恋のかたち



 スーツのポケットの中で震えている携帯電話を取り出し、表示された名前に古市は思わず頬を緩める。目敏く隣席の同僚に見とがめられ、彼女、とからかわれる。終業時間は二時間も前に終わり、残業中ではあるけれど繁盛期の残業ではないのでみんなのんびりしたものだ。ほとんどが帰り支度を終えている。古市ももう席を立とうとしたところだ。
「すみません、お先です」
 鞄を手にそそくさと席を立つと、絶対彼女から電話だろ、と同僚にからかわれる。恋人の一人や二人いますよ、と嘯いて部屋を出て、IDをリーダーに通す。これで退勤手続きは終了だ。どこで誰が見ているか解らないので社屋内は足早に抜け出て、路地をひとつ曲がったところで手に握り続けていた携帯電話のフリップを開いた。とうに着信音は切れているが、折り返すとすぐに呼び出し音が止む。
「すみません、まだ会社にいたので」
 緩む頬をそのままに開口一番詫びると、別にいい、と素っ気ない声が返ってくる。耳に心地よく響く低い音は、疲れた身体をなぜだか癒してくれる。
『もう終わったのか?』
「はい、ジャバウォックさんはまだ仕事中ですか?」
『ああ。まだこちらは昼だからな。ランチタイムだ』
 シャンゼリゼで、と耳元で囁く声に、ぷっと古市は吹き出した。
「似合わないっすね」
『何が』
「シャンゼリゼとジャバウォックさんが。だってそんな強面でシャンゼリゼでランチですか? 何食べてんです?」
『今日はイタリアンだな。うまい店を見つけたからまた連れてきてやる』
「俺、パスポート持ってないんすよね」
『今度帰るまでに取っておけ。フランスだけじゃなくてイタリアにも連れて行ってやるぞ。ドイツか、チェコでもいいか、ビールがうまい』
「そりゃ魅力的なお誘いで……」
 歩きながら電話をしていた古市は、細い路地の向こう側から人がやってくるのに気付いて片側へ寄る。邪魔にならないようにと気を使ったのに、向こうからやってくる人はわざわざ古市の前で足を止める。なんだよ、と思わず身構え眉を寄せた古市は、大通りからの明かりを背に立っているのが男鹿であることに気付くと、ふと肩の力を抜いた。
 そして電話の向こうで途切れた古市の返事を待っているジャバウォックへ話しかける。
「でも俺がパスポート取ると、不機嫌になる奴がいるんすよね」
『男鹿か』
 ジャバ公かよ、と男鹿が苦虫を噛み潰したような顔をする。ゆっくりと近付く男鹿の両手が伸ばされ、電話ごと包むように抱きしめられる。
『あいつもいい加減に貴之離れできないのか』
「テメーこそいつまでも古市古市って電話してきてんじゃねーよ。諦めろ」
 がうッと噛みつく勢いの声に、電話の向こうでは一瞬息を飲むような気配があったが、すぐにげらげらと豪快な笑い声があがる。シャンゼリゼのイタリアンレストランでそんな大声で笑うなんて、と古市はひそやかに眉を寄せたけれど、携帯電話の使用がマナー違反になるようなお高い店ではないか、場所を移してどこかのオープンカフェでコーヒーでも飲んでいるのだろう。ジャバウォックはあれで意外とTPOに気を使う。
『男鹿辰巳、また貴之を迎えに来ているのか、ご苦労なことだな』
「うっせー。テメーも古市の帰り時間見計らって電話してきてんじゃねーよ! 今日は俺が古市といちゃこらするんだから邪魔すんな!」
 携帯電話に叫ばれると言うことは、古市の耳元で叫ばれるのと同じことだ。お前煩いよ、と男鹿の顔を押しやると、なんでジャバ公の味方ばっかするんだよっ、と情けない顔で唸られてしまった。
『どうせ俺は一月に一度日本に帰るか帰らないかだ。しかも日本滞在中に貴之に必ず会えるわけではないのだからな。電話くらい大目にみたらどうだ』
「やだ、お前の電話長ェんだよ」
 おら切れ、と首に噛みつく男鹿の頭を軽く叩き、古市ははるか遠いフランスの空の下にいるであろうジャバウォックに詫びる。
「すみません、邪魔が入って」
「邪魔ってなんだよ邪魔って! 俺はお前の恋人だぞっ!」
「はいはい、恋人ですよ。でもジャバウォックさんも恋人だぞ。そーゆー約束だろ、男鹿」
 幼馴染の男鹿と、仕事で知り合ったジャバウォックと、どちらからも好きだと言われ、どちらにも好意を抱き、だからどちらも選べないと詫びた古市に二人が提示したのは、有体に言えば二股の許容だ。男鹿と付き合い、ジャバウォックとも付き合う。そんな古市を二人は容認する。
 年齢の差か、経験の差か。ジャバウォックの方は男鹿を早い段階で受け入れ許容し、どこか男鹿が噛みついてくるのを楽しんでいる節すら見えると言うのに、男鹿の方はいつまでも子どもっぽく古市を独占しようとし、ジャバウォックへの敵対心を隠しもしない。
 がるるると唸る男鹿の背中を撫でて宥めていると、相変わらずだな、とジャバウォックが耳元で笑う。
『大きな子どもの世話は大変だな、貴之』
「ほんとですよ。でも、まぁ、そーゆーわけなんで、パスポートはまだ取れそうにないっすね」
『いっそ男鹿辰巳にもパスポートを取らせたらどうだ。一週間くらい休みをとって二人でこちらへ来ればいい。チケットを送るぞ』
 二人分、と付け加えるジャバウォックに古市は苦笑を馳せ、携帯電話の裏側に耳を押し当て会話を聞いていた男鹿は、そりゃいいな、とにんまり笑う。どうせタダで旅行できると喜んでいるのだ。
 にやけきった男鹿の頬をぺちぺち叩きながら、古市は電話の向こうで笑みを浮かべているであろうジャバウォックに声をかける。
「敵に塩送ってどーすんです。男鹿の分までチケット取ってくれるって、どんだけ気前いいんですか」
『惚れ直すだろう?』
 呆れた声を漏らしていたのに、そんなことを耳元で囁かれてしまえば、ぐぅと唸るしかない。大人の余裕とはこういうことか。
「……ええ…まぁ……そりゃ…………惚れ直しましたけど」
 なんとなく悔しい思いで呟く古市の言葉を聞くなり、ジャバウォックは嬉しそうにふっと息を漏らし、男鹿は絶望的な顔をして縋り付いてくる。
 俺より? 俺よりそいつのが好きなのかよ古市っ、と煩い男鹿に纏わりつかれながら、古市は熱くなった頬に手を当てる。
「それで、次はいつこっち戻ってくるんです?」
『そうだな、良くて年末だろうな』
「………年末って……今、十月の頭ですよ」
 あと三か月もある、と思わず呟くと、ああ、三か月もあるな、とジャバウォックは変わらない声音で告げる。
『これから忙しくなるから日本に帰る暇がない』
「そ…すか」
 ぼやんとした気持ちで頷き、目の前にあった肩に顔を伏せる。なんとなく寂しい気持ちで男鹿の背中にぎゅうと腕を回すと、男鹿が、やいこら、と古市の手から携帯電話を取り上げてしまう。
「ジャバ公、テメェなにふざけたことぶっこいてんだ! 来月古市の誕生日だぞ! テメェも古市の恋人だっつーんなら何が何でも帰ってきやがれ! あっ、やっぱ嘘! 帰ってくんな! 俺が古市といちゃこらするからお前絶対帰ってくんな!」
「男鹿!」
 何やってんだ、とべしんと頭を叩いた後で携帯電話を取り戻し、すみません気にしないでください全然平気ですっ、と立て板に水がごとく叫ぶ古市に、ジャバウォックが、すまんな、と笑いながら詫びてくれる。
『そうは言われても仕事を放って帰るわけにもいかないからな』
「そりゃもう充分解ってます。むしろ仕事ほっぽって帰ってこられた方がビビります。でも、あの、電話はください」
『解った。また電話する』
 それから別れの言葉を一言二言口にして、もうかけてくんな、と叫ぶ男鹿を押しのけながら電話を切る。携帯電話をスーツのポケットにしまうなり、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる男鹿に、頬に額に鼻先に唇にとキスの雨を降らされる。
 男鹿の目の前でジャバウォックと電話をしているとこれだから困る。
 男鹿の独占欲はいつも以上に強くなりもっと構え甘やかせと全身を使って強請ってくるけれど、それが嬉しいのも事実だ。ふるいち、と甘える男鹿の声に古市ははいはいと返事をし、待ちわびる男鹿の唇にキスをした。




ジャバ古、おがふる、どっちもおいしいんだ。