ひかる茜雲


                            20

       



     
その日佐為の帰りは思った以上に遅くヒカルは一人アキラの棋譜を抱え
眠れぬ夜を送った。

翌日からアキラは道場にこなくなった。

それから7日が経ち、ヒカルはぼんやりと子供たちが帰っていく後姿を見送った。
アキラはきっともう来ない。

でもひょっこりとそこの角からアキラが曲がってくるような気がして、
ヒカルは夕暮れに迷子のように取り残される。


今ならあの日言えなかった事を言う事が出来そうな気がする。
アキラに応えることは出来なくても。

ヒカルの体には緒方に残された楔の後がある。
始めは痛みしか感じなかった行為も少しずつ慣れ、快楽へと誘われる。
緒方はそんなヒカルの変化をまるで楽しんでいるようだった。
そんな行為に慣れていく自分が怖く、アキラを想うと心が痛くてどうしようもなく
辛くなる。

ヒカルはギュッと拳を握ると家路を行く人の波を追う。

「もう本当に会う事もないのかな」

この足があれば今ここを踏み出す勇気があればアキラに会う事も
できるだろうにヒカルには踏み出す勇気もない。

ヒカルのその背を佐為は声を掛けることもなく見つめていた。




翌日、ヒカルが帰った後、佐為はアキラの叔父の家に出向いた。

「アキラくん、よかった。まだここに居ましたか」

「はい、後数日はこちらで、
忙しくして道場に出向けず、申し訳ありませんでした。
発つ前に挨拶に行こうと思っていたのですが」

アキラは努めて普段通りであった。それが余計に佐為には悲しく想う。
ヒカルの様にアキラが感情を表立つ事はほとんどない。もっともヒカルには
そうではない・・と言う事も佐為は知っている。

「アキラくん、ヒカルに何も言わずに行くつもりですか?」

「彼には間もなく立つことは伝えています」

「それで本当に後悔しないのですか?」

「後悔・・・ですか」

「私はいつも後悔ばかりです。でも道理にかなわぬ事でも
私の意志は貫きたいと思うのです。例えそれがお上に逆らうことに
なっても自分の意志ならば悔いはありません」

アキラは佐為が何を自分に言おうとしているのかこの時わからなかった。

「何が二人にあったか私は聞きませんが、
私はアキラくんにもヒカルにも悔いては欲しくありません。
あの夜ヒカルは貴方の棋譜を抱いて泣いていました。きっとそれが真実です」

アキラは無言のまま目を伏せた。

「ヒカルは貴方を待っています」

「彼がそう言ったのですか?」

「いえ、ヒカルは何も。ですが、その背が、碁が
アキラくんを求めているのが私にはわかります」

アキラは息をのみ、そしてもう1度佐為を見た。

「それは貴方もです」

アキラは疼く胸の痛みを抑えた。
佐為に違うとは言い返せなかった。

佐為は優しく微笑んでいたが、寂しそうにも見えた。







その日はヒカルが緒方の屋敷に戻る予定の日だった。
けれど朝から雨が激しく降り、道場に来た子供たちは少なかった。

佐為は朝から出かけており、
昼過ぎには風も雨脚が激しくなり、その少ない子供たちも
両親や屋敷の者に伴われ、帰宅して行った。

佐為の留守を任されている側用人がヒカルに言った。

「ヒカル様は今日はこちらで泊まられては?この雨では緒方様の屋敷に
戻るのは無理でしょう」

「どうだろ?もう少し様子見るよ。夕刻には収まるかもしれないし」

一人になったヒカルは佐為の屋敷門まで出ると雨が来る遠い空を
見上げた。佐為の話ではアキラはまだ発っていないと言っていた。

こんな雨の中来るはずない・・・。
そう思いながらもヒカルはただ待ち続けた。

夕刻にもなりますます、激しさを増す雨が屋敷門まで入ってきてヒカルの髪に
肩に雨を落とした。

「ヒカル様、もう屋敷内にお戻りください」

佐為の側用人に呼ばれてヒカルは声を上げた。

「今日は諦めてここで泊まります」

そうは言ったものの諦め切れず、ヒカルはもう1度雨の中を振り返った。

この雨の中屋敷を目指す者が一人いた。
それがアキラだとわかった瞬間、ヒカルは胸が止まるかと思った。
ヒカルはただ待っている事など出来なくなった。

「アキラ!!」

雨の中アキラの元に直走る。
ずぶ濡れになり、足も泥だらけになり髪からも着物からもぼたぼたと
雨水が滴り落ちる。
傘をさしていたアキラも同じくらい濡れていた。

「ヒカル・・・・」

雨のせいかアキラの顔が泣いているようだった。

「オレ、お前の事好きだ」

アキラの顔が崩れる。

「僕も君が好きだ」

アキラの傘が転がった。
どちらが先だったかなんてわからない。
きつく、その腕に力を込めアキラを抱きしめた。
同じように抱きしめられた腕に、アキラと一つになった気がした。

抱き合った温もりが雨に奪われても、呼吸も心の臓も体のすべてがアキラを
感じていた。

『アキラが好きだ』



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