アバンチュールな恋の予感


 監視員の手によって市民プールを追い出された後、古市と男鹿はとぼとぼと帰路についていた。
「ったく……折角のリゾートが台無しだよ」
 古市が恨みがましく隣を歩く男鹿を睨みつけると、いまだリゾートショックを引きずる男鹿が、おー、と間の抜けた声を返す。ベル坊の大泣きで我に返ったかと思いきや、歩くたびにリゾートに自分が行けばいいと言う発想に思い至らなかった悔しさが思い出されているらしい。
「しかもアバンチュールの予感だったっつーの」
「おー」
「お姉さんたちとおしゃべりできそうな雰囲気だったつーの」
「おー」
「開放的な夏の到来だっつーの」
「おー…」
 何を言っても無気力な声しか返さない男鹿に苛立ちも募る。
 テメェの我儘でリゾートから無理矢理連れ戻されたというのに、この男、自分勝手にもほどがある。
「超久々の男鹿のいない夏休みだったつーの」
 照りつける日差しがむき出しの肩や背中に痛い。芋洗い状態でもやはりプールはプールだ。路上よりは圧倒的に涼しかったし、照りつける日差しもそんなには気にならなかったように思う。
「たまには俺ものんびりしたいっつーの」
 古市は深々と溜息をついた。
 家族には、男鹿に呼び戻されたとメールを送っておいた。古市家は妙に男鹿に耐性と理解があるので、大抵のことは無条件で納得する。案の定ほのかからは、たつみくんも一緒にこればよかったねー、とメールが返ってきていた。
 そうだねー、と古市は再び溜息をついた。
 常に常に常に、男鹿にアバンチュールの予感を邪魔しまくられているので、今年こそはと男鹿に黙って石矢魔を出たのがまずかったのか。
 南の島に行くんだー、と言えば必ず、俺も行く、と言うに決まっているし、男鹿を連れて行ったら連れて行ったで、絶対に南の島の不良どもと喧嘩をおっぱじめて古市のアバンチュールの予感は台無しになる。毎度のことだ。パターンだ。そろそろ違う展開も欲しい。
 だからこそ黙って出てきたのだ。
「あーもーやだ」
 確かに違う展開も欲しいとは思ったが、こういう展開を望んではいなかった。
「この先、男鹿とつるんでるとずっとこんなことばっかな気がしてきた…」
 はぁ、と溜息を吐いた時、傍らを歩いていた男鹿の姿がないことに気付いた。と言うよりも男鹿を体よく日よけにしていたので、夏の強い日差しが眩しくて気付いたのだ。
「男鹿?」
 振り返ると、男鹿は五歩ほど遅れたところでぼうっと立ち尽くしている。背中のベル坊が怪訝そうに顔を覗き込み、あだー、と首を捻っているが気付いた様子もない。
「どうした?」
 古市も首を傾げ、少し離れたその距離を縮めるべく踵を返すと、男鹿がハッと目を瞬き、古市を見下ろした。ためらうように持ち上げられた手が古市の頬に触れる直前、気が変わったように離れていく。
 珍しい。
 いつでもどこでも気が向いたときに触ってきたのに、と古市が驚いていると、男鹿がミンミン鳴く蝉に悪態を吐くわけでもなく、あのよ、と口を開いた。
「お前、俺と離れてーの?」
 男鹿のいつになく弱気な声に、古市は目を丸くした。
 何を突然、と言いかけ、つい先ほどの己の言葉を思い返す。
 男鹿のいない休みが潰されてしまって残念だというような趣旨の話をだらだらとしていたのだ。男鹿の耳には届いていないようだったが、リゾートショックを受けつつも聞くともなしに聞いていたのだろうか。
「あー…まぁ、そりゃ…」
 多少は、と古市は目を逸らした。
 一年三百六十五日、おそらく顔を合わせない日はない。
 元旦も男鹿は古市を初詣に誘いにきたし、お盆だってなぜか古市家にいた。クリスマスも誕生日も台風の日も、古市は男鹿と一緒にいたのだ。
 たまには、そう、それこそ一日や二日、離れてみたっていいだろう。
 そう思ってのこっそりリゾートだったのに、結局一日足りと空かずに男鹿と会っている。
 リゾートへ向けて出発したのは昨日の昼。午前中に男鹿が宿題がどーのと言って教科書を借りにきたので、今のところ順調に皆勤賞モードだ。
「一年中毎日一緒にいるんだぞ? たまには離れたっていいだろ」
 ラブラブカップルだってもっと顔合わしてねーよ、と付け加えると、男鹿が困ったように眉を寄せ、少し笑った。
「俺はヤダ」
 その男鹿の苦笑顔は、なんだか泣きそうに見えて、古市はぎょっとする。
「俺は毎日だって古市に会いたいし、できるんならずっと一緒にいてぇ」
「なっ……おまっ……えええっ?」
 何それ超こっぱずかしい告白なんですけどっ、と古市の顔が首まで真っ赤になる。
 一瞬で色の変わった古市の顔に、男鹿がふっと笑みを濃くする。男鹿の肩にしがみついているベル坊も、あだっ、と嬉しそうに指をさす。見てあれ超真っ赤、パねぇんですけど、ってところだろうか。
 あだーあだー、と手を振り回して伸ばすので、古市は真っ赤な顔を誤魔化すためにベル坊を抱き取り腕に抱えた。ベル坊がご機嫌できゃっきゃっと声をあげ、古市の銀色の髪をわしづかみにする。ぐいぐい引っ張られて痛いけれど、文句を言うわけにはいかない。ベル坊を抱きこみ、緑色の髪に顔を突っ込んで塩素の匂いを嗅ぎ取る。プールの中に引きずり込んだせいだ。少しばかり、ベル坊には可哀相なことをした。
 そんな今の状況には関係のないことをつらつらと考え、現実逃避を図る古市に、男鹿が一歩近付く。
「諦めろよ、古市」
 ついさっきまでの弱気な、泣きそうな顔はどこへ行ったのか。
 古市の真っ赤な顔ですべてを察したらしい男鹿がいつもどおりのふてぶてしい顔で笑う。
 まったく、いつもは鈍感極まりないくせにこういうときだけは察しがいい。
「お前を離すつもりは一生ねーから」
 だから諦めろ。
 不適に笑う男鹿がまた一歩近付き、古市との距離がゼロになる。
 さっきは触ることをためらっていた手が、今度はためらいなく伸び、古市の裸の背中を引き寄せた。ぐいと乱暴に、けれど男鹿にしては慎重に引き寄せられ、古市は男鹿の腕に抱きしめられる。
 一生って何それ馬鹿じゃねーの。
 プロポーズじゃねーんだから。
 返そうと思った罵声は喉の奥に引っ込んで出てこようとしない。
 男鹿と古市、二人の間にはさまれたベル坊が、ぐえと苦しそうに呻いたが古市にはどうしてやることもできない。男鹿がぎゅうぎゅうと少しの隙間さえも許さないとばかりに力を込めてくるし、古市には男鹿の手に抗う腕力などないのだから。
 それに何より、古市も男鹿から離れがたいと思っていた。
 男鹿の身体はベル坊同様に塩素の匂いがして、それから日向の匂いがする。きっと自分の身体からも塩素の匂いがしているのだろう。男鹿やベル坊と同じように。
 ごめんな、とベル坊を抱える腕に力を込めると、ベル坊は何かを察したらしく、ぺったりと古市の胸に頬を預ける。つぶらな瞳がくっつく二人を見上げ、だぶ、と声を上げる。それを見下ろした男鹿がふと笑い、見んなよ、とベル坊の目を塞ぐ。
 そして、ここが天下の往来だとか、真昼間で少し離れたところには世間話をする若奥さん達がいたりだとか、プールへ行こうとする小学生が通りがかっているだとか、塀の上を野良猫が歩いているだとか、そんなことまったくお構いなしのアバレオーガが、かぷりと古市の唇に噛み付いた。
 はむはむと甘噛みをして、ぺろりと舐める。味見のようなキスの後は、本格的に貪るキスだ。
 古市は塩素の匂いのするキスに喘ぎながら、俺だって離れねーよ、とどうなり呟いたささやかな声は、目を見張り、すぐさま真夏の太陽よりも、それを模した花よりも明るく眩しく大きく破顔する男鹿の唇に飲まれて消えた。


高島先輩…っ!なプール回の感想もどき小説。
なんでこいつらナチュラルに夫婦なんだろう。
そして男鹿が古市大好きすぎてどうしようかと思いました。どうしようもないんですけども。