恋愛のススメ

20









ヒカルは一端家には帰ったものの、横になる間はほとんどなく『ぼうっ』とした状態で再び出掛けた。

夕刻その駅で降り立つと、改札脇から『進藤くん』と聞き覚えのある声に呼び止められた。

振り返るとそこに塔矢先生と明子さんがいた。
いっきに目が覚めたような驚きで恐縮して慌てて頭を下げた。

「先生ご無沙汰してます」

「元気そうだね。君が対局した棋譜も良く見ているよ」

「あ、ありがとうございます」

こんな所で会うのはきっと二人で塔矢の新居に行っていたからなのだろう。
ひょっとしたら引っ越しの手伝いもあったかもしれない。

「日本にはいつ帰ってこられたんですか」

「3日ほど前か。アキラが1人暮らしをすると言うし」

「そうですか」

ヒカルはバクバクなる心臓を押さえたくなる。
視線を感じてそちらを見ると微笑む明子と視線が合った。

「貴方、進藤さんを今度門下の研究会に誘われては?」

先生はそれに頷いた。

「そうだな、進藤くん一度私の研究会に来なさい」

逆らえないような口調に背筋に冷たいものが走る。
だが今はっきり言わないと、後で困るのはヒカル自身だ。

「あの、先生すみません。オレは塔矢門下の研究会は・・・」

語尾は言わなかったが、深く深く頭を下げる事で謝罪するしか
なかった。

「進藤さん顔を上げてください。私の方こそごめんなさい。」

明子の優しい声に顔を上げたが、塔矢先生の顔は見る事が出来なかった。

「アキラと交際してると言うのは本当なのか?」

頭上から威圧感のある声に蹴落とされそうになる。
そんな事をあいつは言ったのか?
ヒカルは顔が熱くなるのを感じだ。

「はい」

消え入りそうな声に明子が『貴方』と先生を窘めた。

「『ヒカルさん』とお呼びしていいかしら?」

突然の明子の申し出にヒカルは頷いた。

「進藤さんなんて他人行儀だもの」

微笑みかけられヒカルは少し気持ちが軽くなった気がした。

「研究会でなく私の誘いは受けてくださるかしら」

明子ときちんと話をした事はなかったが、
ヒカルは反射的に『はい』と頷いた。

「一度遊びにいらして。お茶でもしましょう」

「先生のお宅にですか?」

「それも遠慮するかしら?」

「いえ、伺います」

「よかった」

明子はホっとしたのか胸を撫で下ろした。

「どうか気張らず、気軽にいらして欲しいから。と、いっても難しいかしら?」

明子はそう言って隣にいる先生を見上げた。
ヒカルが先生に緊張している事はわかっているらしく、ヒカルは苦笑するしかなかった。

次の列車が駅に入る放送に口実を見つけたようにヒカルは2人に頭を下げた。

「あのオレはこれで」

「アキラさんの事お願いします」

そんな事を言われるとますます恐縮して頭を下げた後、半場逃げるように改札を出ていた。








父と母の引っ越しの手伝いを受けたのはマンションを見てもらいたいという思いがあったからだ。

「アキラさんが1人暮らしをすると聞いた時はどうかと思ったけれど」

苦言は漏らしても、母も父も反対はしないだろうとアキラは思っていた。
外暮らしの長い両親にアキラがほぼ1人暮らしだった事もあ
るが、何よりアキラが一度決めた事を曲げない性格だと言う事も二人は知っていた。

「お父さん、お母さん、今日はありがとうございました」

そう言ってアキラは淹れたコーヒーを二人のソファに置いた。

「おかげで1日で片付きました」

「アキラさん、今日は疲れたでしょう。久しぶりに3人で外食でもしましょうか?」

母の申し出にアキラは困ったように頭を掻いた。

「ごめんさい。今日はこれから約束があって」

「あら、そうなの?」

アキラは一度は言葉を濁したが、思い直して口を切った。

「今交際してる方がいるのです」

「まあ」

明子は目を丸くしてソファから少し身を乗り出した。

「私たちが知ってるお嬢さん?」

「はい」

「ひょっとして最近門下の研究会に来られてると言う?」

アキラはやはりと内心溜息を吐く。
小林女流にはそんな気はないだろうが、誘っている緒方にはそういう意図が見て取れた。
それに最近は芦原さんまで乗ってこようとしてる。『塔矢門下にアキラと同世代の女流棋士はいないから・・・』と、冷やかしをしてくるぐらいだ。
父や母の耳にまで入ってるならはっきりと言っておかなければならなかった。

「いえ、進藤ヒカルプロです」

「進藤さん?」

明子は予想もしていなかったようだった。面識として今までに1、2度顔を合わせた事はあった程度だと思う。

ただ何かとアキラのライバルとして碁界で注目を浴びている為、当然知らないはずはなかった。
険しい顔をしたのは父の方だった。

「進藤君とは碁会所で意見が遭わずしょっちゅうぶつかってると聞いているが」

「それはお互いを認めているからです。彼女だから僕もぶつけられます」

「進藤くんも同じ気持ちなのか?」

「はい」

進藤からそんな事を聞いたことはなかったが、アキラには自信があった。

「お父さんも彼女と対局したことがあるからわかると思います。
彼女の打つ碁には魅かれる魅力と強さがあります」

「最近は私がネット碁で対局を申し込んでも応じないが」

二人の会話を聞いていた明子が苦笑した。

「アキラさんはまるで進藤さんの打つ碁に恋をしてるみたいね」

母の指摘の通りだった。初めて対局をした時の悔しさ
始めて同じ歳の女の子に負けたという屈辱とともに、あの美しいうち筋に心が震え、何度も何度も石を並べた。
中学の団体戦の対局は彼女の不甲斐なさに怒り、期待した自分の想いを捨てた。
だのに、追ってくるヒカルを待っていた。
振り返らないと強く誓ったのに、振り返ってしまった。

「きっかけはそうだったかもしれません。
でも今はそれだけではないです。
彼女は僕の人生にとってかけがえないパートナーになる人です」

「将来を考えているのだな」

「僕にはその用意があります」

「進藤くんもそう考えているのか?」

「彼女はまだそこまでは・・・」

「アキラの独りよがりな想いではないだろうな?」

「あなた・・・」

明子が窘めるように声を掛けた。

「アキラさんに交際する相手がいるだけで私はとても嬉しのに、それが進藤さんなんて素敵じゃないですか?」

「明子私は別に進藤くんとの事を反対をしてるわけじゃない」

明子が苦笑した。

「私にはそういう風に聞こえます・・・。でもそうね、アキラさんはまっすぐで一途だから
もう少し肩の荷を下ろさないと。進藤さんが疲れてしまうかも」

「僕もそれは感じていて。ただその、彼女とは今まで真剣勝負で向かい合って来たので、
恋愛となるとどうしていいかわからないこともあって」

「対局抜きで二人で出掛けたりはしてないの?」

対局抜きで二人で出掛けたのは、このマンションを見に行った時ぐらいしかない。

「ほとんどないです」

「忙しい二人だから難しいかもしれないけど、息抜きも必要でしょう。それともそんな事していたらトップ棋士にはなれないのかしら?」

明子が行洋を伺うように見る。
行洋は険しい表情をやれやれというように崩した。

「アキラ、進藤くんを一度うちに連れて来なさい」

それは難しいなとアキラは思ったが、そのうちにとはアキラも考えていたのだ。

「はい、僕も彼女も少し落ち着いたら、必ず」




→21話へ









碁部屋へ


ブログへ