秘密の約束






 ヒルダさん、と呼ばれ振り返ると、ベッドを背もたれにして床に座っていた古市が妙な顔をして笑っていた。
 妙な、と言うのは、何も不思議そうなとかそう言うものではなく、ヒルダが今まで一度として目にしたことのない類の笑みだ。楽しそうでもなく、幸せそうでもない。悲しそうでもなければ悔しそうでもなく、ただただ微笑んでいる。幸せボケしてとろんと目がうるんでいるわけでもない灰色の瞳は、やけに強い意志を持ってヒルダを見つめていた。
「なんだ」
 呼びかけたきり声を発さない古市に焦れてそう問うと、古市は手元の本を広げたまま僅かばかり小首を傾げる。
「悪魔って、記憶、消せるんですか?」
「貴様、喧嘩を売っておるのか」
 それは先に記憶をなくし、あろうことかあのうす汚いドブ男を辰巳さんなどと呼ばわり自分が嫁だと発言した自分へ喧嘩を売っているのか、とヒルダが目を吊り上げ、思わず悪魔的な負のオーラで首を絞めてやろうかと画策していると、古市は慌てて手を振った。
「違いますって。悪魔で記憶消せる能力の人いないのかなーって。それか、魔界には記憶を消す何かはありますよね? 薬とか、道具とか……魔術とか」
「まぁ、あるにはあるが。なんだ、記憶を消してほしいのか?」
 いやまさかそんなちょっと気になっただけで、と返ってくるだろうと思ったのだが、古市は意外にも微笑んだまま、はい、と頷く。
「俺の記憶、消してください」
 意図が解らず訝しむヒルダに、さすがにそれでは言葉足らずと察したのか、古市は言葉を紡ぐ。
「もし男鹿がこのままどんどん強くなって、ベル坊とのリンクも強くなったら、ベル坊が魔界に帰ることになったら、男鹿だって魔界に行くことになりますよね? あ、それともそう言う時ってもう男鹿は用なしですか?」
「いや、状況にもよる。坊ちゃまが男鹿をどうしても連れて帰りたいと望まれれば、私はそのように手配をするだけだ。あの男の意志など関係ない」
「ですよね。それって俺は付いてけないですよね?」
「……いや、何度も言うが状況にもよる。坊ちゃまが貴様を、大変不本意ながら連れて行きたいと望まれれば、大変不本意ながら私は大変不本意ながら貴様を連れて行くよう大変不本意ながら手配をする」
「要するにヒルダさんは俺を連れて行きたくないんすね……」
 がっくりと肩を落とす古市に、まぁ連れて行ったところでメリットがないからな、とヒルダは素っ気なく返す。それにもめげず、古市は口を開いた。
「それじゃ、男鹿が魔界に行くことになって、人間界に帰ってこれなくなって、俺が魔界に行けなかったら、俺の記憶、消してください。男鹿に関することは全部、ベル坊もヒルダさんもラミアもアランドロンも、なにもかも全部、男鹿に関することを全部、消してください」
「だが……それでは貴様の人生の大半を消すことになるぞ」
 出会ってから今までの、男鹿にまつわるすべてを消すのだとすれば、それはそうだろう。あまり詳しく聞いたことはなかったが(聞いていても聞き流していたと言うのが正確なところだが)、五つか六つの頃に二人は出会い、もう十年ともに過ごしている。
 古市はどうか解らないが、男鹿の世界の大半は古市でできていて、古市が行くところについて行き、古市がいなければ探しに行き、常に側に置こうとしている。今だって、ベル坊がミルクを飲みたいと言うから一時的に台所へ降りているだけで、朝から夕方の今のこの時間まで、あの男は片時も古市を離そうとしない。
 男鹿の古市に対する執着ぶりにはヒルダもぞっとするほどだ。
 そしてそれは、なにもベル坊とヒルダが男鹿家に入ってから始まったものでもないのだ。
 常に周りをうろちょろしていた男鹿にまつわる記憶をすべて消すとなると、本当に古市の記憶を大半消すことになる。古市の記憶は小学生よりも前に戻り、そこから新しく男鹿のいない人生をやり直すことになる。身体は高校生のままで、頭だけは子どもに戻る。微妙に違うけれど、それはどこかの漫画のようだ。
 それでいいのかと問えば、ええ、と古市はやたらすがすがしい笑顔で微笑んだ。
「その方が、きっといいと思うんで」
「だが、石矢魔の連中の記憶も消すことになるのだぞ」
「別にいいです。俺、男鹿の記憶があるまま、男鹿がいない人間界でやってく自信、ないんですよね。まぁできないこともないと思うんですけど、いろいろ聞かれて、面倒じゃないっすか。俺ばっか割食うのも腹の立つ話だし、忘れられないだろうし、吹っ切ることもできないだろうし、前に進めないだろうし、それならいっそ、何もかも忘れて真っ新になりたいかなって。男鹿がいない世界がどんなか解らないけど、いないって解ってる世界よりも最初からいない世界の方がいい。俺、執着心強いんです」
 男鹿にも負けないくらい、と古市は微笑む。
 まっすぐにヒルダを見つめる眼差しは柔和に微笑んでいるけれど、その実、とても強い意志を秘め、すでに何度も固めたのであろう決意を滲ませている。
 だからヒルダは、その目を真っ向から見据え、そうか、と頷く。
「………解った」
 少し、悲しそうな色を滲ませる瞳に、ヒルダは目を細めた。
 決して悪魔は口約束などしない。
 悪魔がそうと思い結ぶ約束は契約にも等しい。
 古市はそれを知っている。だからこそ、こんな、男鹿のいないこんな時にこんな話題を持ち出したのだろう。
「必ず私が貴様の記憶を消してやろう」
 それくらいはしてやってもいい、とヒルダは微笑む。
 ありがとうございます、と僅かばかり悲しそうな古市が礼の言葉を口にしたとき、ドアがばたんと開き、男鹿とベル坊が戻ってくる。男鹿の手にはマグカップが二つあり、ベル坊の手には哺乳瓶とペットボトルがある。えっちらおっちらと二つを抱えたベル坊がよたよたとやってきて、だぁっ、と笑う。その足はまっすぐに古市へ向かい、すぐ側にごろんごろんとペットボトルと哺乳瓶を下した。
「あっだーっ!」
「おおベル坊すげぇな、ペットボトル運んできたのか?」
 緑の髪に触れる手に、ベル坊が嬉しそうに目を細める。
「あだっ!」
「ん? 俺にくれんの?」
「だぶっ」
「あーそれは俺のだ。お前のはこっちだ」
 ほらよ、と男鹿がマグカップを差し出す。甘い香りが漂い、それがココアだとヒルダは知る。古市が好きだからと美咲が作ってくれたらしい。ひどく有難がって喜ぶ古市はマグカップの中に浮いているマシュマロにも歓声を上げている。
 続いて自分にも差し出されたマグカップにヒルダが目を丸くしていると、男鹿が、姉貴が持ってけって、と迷惑そうに顔を顰めていた。ヒルダが受け取ると中身はやはりマシュマロの浮いたマグカップだ。古市と同じものらしい。一口啜れば甘い甘い、甘すぎる液体が口の中に広がる。
 それをうまいうまいと笑って啜る古市の髪を男鹿がぐしゃりと撫で隣に腰を下す。ベル坊は古市の太腿にもたれて見上げている。小さな手を伸ばし、マグカップに触れようとするベル坊に、熱いしもう少し冷めてからな、と古市が微笑み、ちっちゃな手を握っていた。
 嬉しそうに笑う幼き主君を見つめ、ヒルダは甘いココアを口に含む。
 恐らくヒルダが古市の記憶を消すことはないだろう。
 古市自身がどう望もうとも、どう足掻こうとも、ヒルダの主君は己の親代わりの男が殊更気に入っている古市を連れて行きたいと強請るだろう。ベル坊は古市を己の意志で気に入って懐いている。それこそ己の親のように。
 そしてまた男鹿も古市を連れて行こうとするだろう。
 魔界に何があろうとも、魔界でどんなことが起ころうとも、自分が守ればいいのだから連れていく。そう言い張り我を通そうとするに違いない。
 だから要らぬ不安と心配とを抱く古市の記憶を、ヒルダが消すことはない。
 ぴったりと古市にくっつき座る男鹿と、よじ登った古市の膝の上でひっくり返り、古市のカーディガンの袖にじゃれ付いている主君を眺め、ヒルダはひっそりと、この光景は変わらず魔界にもあるのだろうと笑みを浮かべた。






ありとあらゆる想定をしてすべてを受け止める覚悟を、何度も何度も繰り返してる古市。
とかすごい萌える。
ヒルダとの密約も萌える。なんだかんだヒルダを頼る古市ってのが。