mother treeの原点


2つの世界観

 人は2つの世界をもっています。

ひとつは外的世界と言って、誰でも共通の認識をもって見ている世界です。

もうひとつは内的世界で、これはその人独自の世界です。

例えば、日本では冬が終って春になるとサクラが咲きます。

ということはみんなが知っている共通の認識であって外的世界の出来事です。

しかし、そのサクラを「キレイだな〜」と思うか、「悲しいな〜」と思うか、

あるいはなんとも思わないか、というのは人ぞれぞれであり内的世界の出来事です。


 外的世界で生きているときの生活は比較的潤滑であるはずです。

そのかわりちっとも面白くありません。

「今何時?」「11時45分」

11時45分は誰にとっても11時45分なのでそれで正解ですが,

要するに連絡みたいな会話でオモシロミはないですよね。

 一方、内的世界はオモシロイです。

内的世界が違うお陰で私たちは個性的であります。

同じ花を見てもそのとらえかたはひとりひとり微妙に違うはずです。

けれどもそうして微妙に違うお陰で内的世界について話すということは難しく、

またそれが誤解の元でなったりもし、トラブルの元になったりもします。


人は内的世界で繋がりたいでも・・・

ところが厄介なことに

人間というのは内的世界で誰かと繋がっていたいと願う生き物でもあると思うのです。

恋人と家族と友達と

同じものを食べて「美味しいね〜〜」と言って共感しあう幸福感

同じ映画を見て「良かったね〜〜」と言って微笑みあうシアワセ・・・

だれでも思い当たることがあるでしょう。

そういうものを欲しながら人は生きていると思いませんか?

ところが可能性としては「げ〜〜美味しくない」「つまんない」といわれることもあります。

内的世界を共感しようとする試みは両刃の剣というところでしょうか?


現代という時代も難しい・・・

 みなさんの親戚の中にはひとりくらい海外で生活をしている人がいませんか?

現代ほど人が移動する時代はそんなに無いんじゃないかしら?

私自身も引越し引越しするうちに子どもの頃の友達は今いったいどこにいるのかさっぱりわからなくなっています。

 ところが18歳はれた私の夫などは子どもの頃からの幼馴染がまだすぐ近所に住んでいて

そんなに話しをしなくても “気心の知れた” 付き合いが出来ています。

 「言わなくてもわかるだろう」

というのはコミニュケーションの下手なダメなダンナのセリフとしてよく登場しますが

一昔前は生活も今よりずっと単調で情報も少なく、

移動もしないので昔からよく知ってる人が身の回りにたくさんいて言葉にしなくても察しがついて

“言わなくてもわかる” というのは

その頃は本当にそれでよかったのかもしれないと思うのです。

 しかし今という時代はそうもゆかず選択の幅が広がって個性が許されるようになった分、

察することは難しくなってみんなちゃんと言葉にしないと分からなくなってきただけなのかもしれません。

 簡単に言ってしまえば、一昔前はそれしかないから

ただの夕涼みでも盆踊りでみんな盛り上がって一体感を味わえたのが

今は食べ物も音楽も映画もいろいろ選べ、好みをいえるようになった分、

たとえ家族といえども好みがあって、

初めの話しに戻りますがこっちが美味しいと思って食べていても

「美味しいね〜」という共感の言葉ではなく

「げ〜〜美味しくない、ぼくレトルトカレーの方が好き」とか言われてガッカリ・・・なんて・・

共感したり一体感を味わったりが、難しくなっている気がします。

豊かになった代償は孤独なのでしょうか?


内的世界を表現する

 相談に来られる方をみているとモンモンとした思いがあって(言うに言われぬ内的世界があって)

けれどもそれを上手く表現できない、言っても分かってもらえない、といったことでこの人は

まずは苦しいのであろうと思われることがあります。

 そういう時はその方の内的世界を言葉にするお手伝いをしながら整理していく

ということをしていきます。

 途中で「そう、そうなんです!」と言われる方や

泣き出される方やいろいろですが、

心の中を言葉に置き換えて私に伝えてくださった後は必ず

「スッキリした」あるいは「ラクになった」といわれます。

 時代がどんなに変わっても内的世界を共有しあいたい、

ココロの内を誰かに伝えたい、分かってもらいたい、そして一体感を味わいたい

そう願う人の気持ちは一緒だと思うのです。

昔のように盆踊りで盛り上がれない私たち

現代人は意図的にそれをしないといけないのかもしれません。

 
 私たちのようなセラピストのところに来られるのもひとつですが

 まずは日記を書いてみるというのも良いです。

 自分の気持ちを言葉に置き換える作業をするだけでも違うはずです。

 私のところでも日記をかくことはお勧めしています。

 言葉がどうしても苦手という方は絵でも良いと思います。

 絵を描いたら気持ちが落ち着いたという方もいらっしゃいます。

 絵を描いているうちに絵に言葉が添えられ、だんだん言葉になるということもあります。

 後は踊る、歌うというのも良いです。それに順ずるもので“叫ぶ”“歩く”“走る”というのもあります。

こちらから何も言わなくても、心の内にあるものを表現される前に

「なんだかこの頃妙に歌いたいんです」

とか言われる方もいらっしゃいます。

なんだか無意識的に準備運動をしてらっしゃるようで、人のココロの奥深さに感銘したりします。


 先にも述べたように内的世界の違いこそが誤解の元でありトラブルの原因であることも確かです。

こちらが良かれと思ってしたことを、違ったふうにとられて愕然とした経験なんてみんなもているはずです。

けれども人は内的世界の共感を・・

そしてそのための表現をあきらめてしまうことは出来ないのだと思います。