄せてくる。小さな頭を撫で、身体を撫で、猫たちが満足したところで身を起こした古市は、ようやくそこでコートを脱いだ。明日片付けることにして、スーツケースの上にひっかけておく。
 なんだかじんじんする足で台所から居間にしている和室へ、そしてその右奥にある寝室にしている和室へと進む。部屋の真ん中に敷かれた布団がこんもりと膨らんでいて、古市は頬を緩めた。
 まるで胎児のような姿勢で寝入っている男鹿の傍らに膝をつく。
 比較的長期の出張に出ていたので、男鹿の顔を見るのもかれこれ十日ぶり、ひょっとしたら二週間ぶりかもしれない。
 メールでしかやり取りをしていなかったので、顔を見るのは本当に久しぶりだ。
 古市はシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ捨てる。布団を捲り上げえて男鹿の隣に滑り込み、ちょっと向こうに寄れって、と言うと、んんー、と男鹿がむずがる声を上げた。
「……んー……ふるいち…?」
「おう、今帰ってきた」
「おー………」
 薄く目を開く男鹿が間延びした声を漏らす。くあとでかい欠伸をしながらも布団に隙間を開け、古市の入る場所を作ってくれる。男鹿の腕を枕にすっぽりと収まると、外の寒さに冷えた身体がじんわりと温まる。
「つめてー……」
「ごめん。男鹿、明日仕事?」
 男鹿の肩口に額を摺り寄せると、男鹿の大きな手が古市の髪に触れる。ぼんやりと開いた目が古市を見つめ、ん、と億劫そうに瞬きを繰り返す。
「……休む」
「アホ、ちゃんと行け」
「多分朝になったら腹痛くなってる」
「ガキかお前は」
「古市が帰ってくるって言ったら、休んでいいっておっちゃんらが」
 男鹿の勤める整備工場の気のいいおっちゃん連中なら確かにそれくらいのことは言ってくれそうだ。古市を男鹿の連れ合いだと認識する彼らには世話になっているからと、出張先で土産も買ってきている。明後日に男鹿が出勤するときに一緒にくっついて行って渡すとして、それなら明日はゆっくり休むか、と頬を緩めると、ん、と男鹿も嬉しそうに頬を緩める。
「おかえり」
 年を経て落ち着きと男の色気を持った男鹿の顔が近付き、古市の額に唇を寄せる。
「ただいま」
 額から離れた唇を追うようにキスをする。愛撫するように触れる唇が優しく労わるようで、疲れた身体と心を癒してくれるようだ。
「んー…充電」
 笑いながらキスを繰り返すと、疲れたか、と男鹿の手が背中を引き寄せる。布団をかけ、ぽんぽんとあやすように背中を叩く手が髪にも触れる。
「うん、疲れた。飛行機なかなか飛ばねぇし、機内食まずいし、面白い映画やってなかったし」
「ふーん」
「お土産買ってきたぞ。ワインとチョコ」
「うまい?」
「うん、うまかった」
 もう一度キスをしようと顔を寄せた時、まるで邪魔をするようにその狭い隙間を猫が通る。二匹の猫はもそもそと布団の中に入り、古市と男鹿の間に割り込み、ぐるぐると絡まり合って寝床を確保する。ふーと溜息を吐いたくろまめが、まだ寝ないのか、とばかりに暗闇の中で目を光らせている。
 古市は手を伸ばしてくろまめの頭を撫でると、寝るか、と誰にでもなく呟く。おう、と返事をした男鹿が、古市の頬をさらりと撫で、お疲れさん、と微笑む。
 うん、と頷いた古市は男鹿の腕を枕に目を閉じ、腹の辺りで寝息を立てる二匹の猫の体温と、背中を引き寄せる男鹿の体温を感じながら、すぅと心地よい眠りに落ちて行った。




少し疲れた心を癒す存在が側にあれば、それだけで充分。