寓話のように


 目の前で指をひらひらと動かすと、男鹿の黒くて大きな目が真ん丸になって、あー…、と両手を伸ばしてくる。ちっちゃな手が、ひらひら揺れる指を掴もうと、ゆるい動きで閉じたり開いたりをしている。指を近づけると、ぎゅうっと掴んだ手は、小さく、もみじのようだ。
 ちっちゃな手、ちっちゃな顔、ちっちゃな身体。
 ある日突然、男鹿が赤ん坊になってしまった。
 ラミアのお師匠様のあの適当な姿をしたフォルカスとか言う医者が言うには、悪魔の薬の誤飲が原因らしい。原因は解っているので元に戻す薬も早く手に入り、それを打ってはくれたものの、突然、元通り、十六歳の身体に戻すのには負荷がかかりすぎるらしい。
 少しずつ、時間をかけて十六歳に戻すのが男鹿にとっても負担がなくて一番いい方法だと、ラミアのお師匠様は言った。二週間ほどかけて、十六歳の姿に戻すのだそうだ。
 それに赤ん坊で良かったとお師匠様は言う。
 男鹿が間違って飲んだのは、身体が時を遡る薬で、うっかり間違って赤ん坊よりずっと前まで戻るような強烈なものを飲んでいたら、あっと言う間に男鹿なんてこの世から姿を消してしまっていたらしい。つまり精子だの卵子だのとそう言う分類にまで戻ってしまうと、ちゃんとした設備で培養してやらなければ干からびて死滅してしまうらしい。
 相変わらず幸運の持ち主だ、とお師匠様の手に頬を突かれた男鹿は、びっくりして目を丸くして、わぁわぁと泣いた。慌てて古市が抱き上げると、ぴたりと泣き止み、古市の胸に頬を押し付けて、ほうと安心したように笑う。
「おが」
 名前を呼ぶと、古市の指をしっかりと掴み、小さな口でちゅうちゅうと指先を吸っていた男鹿が、ぱちくりと目を丸くする。
 適応力の高い男鹿家の人々は、昔の産着を引っ張り出してきて、赤ん坊に戻ってしまった息子に着せ、きゃー可愛いと喜んで写真を撮っていた。他にも一杯あるはずだから、と今頃押入れの大捜索を行っているのだろう。産着がすぐに出てきたのは、ベル坊に着せようとしていた名残だろうか。
 ベル坊は興味津々の顔で男鹿を見つめている。
 首の座らない赤ん坊を抱き、古市は柔らかい頬を撫でる。
「おれのこと、わかる?」
 あどけない顔が、古市をぽかんと見上げている。
「……おれのこと、わかる?」
 古市の指から口を放し、赤ん坊は、あー……、と呆けた声を漏らす。
「わかんねーよなぁ……。生まれたばっかだもんなぁ……」
「あいー……」
 ベル坊が触りたいと手を伸ばすので、そっとな、と注意してベル坊の前に男鹿を下してやる。膝から降ろすと泣きだしてしまうので、膝に横抱きにした状態だ。首が座っていないのが怖い。
「あい」
 よしよし、とベル坊の小さな手が、男鹿の頭を撫でる。得意げに見上げるベル坊に、えらいなぁ、と古市は微笑んだ。
「ベル坊は、小さい赤ちゃんにも優しくできて、えらいなぁ」
「だぶっ!」
 当然だ、と胸を張るベル坊と古市とを、男鹿の目が見比べている。あの凶悪な男鹿でさえ赤ん坊の頃はこんなにも可愛かったのかと思うような、愛らしい目だ。思わず口元が綻んでしまう。
「なー、男鹿。お前、赤ん坊の頃はすげー可愛かったんだなぁ」
 ゆらゆらと身体を揺らしながら、赤ん坊を見下ろして囁く。
「お前が生まれたばっかってことは、俺はまだ生まれてなかったのか……」
 柔らかくて細い髪を撫で、ぷにぷにの頬を撫でる。
「なんか、すごいな」
 にぱ、と男鹿が笑う。笑ったのではないのかもしれない。しゃべろうとして、ぱたぱたと手を動かしながら、口を動かし、その口の形が笑みになっただけかもしれない。
 けれど古市もつられて頬を緩める。
「お前、今、俺の顔、見えてんのかな? 赤ん坊だとちゃんと見えてないって聞いたことあるぞ。さては俺の顔がぐにゃって歪んでるからおもしれーとか思ってんだろ。ばかおが」
 ぺちんと額を軽く突くと、途端に、ふぎゃあ、と男鹿が泣き声を上げる。結構な大声にベル坊がびっくりして目を真ん丸にして、古市は慌ててしっかりと抱き寄せる。
「あーごめんごめん、びっくりしたか」
 よしよし、と背中を叩き、古市は胸にしっかりと男鹿を抱き込む。男鹿は古市の心音を間近で聞くと落ち着くらしく、今もわぁわぁと泣いていたのを止め、涙が一杯溜まった目で一生懸命に古市を見上げている。
「ベル坊、ガーゼ取って」
 傍らに置かれた赤ん坊用のタオルに手が届かず、手を伸ばす古市に、ベル坊がダッと声を上げてタオルを掴む。最初は違うものを掴んだのはご愛嬌だ。これ?と振り返ったベル坊に、その横の、と言うと、納得したようにガーゼタオルを渡してくれた。大したお兄ちゃんっぷりにありがとなと笑うと、あいーっ、とご満悦の様子で、小さな男鹿に目を落とす。
 柔らかいぷにぷにの頬をガーゼタオルで拭い、黒い目を瞬きながら古市を見上げる男鹿に笑いかける。古市が笑うと、男鹿も嬉しそうに笑う。
「お前、ほんと俺のこと好きだな」
 つい今しがたまで泣いていたのが嘘のようにご機嫌な赤ん坊の額に額を摺り寄せ、泣いてカサつく頬にちゅっと唇を寄せる。
「俺も好きだよ」
 きゃあと喜びぺちぺち頬を叩く小さな赤ん坊の手が、十六年たてばたくさんのものを守り抱える大きな手に育つ。なんだかとても感慨深く、今はスペルのない右手にも唇を触れさせ、古市は微笑む。
 二週間後にはちゃんと元の傍若無人な男鹿に戻っていると解っていてても、それでも古市は願わずにはいられない。
「早く元に戻れよ」
 だぁ、と赤ん坊は真っ黒な目で古市を見上げる。
 ひたむきな眼差しを見返しながら抱きかかえたその身体をゆっくりと揺らしてやる。ぽんぽんと背を叩くリズムに促され、男鹿がくぁと小さく欠伸をする。
 可愛らしい仕草に古市も、そして古市の膝にもたれてそれを眺めているベル坊も、思わず頬を緩めていた。



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