甘い唇



 ちゅ、と軽く濡れた音を立てて唇が離れていく。
 自分と同じ男の唇であるのに、古市の唇は甘くてやわらかい。キスをした後は濡れていて、色もいつもより鮮やかになっている。おいしそうなのでかぷりと軽くかじると、古市はびっくりしたように目を丸くして、すぐにぶはっと笑う。古市の吐き出した息が頬にかかり、そこだけが温かくなってすぐに冷える。
「あにやっへんだ」
 下唇を噛まれたままなので古市の言葉は不明瞭だが、男鹿には解る。男鹿の言葉足らずの言葉を古市が正しく理解するように、古市の意味不明の言葉を男鹿は理解した。
「うまそうだから」
 痛くすると絶対に殴られるし、二度とキスさせねー、と言われるのは解っているので、男鹿もその辺りの加減は心得ている。古市の下唇を柔く噛んでいると、古市は困ったように笑う。それでも男鹿のやりたいようにやらせてくれるので、男鹿は古市の困ったような目を見たまま下唇を食んだ。
 やわらかくて、少しでも力を込めれば噛み切れてしまいそうだけれど、もったいなくてそんなことはできない。
 本当には甘いわけではないが、男鹿にはとても甘く感じる古市の唇を噛み、舐めていると下唇を捉えられているせいで、古市の口の端から唾液が溢れそうになっていることに気付いた。
 べろりとそれを舐め、やっぱ甘ぇ、と男鹿は呟く。
「ガム食ってたからじゃね?」
 古市の不思議そうな顔に、そうじゃない、と男鹿は首を振る。
 ガムの甘さではなく、砂糖の甘さでもない。果物のそれとも異なる甘さは、古市自身から滲み出ているものだ。多分、男鹿だけが気付く甘さ。
絶対に、男鹿以外には知らせたくない、知られてはならない甘さを独占するため、男鹿は古市の銀色の髪に手を突っ込む。引き寄せ頭皮を撫でるのとは別の手で、薄っぺらい背中を抱き寄せる。シャツの裾から手を突っ込み、どんな暑さだろうと男鹿にはひんやりと感じる肌にじかに触れる。
 あちぃ、と笑う古市の手が優しく男鹿の頬をつねり、暑くねーの、と尋ねる。
「お前の手、むちゃくちゃあちぃんだけど」
 男鹿を見ても恐怖せず警戒せず闘争しない目が柔らかい色で微笑んでいる。
「のぼせそーだ」
 暑さにではなく、その柔らかい色と甘さに脳が揺らぐ。
「クーラー入れっか?」
 まだ早い気もするけどな、と古市は言い、男鹿に抱え込まれたまま手を伸ばす。男鹿の後ろにあるテーブルの上にエアコンのリモコンがあった。もう少しのところでリモコンに届かないらしく、古市は一生懸命に男鹿に身体を押し付けるようにして手を伸ばそうとしている。男鹿が古市を離し、古市が男鹿から少し離れて手を伸ばせば、すぐにでも届く場所にリモコンはある。それでも男鹿は古市を離そうと思わなかったし、古市も離せとは言わない。
 それがなんだか嬉しくて、男鹿は古市の首筋に顔を突っ込んだ。薄く汗の滲んだ肌に鼻を摺り寄せ、浮いた筋に歯を立てる。ちゅっと音を立てて吸い付き、色付いた皮膚に満足し、少しずれた場所にまた歯を立てる。
「あちぃし、くすぐってぇし、しかもまたキスマークつけたな?」
「俺のだからいいの」
「いくねぇの。またからかわれるだろーが…よっと!」
「うおっ」
 男鹿の腕の中で大人しくしていた古市が、突然男鹿の肩に手を置き、そこへ力をかける。ぐらりと後ろへ揺らいだ隙を逃さず、全体重をかけられてはさすがの男鹿も後ろへひっくり返る。抱えた古市を落とさないように、床へ激突させないようにとしたせいで、男鹿は後頭部をしたたかに床に打ち付けたが、ゴッという結構な音の割にダメージはさほどでもなかった。
「お、すげー音したな!」
 男鹿の腹の上に跨った古市がけらけらと笑い、タンコブできてねーか、と男鹿の頭を撫でる。
「お前なー。あぶねーだろ」
「大丈夫だって。男鹿は丈夫だし」
「落としたらどーすんだよ」
「大丈夫だって。男鹿が俺を落とすはずねぇだろ」
 古市は男鹿に跨ったまま手を伸ばしてリモコンをとる。それを窓の上に設えられているエアコンに向けピッとボタンを押すと、すぐにそよそよと涼しい風が吹いてきた。
「これでよし」
 リモコンをぽいとソファの上へ放り投げ、古市がべったりと身体を倒す。男鹿の腹の上に跨ったままそうするので、古市の身体は寝転がった男鹿の上に親子バッタのごとく乗り上げていることになる。ちょうど顔が同じ位置にきて、古市がちゅっと音を立てて鼻先にキスをする。そんなところにキスをされたのは初めてで、男鹿が目を真ん丸にしていると、古市は悪戯猫のように目を細めた。
「エアコンがんがん効かせた部屋でお前にくっついてるの、嫌いじゃねーよ?」
 暑い部屋はヤだけどな、と笑う古市の鼻先にキスをして、俺もだ、と男鹿も笑う。
 頬と、額と、目と耳とこめかみと顎ともちろん甘い唇と。
 思いつくところ、目につくところすべてにキスをして、エアコンの涼しい風が割り込む隙間もないくらい、男鹿はぎゅうぎゅうと古市を抱きしめた。




5月23日はキスの日だったんですってよ、と気付いたのは23日が終わる10分前だったので、頑張ってがすがす書いたけど結局間に合わなくて残念だったお話。
砂糖しこたま混ぜたフレンチトーストにアイスクリームのっけてメープルシロップぶっかけてシュガーパウダーぶちまけたくらい甘いむちゃくちゃべたべたしまくってるお話書くの好きです。
ただ後で読み返してこっぱずかしくなる羞恥プレイももれなくついてくるのが難点なんですけどね…ええ、恥ずかしいっ。