げんたん!



 へくちっ、と可愛らしいくしゃみに、古市は膝の上にのせたベル坊を見下ろした。隣に座っているヒルダも、坊ちゃま、とやや心配そうな顔で覗き込み、制服のポケットからティッシュを取り出している。
 あー…、と唸るベル坊がずずっと鼻を啜りあげる。古市は緑色の髪を掻き分け額に触れた。
「んー、熱はないみたいだけどなー」
「坊ちゃま、チーンしてくださいませ」
 ヒルダがティッシュを鼻に当てると、ベル坊はぶびーっと騒々しい音を立てて鼻をかむ。ヒルダの優しい手つきに鼻を拭われた後、ベル坊は満足そうな顔で古市を見上げた。
「あいっ」
「あー、上手にできたなー、ベル坊。えらいなー」
 にこにこと笑顔で褒めてやると、ベル坊は嬉しそうにぱちぱちと手を叩く。その頬はちょっぴり赤くて古市は心配になったのでヒルダに顔を向けた。
「ベル坊、風邪引いてるとかないっすか? 昨日あたりからずっと鼻ぐずぐず言ってんですけど」
「うむ…、坊ちゃまが人間界ごときの軟弱な風邪にかかられるとは思わんが、少し気になるな……」
 顎に手を当て真剣に考えるヒルダは、失礼します、と告げた後でベル坊の額に触れる。首筋にも触れ、ふむ、と少しばかり安心したような顔で微笑んだ。
「特に熱はないようだから、フォルカスを呼ぶほどのことでもあるまい。それに万が一に備えてベルゼ様のお薬はフォルカスから預かっている。熱が出るようならお飲みいただくことになるだろうが……、まだ必要もないだろうな」
「そっかー。良かったな、ベル坊」
「あい」
 古市とヒルダ双方から優しい微笑みを向けられ、ベル坊は満足そうに良い子のお返事をしている。
 それを見ていた男鹿は、ケッと悪態をついた。
 昼飯を早々に終えた古市はヒルダと一緒にずっとベル坊を構いっぱなしで、男鹿は一人さみしくコロッケパンをもそもそと食っていたのだ。赤ん坊ばっかに構いやがって、と半ば拗ねた気持ちの男鹿は、本人たちは気付いていないようだが、周りから見れば明らかにおかしいことを指摘してやった。
「つーか、鼻水垂らしてるくらいなら、服着ろっつーの」
 男鹿の小声に古市がおおっと感心したような声を上げた。
「そう言えばそうだよな。ベル坊、もう十一月なんだからさ、そろそろ服着ようぜ。寒いだろ?」
「あー…だうー…」
「いや、だから寒いから服を着るんであって……。じゃあマフラーはどうだ?」
「あい」
 片手を上げて良い子のお返事をするベル坊に、古市はやっぱりにこにこ笑顔を崩さない。
「お、マフラーならいいんだ? ヒルダさん、ベル坊のマフラーってあるんですか?」
「マフラーと言うのはあれか……貴様が首に巻いてるふわふわしたものだな?」
「そーですそーです」
「ベルゼ様の衣類はお母様が一通り揃えてはくださったが、何しろ夏のことだからな。恐らくそのマフラーとやらはないだろう」
 真剣な顔で考え込んだ答えがそれかよ、と男鹿はコロッケパンの包装を破りながら思う。いっそ口に出して言ってやろうかと思ったけれど、古市が嬉しそうに身を乗り出したのでやめておいた。
「それじゃ今日の帰りに買いに行きません? ヒルダさんもマフラー欲しくないっすか。俺、買ってあげますよ。ベル坊とお揃いで」
「ぼ、坊ちゃまとお揃い…だと? そ、それはちょっと確かに心惹かれるが……まさかそんな私ごときが坊ちゃまとお揃いを身に着けるなど……っ」
 頬を染めて恥らうヒルダを見て、古市は目を細めて膝の上のベル坊に話しかける。
「ベル坊もヒルダさんとお揃い、嬉しいよな?」
「だーっ!」
「まぁ…坊ちゃま……」
 両手を上げて賛成の意を示すベル坊に、ヒルダの頬の赤みは更に増す。
 ケッと、男鹿は顔を背けた。
 古市がベル坊やヒルダばかりを構っているのが気に食わない。
 最後のコロッケパンを二口で飲み込み、一緒に購買で買ってきたコーヒー牛乳をがぶ飲みする。古市が飲みたいと言うからわざわざ買ってきてやったイチゴ牛乳は、古市がベル坊と遊んでばかりいるので結局手付かずのままだ。
 罰当たりな奴め、と男鹿はへそと一緒に口も曲げる。
 大体にして、古市くらいなものだ。
 男鹿をないがしろにしたり、男鹿をこけおろしたり、男鹿を足蹴にしたりするのは、石矢魔広しと言えども古市だけだ。確かに東条やなんかには足蹴にはされたが、あれは男鹿もやり返しているのでイーブンだ。
 やられてもやり返さない相手は古市だけだ。
 あれ、なんでだ、と男鹿は首を傾げる。
 別に古市だって東条にしたように殴り返せばいいし蹴り返せばいい。頭突きだろうが回し蹴りだろうがバックドロップだろうがかませばいいのだ。そしたらきっと大人しく男鹿の言うことを聞くようになるし、男鹿にがみがみ言わなくなるはずだ。
 けれど、それじゃ今よりもっとさみしいだろうな、と男鹿は思う。
 男鹿が凄んでも怖がらなかったり男鹿と一緒に遊んだり男鹿の話を正しく理解してくれるのは古市だけだから、もし男鹿が古市に東条にやり返す勢いでやり返したら、今みたいに側にはいなくなるような気がする。
 今の古市が違う感じになるのは嫌だな、と男鹿は考える。
 とりあえず今だけでもと古市は自分のマフラーをベル坊の首に巻いてやる。
「お、ベル坊よく似合うぞ」
「だーっ! うぃいいいい!」
「ほら、な、男鹿。かっこいいだろ?」
 古市の膝の上に座り、雄叫びを上げるベル坊をわざわざ古市が身体の向きを変えて男鹿に見せる。
「おー」
 気のない素振りで返事をし、それよりも男鹿は古市の首筋の方が気になっていた。
 寒がりの古市は誰よりも早い時期からマフラーを巻き始める。ベル坊にマフラーを貸してしまってそれじゃあ帰りが寒いだろうにと男鹿は思うけれど、古市は気にした様子もない。へへっと笑う口元に昼飯のハンバーグのソースがついている。ヒルダも指摘をしてやればいいのにと思ったが、基本的にヒルダはベル坊以外に全く興味がないので、古市の顔にハンバーグのソースどころかハンバーグそのものがついていても指摘はしないだろう。
 男鹿はコーヒー牛乳をずるずる啜りながら手を伸ばし、古市の口元を拭う。ぐいと少々乱暴に口元をこすると、古市が不思議そうに眉を寄せる。
「んあ?」
「ついてた」
 ソース、と指を見せると、あ、悪ィ、と古市は首を曲げて男鹿の指を舐めた。ハンバーグのソースを舐めとっているのだ。柔らかく熱い舌が指先を舐めてゆくくすぐったい感触に男鹿は頬が緩む。
「あに笑ってんだよ」
 むぅと頬を膨らませる古市は、口にソースをつけたまま気付いていなかったことを笑われていると勘違いしているらしい。ちょっと違うけどな、と思いながらも男鹿は、イチゴ牛乳のパックにストローをさして古市の口まで運ぶ。古市はベル坊が膝から落ちないように両手で支えているので、イチゴ牛乳が飲めなかったのだと、古市の訴える眼差しでようやく男鹿も気付いたのだ。
「笑ってねーよ」
「笑ってんじゃん」
「笑ってねーって」
 くだらないことを話しながら、古市がイチゴ牛乳を飲むのを男鹿は待つ。適度な所で切り上げ、机へイチゴ牛乳のパックを戻すと、やっぱり古市口の端にはイチゴ牛乳がちょっぴりついていた。なんだってそんな口の端から零れるような飲み方をするんだと指で拭おうとして、イチゴ牛乳は手につくとべたべたするな、と思い直す。手を洗いに行くのも面倒だし、手を使わなきゃいいか、と男鹿は手を伸ばし、古市の顎を掴んだ。
「あ?」
「ついてる」
「んー」
 べろりと古市の口の端を舐めると、イチゴ牛乳の甘ったるい味が舌に残る。うげ、と男鹿は顔を顰める。
「こんな甘ぇもんよく飲めるな」
「え、たまに甘いもん飲みたくなんだろ? ココアって気分じゃなかったし」
「ふーん」
 そういうもんか、と男鹿は首を捻り、口直しにコーヒー牛乳を啜った。
 ベル坊が古市の膝の上できゃいきゃいとはしゃぎ、古市のマフラーを見せびらかそうとしている。おー良かったなー、と緑色の髪をぐりぐりと撫でる男鹿も、ベル坊を膝の上に乗せて、かっこいいぞー、と笑う古市も、坊ちゃま素敵です…、と目を潤ませるヒルダも、教室中の気持ち悪いものを見るような生ぬるい眼差しが注がれていることに、まったく気付いていなかった。




ツイッターやらピクシブやらでお世話になってる原子さんへのお誕生日のプレゼントでーす。
リクエストが 『おがふるベルヒルが教室でいちゃこらしてて入り込めない雰囲気を醸し出すデキてないおがふる』でした。
私にしては珍しくリクエスト通りだと思うのよ!!
もっかい言います。この男鹿と古市はできてないです。デキてない!!