RAIN

9

 

     




まもなく日が明けるという頃、アキラは甘い気怠さが残った体で
そっとベッドを抜け出した。

ようやく眠りについた市川を起こしてしまうわけにはいかない。

昨夜市川はなかなか寝付けないようだった。
それはアキラもだったが・・・。

そのままシャワーへ向かおうとしたら、小さな声が呼び止めた。

「アキラくん?」

「すみません、起こしてしまいましたか?」

「ううん、それよりアキラくん眠てないんじゃないかと思って」

起き上がろうとした彼女を制すように額にキスをする。

「市川さんはまだ寝てて下さい。僕はシャワーを借ります」

静かにそう言ってバスルームに消えて行ったアキラの背を市川はベッドの中から見送った。



明日は進藤くんとの対局・・・。
アキラにプレッシャーがないわけじゃないはずだ。

ここの所のアキラは「心ここに非ず」と言うような節がよくあった。
ぼっとしてると言うよりも考え事をしてるという感じだ。

市川はそれを明日から始まる名人戦のプレッシャーだろうと思っているが、実際にはわからなかった。

アキラはそんな事は言わないし、見せたりもしないのだ。

ただそういう事を垣間見ているかもしれないという程度で、昨夜の行為だってそうだったのかもしれない。

私にぐらい弱音を吐いてくれてもいいのに・・。とも思うのだ。

そして・・・恋人になって1年もなろうと言うのに未だ『市川さん』
と苗字で呼ぶのもそのままだ。

市川はそんな事を考えてベッドの中で「クスっ」と笑った。
らしい・・・と言えばアキラくんらしい。


市川はやはりアキラとヒカルの中が羨ましいと思う。
初めてアキラが本音でぶつかった相手であり、ライバルであり、
そしてアキラがプレッシャーを抱く相手なのだから。

そんな相手と明日から対戦するのだ。
プレッシャーだけでなく今アキラは高揚しているのかもしれない。


市川は起き上がると脱ぎ散らかされた服を拾い集めた。
寝ててもいいと言われたがアキラは今日は移動日で
早朝には部屋を出るだろう。

服を羽織りながらアキラを送り出す時に何と声を掛けるべきか思案したが、いい台詞は思いつかなかった。

まあ、取り合えずは・・・

「美味しいコーヒーでも淹れようか」

なるたけ明るく声を上げ市川はカーテンを思いっきり
開けた。

うっすらと東の空が白み始めていた。






熱めのシャワーを浴びながらアキラは曇った鏡に映った姿に目を逸らした。


「僕は何をやってるのだろう」


緒方に事実を聞いてからアキラは気づけばそのことばかり考えていた。明日は進藤との対局が始まると言うのにだ。

いや、緒方に事実を聞いてからではない。
泥酔した進藤のあの言葉を聞いてしまってから自分はどうかしてる。

進藤が誰を好きだろうと構わないはずだ。
なのにその相手が自分だとわかった時、驚きと同時に『どうしようもない』嬉しさが湧き上がってきたのだ。
その感情は本当にどうしようもないものだった。

そしてその『どうしようもない』感情が、緒方と進藤の関係を許せないのだ。

「君が好きなのは僕なのだろう。なのになぜ緒方さんなんだ」

そう呟いて、アキラはシャワーの当たっていない左腕が冷えていることに気づく。
随分長くそうしていたのだろう。

アキラはシャワーの蛇口をしめ、頭からバスタオルを覆った。


市川への後ろめたさもある。
緒方に応えられるのか訊ねられ、『無理だ』と言い放ったのは建前なのかか本音なのか?

そのどちらも応えられないアキラはそもそも自分は恋愛そのものが出来ないのではないかと思ってしまう。

まして今そんな事に囚われていて明日からの進藤との対局
に臨めるのか!?

弱気になった自分を叱咤するようにバスタオルで強く頭を
擦った。




タオルを外すともう1度そこに鏡に映るアキラがいた。
もう鏡は曇ってはいなかった。

アキラは目を逸らさずその姿をしっかりと捉えた。
いつもの自分だ。

大丈夫、絶対に勝つ。
名人位は絶対に進藤には渡さない。



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