電波は超える
真夜中の着信音に、古市は眠い目をこする。
真っ暗な部屋の中でぴかぴかと光って自己主張をする携帯電話を取り上げると、時刻は夜中の二時四十分だ。こんな時間に無遠慮にかけてくる相手は一人しか知らず、古市は溜息混じりに通話ボタンを押す。
「もしもし」
電話の向こうから聞こえるのはざーざーとノイズの混じった幼馴染の声だ。いつも通り電波の通りは悪く、男鹿は声を張り上げている。
今日はどこそこの部族とタイマンしたんだとか、ドラゴン倒したんだとか笑いながら報告する声に耳を傾けながら、古市はごろりと仰向けになる。
ノイズ混じりの声は、古市が黙っていると不意に言葉を途切れさせ、もう寝たか、と尋ねてくる。
がっかりしたような、それでいてこちらを案じるような色合いはどんなノイズにも負けず古市の耳に届く。
「起きてるよ……そんで? お前、今日も怪我はしなかったのか?」
するわけねーだろ俺様が、とかかかっと笑い声が時折途切れる。
「ふーん。ベル坊は?」
元気だぞ。すげー元気だ。また電撃もパワーアップしてきたしよー、新しい技もできたし、ピーマンも食うし。
「そりゃすげーな………ピーマン食ってんのか…」
少しずつ覚醒する脳が、真夏の太陽のように笑う男鹿を想像する。その背中であどけなく、けれど嫌悪する人間には眼光鋭く視線を巡らせていた赤ん坊の姿を思い出す。
自分と同じ髪の色だからなのか、それとも子ども特有の苦いものが苦手な味覚のせいなのか、ピーマンが苦手だった赤ん坊が、ピーマンを食べたと言うのだから驚きだ。
見たかったな、と古市は瞼の上に腕を乗せる。
きっと顔を引きつらせながらも、とびきりのドヤ顔で古市を見上げただろう。そしてそれと同じくらい、男鹿もドヤ顔で笑いながら古市を見ただろう。
ベル坊は、男鹿を親に見初めた赤ん坊は、どれくらい大きくなったのだろうか。
男鹿がベル坊とともに魔界へ渡ってしまってから捲ることを止めたカレンダーが、古市の部屋の机の上にある。薄いカーテン越しに差し込む月の光に浮き出されたそれは、五年前の日付だ。
人間の子どもなら小学生に上がるような年齢だ。
時折男鹿がメールで写真を送ってはくるけれど、不鮮明でどれが背景なのかどれがベル坊なのか解らない。異次元を飛び越えてくる画像は荒く、それが男鹿だと思い込んで見なければ男鹿ですらも解らないようなものだ。
けれど古市はそれを送るなとは言わなかった。
どんなものでもいい。
男鹿やベル坊の無事な姿を見られれば、どんなものでも構わなかった。
ふるいち、と異次元の向こうで男鹿が呼ぶ。
「……んー?」
のんびりとこちらにはつらいこともせつないこともさみしいこともありませんよと伝わるよう、のんびりと古市は声を返す。
あいたい、と溢れる涙をシャツの袖に吸わせ、古市は眠そうな声を装う。
こんなとき異次元を飛び越える電波は有難い。雑音混じりで呼気までをも拾うほどの携帯電話の性能を、まったく発揮しないからだ。
もーすぐ帰るからな、と男鹿の明るい声が耳をくすぐる。
「…うん……」
古市は少し笑み、帰ったら何をしようかと列挙する男鹿の声に耳を傾ける。
もう幾度となく聞いたその言葉はけれど叶った試しがない。
強さを増し、権威を増していくベル坊の親として、男鹿はなくてはならない存在なのだそうだ。大魔王から命じられ統治のためにベル坊とともに魔界のどこそこへ出かけては、男鹿の言うところの喧嘩を、ヒルダの言うところの征伐を行う。男鹿とベル坊が強くなればなるほど、大魔王からの覚えもめでたくなり、人間界へ帰る道は遠退いて行く。
そのからくりを、男鹿は理解しているのだろうか。
魔界での生活が楽しすぎて理解していないかもしれないし、していても、まぁいっか、で済ませているかもしれない。
マジでもーすぐ帰るし、と男鹿がいつもより真剣な声を張り上げる。
だから泣くな、と耳を打つその強さに息が詰まる。
胸を鷲掴みにされた心地で、古市は溢れる涙をぬぐい、口を押えた。
油断すると嗚咽が漏れそうで歯を食いしばる。
ふるいち、と呼ぶ声に、うん、と答える。
もう男鹿に聞こえるかもなんて構ってもいられず、大きく息を吸い、吐き出し泡立つ気持ちを落ち着かせる。
「待ってる」
そうはっきりと言うと、おう、と男鹿の照れ臭そうな声がやはり雑音混じりに届く。そのすぐあとに、ふるいちかっ、ふるいちとでんわかっ、と騒ぐ子どもの声が聞こえてくる。
おれもでんわするっ、ふるいちとはなすっ。待て待て先に俺が話し終わってからだ、俺が先、お前は後。おがのでんわなげーからおれがさきにはなすんだっ。いやテメーの電話のがなげーんだよっ、どーでもいいことぺちゃくちゃしゃべりやがってっ、古市は俺のだからなっ。そんなのだれがきめたんだよーっ。俺だよ俺っ、俺のですーっ。
ぎゃあぎゃあとやりあう声は雑音にも途切れることがない。
古市はいつものやり取りに笑い声を漏らし、じゃんけんで順番を決める親子の決着を待つ。
その間に頬を伝う涙は乾き、震える喉も落ち着く。
いつものことだ。
古市は目を閉じ、電話の向こうの音に耳を傾ける。
親子の大人げない喧嘩が電波に乗って異次元を飛び越えやってくる。混じるノイズはまるで子守唄のようだった。
電波は次元を超えるけれど、古市は超えられなくて、ただ待ってることしかできないのよ、と。
数年越しの再会とか妄想するだけでうわぁあってなります。
きっと男鹿はすんごいイケメンになってんだろうなぁって古市は想像してるけど、それを上回るくらいの男らしい男になっちゃて、
ベル坊も成長しちゃってて、再会した途端、笑うよりもしゃくりあげて泣く古市が、見たい(願望か)。