こひつじちゃん、けんこうしんだんへゆく。


 春から初夏にかかる頃、男鹿は古市を連れてベヘモット牧場を訪れていた。もともと古市が飼われていた牧場にやってきたのは、何も悪戯が過ぎる古市を持て余して返品しに来たとかではなく、定期健診に来てください、とお知らせをもらったからだ。
「いやねー、年に一回は健康診断しとかないと、変な病気もらってたら怖いでしょう」
 ピエロのような顔をした牧場の飼育員に抱き上げられ、古市はきょとんと目を丸くしている。
「おれ、へんなびょーきなんかもらってないよー。きょうはねー、えっとね、とーじょーからねー、りんごあめもらったのー!」
「おやまぁ、相変わらず食い意地は張ってるようですねぇ。なんです、このお腹。ちょっと食べすぎじゃないですか?」
 ぽこんと飛び出した子羊の腹を撫で、ピエロのような飼育員が溜息を吐く。台の上に仰向けに寝かされ、腹を撫でられたものだから、古市はあわあわと両手両足を振り回している。
「やーっ、おなかはだめーっ! くすぐったいのー!」
 暴れまわりたい気持ちはあるらしいが、いかんせん、羊と言う生き物は仰向けにひっくり返らされてしまってはどうしようもないのだ。じたばたと手足だけを動かすものの、ピエロのような飼育員の手からは逃れられない。はいはい、とぞんざいに返事をするピエロのような飼育員に思うさま腹を撫でられ、途中からは古市もけらけらと笑い声をあげている。お腹の触診が終わったら毛並みのチェック、それから虫歯のチェックに蹄のチェック。身体中をまさぐられた古市は、解放されるなりぴゃっと男鹿の足に逃げ込んだ。
「あっ、あのひとがねっ、ふるーちのおなかっ、ぺたぺたしたの! おがっ、あのひと、へんたいなんだよっ!」
 むぅっと頬を膨らませる古市に、あのなぁ、と男鹿は溜息を吐いた。
「確かに恰好は変だけどよ、変態っつーのとはちょっと違うと思うぞ」
「恰好が変とは心外ですねぇ。子ども受けはいいんですけど」
 ピエロのような飼育員は古市の非難の眼差しをものともせず、にこにこ笑っている。
「ま、特に問題はないでしょう。虫歯になりやすいんですから、甘いものをたくさん食べさせないようにしてくださいよ」
「だってよ。お前、これからおやつ抜きだな」
「えええええっ」
 愕然と叫び硬直した古市は、羊の癖に一人前に青ざめている。がびーん、と頭の上に文字が浮かんで見えるほどショック受けている様子の古市は、そのあまりのショックに身動きが取れないらしい。お菓子ばかり食べて夕飯が食べれなくなるくらいお菓子大好きな古市なのだから、おやつ抜きなんて死刑宣告も同じだろう。いい気味だ、と男鹿はほくそ笑む。
 静かなうちにと男鹿はピエロの恰好をした飼育員から、羊特有の病気の対処法を教えてもらう。とにかく健康体なので太らせすぎないようにと念押しされた後、虫歯予防に歯磨きしてくださいねー、と渡された歯ブラシと羊用の薬を袋に突っ込んでいると、そうだ、とピエロの恰好をした飼育員が手を打ち鳴らした。
「今年の春生まれたばかりの子羊ちゃん、見て行きますか? 可愛いですよ〜」
「こひつじちゃん!」
 おやつ抜きのショックを一気に忘れ去ったらしく、びょんっと古市が飛び上がる。
「おれっ、こひつじちゃん、みたい! ふわふわの、けだまでねー、すごくかわいいんだよー! おが、こひつじちゃん、みたことあるー? すごーくかーわいーんだよー」
「お前も羊だろ。羊が何言ってんだ」
「おれはいちにんまえのひつじだもんっ。うまれたてのこひつじちゃんといっしょにしないでよねっ! だっておれっ、もうすぐ、かしみや、とれるんだからっ!」
「だから、お前はウールだっつーの」
 ぷりぷりと頬を膨らませて、毛むくじゃらのお尻をぷりぷり動かしながら怒る古市を見おろし、はぁ、と男鹿は溜息を吐く。
「ちょっとだけだからな。帰ったら、畑に植える苗買いに行くんだからな」
「うーん!」
にこにこの笑顔で良い子のお返事をした古市は、さっきまで変態だと警戒していたピエロの恰好をした飼育員に手を引かれて保育舎へと連れて行かれる。
 保育舎に入るなり、うわぁああ、と古市のとんでもなくでかい声が保育舎中に響き渡る。柵の向こうで地面を突いたりして遊んでいた生まれたての子羊が一斉にびくっと飛び上がって逃げ出した。
「うわーっ、うわーっ、うっわぁああ! すっごいかーわいーよー! おがっ、ほらっ、いっぱい!」
「うーん、もうちょっと小さな声でおしゃべりしてくれると、嬉しいんですけどねぇ…」
 ピエロの加工をした飼育員に困った顔で窘められ、古市はハッと口を押える。そして振り返り、おがっ、おおきなこえだしちゃだめだよっ、と眉間に皺を寄せて注意してくれるが、でかい声を出していたのはお前だ、と男鹿は溜息を吐く。
「うわー、うわー、かわいいねぇ! ちっちゃーい! こひつじちゃん、かわいいー!」
 柵にしがみついて、きゃあきゃあと歓声を上げ、どうにか子羊に触ろうとする古市の興奮しきった後ろ姿を眺め、これは当分、柵から離れねーな…、と溜息を吐く。そして、できれば今日中にやってしまいたかった苗植えは明日になるんだろうな、と男鹿は早くも今日の予定を諦め、次から古市の健康診断の付き添いは東条にやってもらおうと心に決めた。



何を言うでもなく、吉良さんへ。