ひかる茜雲


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ヒカルが緒方の小姓になって5日目の晩、初めて夜勤の当番をすること
になった。

緒方の寝所に控えて、要望にすぐ応えられる様、待機する・・・と言う
のが夜のお勤めだとヒカルは聞いていた。
いざとなれば身をもって緒方を守ることをしなければならないが、
幸いにも今のご時世ではそんな危険はほとんどないと言っていい。

ヒカルが夜の勤めに出る前、先輩の小姓の筒井が棋譜の綴りと、
ひざ掛けを貸してくれた。

「退屈だし夜は冷えるから持って行くといいよ」

ヒカルはその二つを素直に受け取った。

「筒井さんありがとう、勤めは朝までだよな」

「うん、兎の刻まで。眠くなったら無理せず横になっても大丈夫だよ。
うたた寝しても緒方様は怒ったりしないから。
ただ朝まで寝ちゃうと重臣方からお小言を頂戴するけどね」

筒井は重臣に怒られたことがあるのかそう言って苦笑した。

今まで夜更かしなどしたことがないヒカルは初めての夜の勤めで緊張があった。
夜勤だけでなくヒカルにとってここでの生活は慣れない事ばかりで緊張の
連続であったが・・・。

ヒカルが緒方の元に行くとすでに夜の帳が下り寝所の準備がされていた。

「今夜はヒカルか?」

「はい」

緒方が城主であるという緊張感はまだまだ無くならないが、それでも少
しずつはヒカルも仕事をこなせるようになりつつあった。

「寝間に着替える」

着替えると言う緒方の羽織を肩から下ろし袴も預かった。
こういう一つ一つの動作も粗相があってはいけないと
ヒカルは緊張の連続だった。

「まだ緊張してるのか?」

ヒカルの指が微かに震えていることに気づいて緒方は苦笑した。

「あ、いえ」

どちらとも取れる返事に緒方は笑った。

「そうか、寝る前に一局所望したかったのだが、今日は少し疲れた。
対局は次の機会ににするか」

緒方の相手が出来なかったことにヒカルはほっとしたのか
残念だったのか、わからなかった。
緒方に勉強した成果を見てもらいたかった反面、まだまだ全然足りないことも
ヒカルにはわかっていたからだ。

緒方が寝所に入ったのを確認してヒカルは御簾を下ろし灯りを消した。




静かな夜だった。ロウの灯りだけで棋譜を追うには少し暗すぎる。
それでも松明の灯りを頼りに綴りを広げた。
今は春先だが廊下で控えるのは火があっても肌寒い。
筒井に借りたひざ掛けでヒカルは体をすっぽりと包んだ。

ヒカルは棋譜読みはあまり好きではなかった。
どうしても棋譜を見ていると別の手を試したくなってその先が
疎かになってしまうのだ。
だが筒井に借りた棋譜は違っていた。
白も黒もこれ以上手があるのだろうかと思うほど美しい石の運びと
激しい戦いだった。
時間が経つのも忘れさせる程ヒカルは夢中でその棋譜を追った。
そしてすっかりとその棋譜を覚えるとふっと長い溜息を吐いた。

どんな人が打ったものなのだろう?
オレもいつかこんな碁が打てるようになるのだろうか?
棋譜に示された名には白 藤原佐為 黒 塔矢行洋と書かれていた。
ヒカルはこの棋譜に想いを馳せながら夜空を見上げると雲の隙間から星
が瞬いていた。
それはまるで空の碁盤に石を並べたように遠く儚なかった。



ヒカルはいつの間にかうたた寝していた。
ヒカルの肩に温かいものが掛かる。
勤めの最中だったことを思い出してヒカルは飛び起きた。
振り返るとそこに緒方がいた。

「ご、ごめんなさい」

「いや、構わん」

筒井の話では緒方はうたた寝した程度ならば咎めないと言っていたが
それでもヒカルは慌てて体制を立て直そうとしたら足がすっかりしびれて
動くことができなかった。
立ち上がることも出来ないヒカルに緒方は呆れたようだった。

「なんだ、正座したまま寝たのか?」

ヒカルは顔を真っ赤にしてまた謝った。

「ごめんなさい」

「何度も謝らなくていい、それよりこんな所で寝てたら風邪を引く。部屋に入れ」

「部屋って?」

緒方が示した部屋にヒカルは滅相もないと首を振った。それは緒方の
寝所だったからだ。

「いえ、オレはここでいいです」

「オレのいう事が聞けないのか」

「いや、あの、でも・・・。」

ここでは緒方の命令は絶対だと教えられてる。それでも無茶をいう緒方に
進言できる者が必要なのだと芦原はヒカルに言っていた。
だが今のヒカルにそんな進言など出来るはずがなかった。

「オレは別にお前を困らせようと思って言ってるわけじゃないんだがな」

緒方は苦笑してヒカルのその手を引いた。
ヒカルのしびれた膝と足ががくがくと震えるのを見て緒方はヒカルの腰を
支えた。
ヒカルはまます申し訳ない気持ちになって顔を上げる事が出来ず俯いた。

「ヒカル」

緒方は埒があかぬとヒカルを抱きかかえた。

「あ、あのオレ歩けます」

「そんなに恐縮するな 怖がるな、緊張するな・・・と言っても、まあ今のお前
では無理なんだろうが・・・とりあえず黙ってろ」

緒方はにっと笑うと自分の寝所にヒカルを下ろし自身もその横に入った。
黙ってろと言われ、されるままになっていたがヒカルはあまりの事に
茹蛸状態だった。

「あの・・・。」

おずおずと声を掛けると緒方の大きな胸がヒカルを抱き寄せた。

「まだ緊張するか?」

こんな事をされたらますます緊張して心の臓がこれ以上ないほど高鳴っていた。
緒方の胸から聞こえる心音は規律よく脈打ってヒカルを抱きとめていると
いうのに。

「外で小姓が控えるのは戦国の世の名残だ。今は戦もない徳川のご時世だ
からな。
オレの身を狙う奴など誰もいない。ましてこの屋敷内は一番安全だと
言っていい。オレは皆を信じてるからな、だから心配せずここで寝たらいい」

そう言われてもヒカルは解せない気分だった。
他の小姓たちはきっと勤めを果たしてるはずだ。
そんなヒカルの戸惑いを緒方は感じたのだろう。

「ヒカル、さっきも言ったがオレはお前を困らせようと思ってるわけじゃ
ない。オレがそうしたいからしてるだけだ。
だからお前はオレの命に従え、まあどうしても嫌だと言うなら外で待機しても
構わんが」

そんな風に言われたらますますここから出ていく勇気はヒカルにはなかった。

「オレ寝相悪いし・・・・その蹴飛ばしてしまうかもしれません」

言い訳のように申し訳なく言うと緒方は声を上げて笑った。

「足蹴にしようが叩こうが別に構わん。お前を招きいれたのはオレだから
それぐらいは我慢するさ」

そう言うと緒方はヒカルの背に手を回した。そして親が子供ににするように
ぽんぽんと背を撫でた。

「ほら、安心してもう寝ろ。オレももう寝る」

寝息を立てて寝だした緒方は無防備で優しく、そして温かで
ヒカルも自然に睡魔が襲ってきた。

ここ数日親元を離れて、慣れない仕事の連続で夜寝ることがあまり出来
なかった。
緊張していたはずなのに、ヒカルは緒方の温かさに包まれると安心した。

緒方はどこまでもヒカルに優しかった。


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