ミルクとコーヒーとオムライス



 男鹿家の玄関を開けるなり、だぁ、と満面の笑みに迎えられ、古市ははぁと溜息を吐いた。
 たたきを上がったところには年中無休で素っ裸のお子様がちょこんと座っていて、さぁ抱き上げろと両手を広げている。
 ちらりと見た階段の付近にはおもちゃが転がっていたので、二階から降りてきたものの上がれなくなったパターンだ。もうちょっと古市が来るのが遅かったら、泣き喚いて保護者を感電死直前に追い込んでいたに違いないお子様は、古市が動かないのを見ると、再び、だぁ、と両手を掲げた。
「はいはい…っと」
 古市は靴を脱ぎ、家の中に上がりこむ。家の中に人の気配はなく、男鹿の両親も姉も出かけているのだと知れた。
 だぁだぁとご機嫌のベル坊を抱き上げ、ついでに階段の下に転がっているおもちゃも拾い上げる。あーっ、と嬉しそうな声を上げたベル坊におもちゃを渡してやれば、きゃっきゃっと可愛らしい笑い声を上げた。
「おー、嬉しそうだなぁ、ベル坊くんは」
「だぁー! ぶっ、ばぁー!」
 ベル坊がでっかい目をキラキラさせて玩具を掲げる。真っ赤な顔と胴体に黒い頭巾と前掛けをした人形が車に乗っているおもちゃだ。いかにも土産物屋に売っているそれは、多分男鹿父が購入してきたものだろう。思いがけず早い段階で祖父になってしまった(と信じている)男鹿父は、どこかに出張に行くたびになにがしかの土産を買ってくる。なんだかんだ言いながら孫(と信じている)ベル坊が可愛いのだろう。
「なんだ、新しいおもちゃか?」
「だぁ」
「おじさんが買ってきたのか? 良かったな、ベル坊」
「だぁー、だっ、だっぶー」
「そーかそーか」
 古市はおざなりに頷き、ベル坊を抱えたまま台所へ入った。何年も通い、ほとんど他人の家ではなく自分の家感覚だ。食器棚から自分用のマグカップを出し、インスタントコーヒーを入れる。男鹿も飲むかな、と思ったが作らないことにした。どうせ作ったところで片手にベル坊を抱いていたのでは男鹿の部屋まで運べない。
 ふんふん鼻歌を歌いながらお湯を注ぐ間、ベル坊は古市の片腕の中でだぁだぁ何かをしゃべっている。
「ベル坊、お前、ミルク飲んだのか?」
 そう言えば、と台所を出る前に問うと、ベル坊は少し首を傾げ、うー、と唸った。解釈するに、一応飲んだことは飲んだけどでもちょっと欲しいかなぁ、と言うところだろう。
「欲しいんなら作ってやるぞー。いるか?」
 台所の隅にある哺乳瓶の煮沸器を指差すと、ベル坊は、だぁっ、と頷いた。
「だぁーだっだ、ぶーばっぶー!」
「はいはい、作りますよ〜。しかし、ほんときみは手のかからないお子様だねぇ。きみの保護者の方が手がかかるっつの」
「だぶ」
「だよなー」
「ばー、ぶ、だっ」
「そーか、そいつはびっくりだなぁ」
「だぁっ」
 古市は片手に持っていたマグカップをテーブルに置き、煮沸器から哺乳瓶を取り出した。随分とこの作業も慣れたもので、清潔なタオルで哺乳瓶を拭い、粉ミルクを棚から取り出す。ベル坊を右手に抱えたままで若干やりにくいことはやりにくいのだが、できないこともない。粉ミルクの蓋を開け、附属のスプーンで哺乳瓶にすくい入れる。手元が狂い、粉ミルクが少し零れてしまった。ベル坊を椅子に座らせ両手でやった方がやりやすいのだが、ベル坊のご機嫌を損ねるのは勘弁したい。
 熱湯を注ごうとして、おっと、と眉を寄せた。
 さすがに熱湯を注ぐ時にはベル坊を下ろしたい。年中無休で素っ裸のお子様を腕に抱いたままでは危険だ。ベル坊も、何よりベル坊に熱湯がかかった後に起こり得る電撃地獄プラスヒルダの拷問を考えると、ベル坊よりも自分の方が危険だ。
「ベル坊、お湯注ぐから椅子に座っててくれな」
 赤ちゃん用の椅子(男鹿父がいそいそと購入してきた)にベル坊を座らせようとしてそう言うと、だぁあっ、とベル坊が頬を膨らませる。
「ぶいーっ」
 大きな目でぐっと睨みを利かせ、眉を吊り上げている。椅子に座らせようとした古市の手に抗うべくがっしりとしがみついてくるので、手にしていたおもちゃががつっと古市の肩にぶつかった。地味に痛い。
「いやいやベル坊くん。お湯がかかると危ないだろー。ちょっとだけだからなー」
「だぁあー、うーっ」
「いやいやいや、男の胸にしがみついて何が面白いのかね、きみは。あ、おんぶはどうだ? それからお湯もかかんないぞー」
「あうー、だう」
 ぶんぶんと首を振り、ぐりぐりと額を肩へ押し付けてくる。赤ん坊の力も思ったより強く、額が骨に当たってごりごり痛い。顔を上げたベル坊の目にうっすら涙が浮いていて、ああああ、と古市は溜息を吐いた。
 どうするかなこりゃ、と途方に暮れていると、ぺたぺたと足音が聞こえ、台所にのっそりと男鹿が入ってくる。今の今まで寝ていたらしく、黒い髪はぼさぼさで、ふぁああ、とでっかい欠伸をしながら腹を掻いていた。寝ぼけ眼で台所へ入ってきて、哺乳瓶を片手にした古市を見ると、なんだ、といつもよりのんびりした口調で言った。
「きてたのか、ふるいち」
「おう、まぁな」
 だぁ、とベル坊が片手を挙げ、おう、と男鹿が返事をする。どうやら本気で今まで寝ていたらしい。ちなみに今は昼の一時だ。いくら休みの日だからって寝すぎだ。
 男鹿はぼーっとした眼差しでテーブルの上を見て、マグカップを見つけるとおもむろに手を伸ばし、中を覗き込む。コーヒーだぞ、と教えてやると、おー、と間延びした生返事をしてごくごくと飲んでしまった。
 俺のだぞ、と言っても意味はない。
 男鹿は飲みたいときに飲み、それが誰のものであろうと関係ないのだ。古市のものなら尚更だ。古市のものは俺のものとでも思ってるのだろう。傍若無人な暴れオーガめ。
「で、何やってんだ?」
 古市がベル坊を右腕に抱き、哺乳瓶を左手に持ち、ポットの前で立ち尽くしているのにようやく気付いたらしい。マグカップをどすんと置き、さっきよりは覚めた目を瞬きながら男鹿が首を傾げる。ようやくかい、と内心突っ込みを入れた後で、古市は哺乳瓶を軽く持ち上げて見せた。
「ミルクだよ、ベル坊の。作ろうと思ったんだけど、ベル坊抱いたまま熱湯入れたくねーんだけど、ベル坊が降りてくんなくて」
 あー、と男鹿は納得したのかしていないのかいまいち解からない返事をする。
「おんぶでいいじゃねぇか」
 それができりゃ困ってねぇよ、と古市は溜息を吐いた。
「おんぶも嫌がるんだよ」
「ほーか?」
 ぺたぺたずるずる足音とジャージの裾が擦る音をさせ、男鹿が古市の側へやってくる。ん、と手を伸ばすので、お、とベル坊を抱いた右腕を男鹿の方へやると、だ、とベル坊が両腕を広げて男鹿の方へ行く。ベル坊はさっきまでおんぶを嫌がっていたのが嘘のように、男鹿の腕をするすると伝い背中へ収まった。
「だあっ!」
 満足そうな顔になんだか古市は敗北感を抱く。
「そーか…男鹿の背中なら文句はないのか、ベル坊くん…」
「いつもおんぶだからそーゆーもんだと思ってんじゃねぇのか? 逆にこいつ、俺が抱っこしようとすると嫌がる時あんぞ」
「お前の抱き方が粗雑なんだよ」
 古市は手早く熱湯を注ぎ、粉ミルクを溶かす。哺乳瓶を揺すって粉ミルクが完全に溶けたのを確認すると、ヒルダが常に用意している湯冷ましを足す。軽く振ってからベル坊へ渡すと、だあ、と嬉しそうに哺乳瓶を受け取り、代わりにずっと持っていたおもちゃを渡された。多分ミルクを飲んでいる間は持っとけ、と言ったところだろう。
 はいはい、と言いながらコーヒーを飲もうとして、マグカップが空なことに気付く。
「あ、クソ、男鹿。お前、全部飲んだな?」
「おー」
 ぼんやり立っている男鹿を睨めば、うまかった、と返ってくる。謝罪は端から期待していないので、古市は空のマグカップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いだ。
「クソー、すぐ飲みたかったのによ…」
「飲みゃいいだろ」
「俺は猫舌なんだよ。あー…飲めないと思うと余計飲みたくなるのは何でだ…」
 ポットから注いだばかりのお湯を使ったコーヒーなど飲めるはずもない。
 恨みがましい目で男鹿を見れば、あー、と男鹿はまたもやぼんやりした声を漏らし、不意に顔を近づけてきた。
「ふるいち」
「ん?」
 男鹿から漂うコーヒーの香りを間近で嗅ぐと同時に、唇を柔らかい感触に覆われる。ん、と眉を寄せている間にぬるりとコーヒーの味のする舌で唇を舐められ、口の中も舐め回される。舌に舌が擦り合わされる。嫌でもコーヒーの味が口腔を満たす。
「んぁ」
 僅かばかり体勢を崩したのを知ってか、男鹿の手が首に添えられる。耳たぶを挟むように添えられた手の長い指が首裏をくすぐり、古市は思わず首を竦めた。古市がくすぐったがりなのを知っているくせに、男鹿の人差し指が襟足を撫でる。
「うぁっ」
 すりすりと撫でる指を止めようと男鹿の手首に手をかけるが、非力な自分ではどうにもならず、ただただしがみつく格好になる。そうしている間に息が苦しくなり、強引に顔をもぎはなすと、どうだ、とばかりに男鹿がにやりと笑っていた。
「コーヒーの味しただろ」
「苦しいわ、アホっ!」
 ぜぇぜぇと息を吐いていると、ん、しねぇか? と男鹿が首を傾げる。
「いや、したことはした」
「だろ? 良かったな、古市」
 男鹿も、そして背中にしがみついてミルクを飲んでいるベル坊も、どちらも満足そうに頷いていて、古市は脱力に見舞われ、おう、と頷いた。
 コーヒーの味は確かにしたが、なんと言うか、コーヒーの味など忘れてしまうほど濃厚なキスだった。どちらかと言えば、夜のそう言う雰囲気の時にするもので、朝や昼向きのものではない。しかも台所でするようなものでもない。
 後ろめたい気持ちになり、それを誤魔化すために思わずコーヒーを口へ運ぶ。男鹿が、あ、と何か言おうとしたようだったが、それよりも早く含んだコーヒーの熱さに古市は目を白黒させた。
「あつっ、あっつー!」
 吐き出しもできず、無理矢理飲み下した熱いコーヒーに涙目になる。舌を出してひーひー言っていると、ばかだなお前、と男鹿が手を伸ばし、突き出した古市の舌をぐいっと掴む。
「いはい!」
「え、位牌?」
「ひあふ、いはい!」
 ばしばし手首を叩いて抗議すると、男鹿は目をぱちくりさせた。
「ああ、痛いか。だろーな、赤くなってるぞ」
 違うわ、ぼけっ、と古市は思い切り足を踏みつけてやるが、男鹿にはまるで効かない。足を踏まれていることにも気付いていないのかもしれない。お前の痛覚どうなってんだ。
「べろなんか薬塗れねーしなー…舐めときゃ治るだろ」
 掴んだままの舌に男鹿の舌が触れる。
 本気で舐めれば治ると思っているのか、赤くなっているのだろうひりつくところばかりをべろべろと舐めまくっている。舌を掴まれたまま引っ込めることもできず、男鹿の馬鹿力から逃れることもできない。舌下に溜まる唾液が溢れ唇から滴り落ちる。男鹿の手も古市の涎で濡れているのに、男鹿はまったく気にも留めていない。
「おが」
 苦しい、と視線で訴えると、男鹿の目が古市と合い、ふっと笑みを浮かべる。ようやく舌は解放されたが、すぐに唇が重なり、ああやっぱりね、と古市は目を閉じる。
 男鹿のキスは、特に性的な意味合いを深めるキスは濃厚だ。
 男鹿とキスをするようになって、古市は自分が想像していたキスが子供だましだと思い知った。
 魂まで貪るように、口腔のありとあらゆるところに触れ、繊毛の隙間、舌の付け根までもを探ろうとし、溢れる唾液を啜り、または飲み込ませる。そんなキス、古市は知らなかった。
 古市よりも背が高く体格もいい男鹿に抱えこむように抱かれ、上向かされた古市の喉が苦しくて鳴る。ぐぅ、と苦しさに呻いた古市に気付き、ようやく男鹿が唇を離す。ぷはっと思い切り息を吸い込んだ古市を見て男鹿が笑う。
「てめ、何がおかしい…」
 ぜぇぜぇと息を整える古市を笑いながら見下ろし、男鹿が手を伸ばす。濡れた唇の端を親指でぐいと拭い、その駄賃のように軽くちゅっと音をたててキスをする。
「ん、かわいーなーと思って」
「男に可愛いっつーなアホ」
「んん? 古市はかわいーぞ」
 にこにこと邪気のない男鹿に、何を言っても駄目だと古市は溜息を吐く。口元をぐいと拭い、テーブルの上で長いキスが終わるのを待っていたコーヒーに手を伸ばした。慎重に口をつけるが、今度はもう大丈夫だ。軽い火傷をした舌にも痛くない程度にぬるくなっている。
 マグカップの半分ほど空にしたところで、側に立つ男鹿からぐうと盛大な腹の虫が鳴く音が聞こえてきた。つられてそちらを見れば、哺乳瓶を咥えたベル坊が首を横に振り、ベル坊を肩に乗せた男鹿が腹を押さえていた。
 解りやすい展開、と古市は息を吐く。
 案の定、顔を上げた男鹿が、古市、と呼んだ。
「古市、メシ」
 古市はぐるりと目を回し、俺はメシじゃねぇ、と言い返した後で冷蔵庫を開けた。男鹿の家だろうとも遠慮はない。ガシャンと音を立てて開いた冷蔵庫を、ついてきた男鹿も一緒に覗き込む。
 昨日の残りらしい白飯、卵、牛乳、バターやチーズの類、ミンチやベーコン、チョコレートやヨーグルトの菓子類に、野菜室には常備されている刻みネギや大根の類があれこれとある。ケーキ屋の白い箱があったので引き出してみると、油性ペンで『ミルフィーユ以外なら食べてもいい』と書いてある。美咲の字だ。中を見るとミルフィーユ以外にはティラミスとエクレアが入っている。
 横で男鹿が、ミルフィーユってなんだ、と眉を寄せているので、美咲は古市がケーキの箱を見つけることを念頭にこれを書いたに違いない。弟が見つけても解らなければ古市に尋ねるだろうと言う気持ちが見え隠れしている。おやつに食おう、とケーキの白い箱は戻し、他に使える材料がないか物色した。
「あー……すぐにできるのは炒飯とかリゾットとかだな」
「オムライス」
「できるけどメンドイ」
 顔を顰めて切り返すが、勿論男鹿が食べたいものを変えるはずもない。
「オムライス」
 変わらない要望に、だろうな、と古市は卵のパックに手を伸ばした。


記念すべきべるぜ小説一発目。なのにナチュラルに夫婦なおがふるでした。
男鹿は天然でタラシ要素満載だと思います。
タイトルはそれぞれの好物ということで。てことは、『女子とミルクと古市』のが正しかったか?