恋愛のススメ

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電車に乗る前に塔矢から、

【駅まで迎えに行こうか】とメールがあったが、それは断った。
それぐらい1人で行ける。
ペア碁の相手が伊角に決まったこともあり、ヒカルは
気分良かった。


ヒカルは塔矢邸の手前で足を止めた。見覚えある車がバックで駐車場に入って行く。

緒方は塔矢門下生だから研究会に来るのは当然であったが
車の助手席には同乗者がいた。
ヒカルは車の正面で一端会釈し、通り過ぎようとしたら
軽くクラクションが鳴った。

止む無く足を止め、ヒカルが駐車場を見ると助手席から降りてきたのは小林女流だった。

緒方より先に車を降りた彼女はヒカルに向かって深く会釈した。
彼女も塔矢門下の研究会に来たのだろうか?

「ご無沙汰してます、進藤先生」

「オレの方こそ、久しぶりです」

「相変わらずですね。進藤先生も研究会に参加ですか?」

「えっと、まあそうです」

後から降りて来た緒方が意味深に笑った。

「オレが何度誘っても今まで来なかったくせに。アキラくんに、誘われたのか?」

「ああ、断っても断ってもホントひつこいんだよ。塔矢門下は」

緒方には嫌味の一言くらい言わないと気が済まず、げんなりと言ってやった。
緒方も小林先生も苦笑せざる得なかったらしい。

「小林先生はよく塔矢門下の研究会に来るんですか?」

「初めてす。今日ペア碁のペアが発表された時にたまたま緒方先生とお仕事ご一緒で、『塔矢先生とペアを組むなら今日の研究会に参加しないか?』と誘っていただいて」

ヒカルは『そういう事か』と頷いた。

「だから本当にたまたまなんです」

そう彼女に念を押され、ヒカルは彼女からも緒方との事を誤解されてるのではないかと 思わず焦る。

「あの小林先生オレは・・・」

「まあこんな所で立ち話もなんだろう。中に入ってからにしたらどうだ」

緒方はタバコを吸いたいのか少しイライラしていた。彼女が一緒だったから車内では我慢していたのだろう。
3人が玄関に入ると塔矢がすぐに出迎えた。


「塔矢先生今日は突然の参加を快く向かえて下さってありがとうございます」

「いえ、こちらこそ、どうぞ」

「失礼します」

小林の挨拶も、靴を脱いで上がるという何気ない仕草すらヒカルは思わず見惚れた。
彼女も親がプロ棋士で子供のころからきちんと躾けられてきたのだろう。

そういう当たり前の事が、ヒカルには難しい事もある。
古く名門の塔矢門下はヒカルには敷居が少し高く、そういうのも含めヒカルはすでに気後れしていた。

「進藤、君も・・・」

「あ、うん、オレも失礼します」

言葉は少なからず選んだつもりだったが、たどたどしく後ろで見ていた緒方が声を上げて小さく笑った。
そのまま上がろうとしたが視線を感じ振り返った。

「そういえば進藤のペアはあの背の高い方らしいな」

緒方は名前を憶えているだろうにそういう言い方をした。

「伊角先生だよ。知ってるだろ?」

今若手の伸び株として伊角は注目されてる。緒方が名を知らないはずなかった。

「世界大会は狙えるのか?」

緒方が何を言いたいのかわからなかったが、伊角を下視しているなら許せなかった。

「先生、伊角さんと対局した事あるのか?」

「1度あったかどうか?」

「何年前?」

「2年前ぐらいか」

ヒカルはしっかりと緒方を見据えた。

「牡丹餅を引いたのはオレの方だ。伊角さんと対局すればわかるさ。痛い目みるのは先生だと思うぜ」

ヒカルは憤りを隠せず、イラつくまま靴を脱ぎ、家に上がる。小林女流が話には加わらず少し先で待ってくれており、ヒカルは流石だと思う。


その後、玄関外に出た緒方と塔矢は、しばらく戻ってこなかった。





3時間に及んだ研究会もお開きとなった。

研究会の最中は言いたい意見を言い、対局し、煩わしい事はあまり感じなかったのはヒカルが棋士たる所以だろう。

ヒカルは立ち上がり、小さく背伸びしると、塔矢が【進藤少し】と
耳打ちした。
疲れはあったが確かにこのまま帰るのは 消化不良な感じはあった。
塔矢とは対局もしていなかった。



塔矢と門下生、小林女流を見送りヒカルはやれやれとようやく息を吐いた。
2人になって部屋に戻り『そうだ』と思いだし塔矢に言った。


「あのさ、お土産ありがとうな」

「よく似合ってる」

ヒカルは返事に困る、
塔矢の視線が胸元に移り、無意識近く胸元を押さえると『ありがとう』と呟いた。

塔矢からのお土産は小さいながらもサファイアのペンダントだった。
サファイアがヒカルの誕生石だと知ったのはプレゼントされた
後で知っていて塔矢は選んだのだろう。

こういうものは殆ど身に着けた事がヒカルはなく
今日だってどうしようかと何度も思ったのだ。
けど派手なものじゃなかったことと
貰った塔矢への気持ちもあって、身に着けてみたのだ。

「高価なもんじゃねえって言ってけど高かったん
じゃないのか?」

「いや、現地で購入したから、市場よりも随分安かったんだ。
高価なものだと君が困るだろう」

「だったらいいけど」

塔矢がそういうならそうなのだろうとヒカルは納得する。
お互いの距離感がどうも定まらないのは、二人になると意識してしまうからだろうか。対局ならなんの問題もないのだが。

一息付くと今度はアキラが話題を振った。

「今日の研究会はどうだった?」

「やっぱお前んとこの研究会は苦手かも」

「馴染んでたように見えたけど」

「オレ堅苦しいのは苦手なんだよ。それに緒方先生も・・・。」

語尾を誤魔化しても塔矢にはわかるだろう。

「その点は僕がもっと気を付けておくべきだった」

「お前が気を付けてどうにかなるもんじゃないだろ?」

ヒカルが奥に回り碁盤に向かって腰を下ろすとアキラも向いに腰を下ろした。

「先生はああいう性格だし、オレもいちいち気にしねえようにって思ってるけど。今日のはカチンときちまって」

「あれは君だけでなく僕にも挑発したんだ。冷静でいられなかったのは君だけじゃない」

「そうなのか?」

ヒカルは緒方の何が塔矢を怒らせたのかわからなかった。
唐突に碁盤を超えたアキラの手がヒカルの手首をつかむ。

「え?」

碁盤を超えて塔矢がヒカルを抱き寄せる。

「突然なんだよ。つうか対局するんじゃねえのか」

口調は喧嘩越しだったのは恥かしさが先に立ったからだ。
しかも本当に唐突すぎだ。

「少しでいい」

そう言った塔矢の声は掠れていた。緒方と何があったかヒカルには知る由もないが
『何かあった事』だけはわかった。
ヒカルはやれやれと溜息を吐いた。

「もう、ちょっと待てって」

お互い中腰になって体勢が悪いのは、間にある碁盤のせいでヒカルはアキラの手を解き碁盤を指差した。

「今は邪魔だろ?」

ヒカルを抱きしめていたアキラの手が緩む。ヒカルが碁盤を持ち上げると塔矢も一緒に持ち上げ隣にずらした。碁盤分の距離が消え、照れ臭さにヒカルは苦笑した。

改めてアキラと面と向かうと本当にどうしていいかわからず恥ずかしかった。

一瞬の間の後、言葉も交わさないまま力いっぱいに抱きしめられる。
塔矢の体温を纏うと心臓がこれ以上ないほど走る。塔矢の臓の音もヒカルと同じくらい速かった。

ヒカルは『本当に少しだけだからな』とつぶやきその手を塔矢の背に回した。





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