恋愛のススメ

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謝恩パーティ当日、ヒカルは迷った末、自宅からあかりにプレゼントされたドレスを着て会場ホテルに向かった。

切り替えの胸元が目立つのでスカーフを巻いて隠し、ロングコートを羽織ればあまり気にならなくなった。
これで少しは落ち着いて、会食出来るだろう。

自宅から着て行ったのは持ち物が増えるのも、わざわざ控室で着替えるのも面倒だったからなのだが、
電車に乗る頃には判断ミスだったと後悔した。

履き慣れないハイヒールは混雑した電車に揺られるだけで疲れ、すでに足が痛かった。
これから3時間以上は立ちっぱなしというのにこれでは思いやられそうだった。



伊角から一言、『会場前にいる』というメールを貰ったのはホテルに入った頃だった。
クロークにコートを預け、会場前に行くとスーツに身を包んだ伊角が待っており目を丸くした。

「進藤がドレスなんて、珍しいな」

二人並んで会場に入り、ヒカルは力なく溜息を吐いた。

「幼馴染が今日のパーテイに着て行けってくれたんだけどさ、もう足が痛くて、痛くて」

ヒカルは右の足を少し上げ、痺れたつま先を少し外してみる。痺れは足全体に広がっており、あかりはよく
こんな物を普段から履けるものだと感心する。

「進藤は今年も女流クィーンだろ?それぐらいは着てていい
と思う。それに良く似合ってる」

伊角にそんな事を言われると照れ臭くなる。
エアコンも効いており、ヒカルは少し顔が赤くなるのを感じた。

「塔矢も嬉しいんじゃないか」

「何でそこに塔矢が出てくるかな」

あかりも伊角も和谷も『塔矢、塔矢』で、ちょっとうんざりだ。

「それで塔矢は今日は少し遅れるって?」

「ああ、出張を早めて帰ってくるってさ」

『来なくていいのに』・・と口ごもると伊角が苦笑した。
照れ隠しだという事はわかっているのだろう。

「和谷も遅れるって連絡があって、進藤の事頼むって言われたんだ」

「オレを頼むって?」

どういう事かわからず首をかしげると、伊角に『進藤のエスコートを』と冗談ぽく返されヒカルは笑った。

「そんなガラじゃないだろ?オレは」

「たまにはいいじゃないか。オレの役目は塔矢が来るまでだ
から」

そう言われるとヒカルも満更じゃない気がした。相手が伊角なら
殊更かもしれない。




時間になりパーティが始まる。初めはお偉いさんの挨拶から始まり、スポンサー各位の紹介、今年の賞金王 最多勝などの紹介を終え、立食へと移る。
このころにはまだ塔矢も和谷も来ていなかった。

料理を摘まんでいた伊角がヒカルに声を掛けた。

「少し席を外すが進藤大丈夫か?」

九星会の成澤先生と女流の桜野が会場に入って来たのはヒカルも知っていた。

「伊角さんオレの事は気にしなくていいって。オレも挨拶しなきゃならない人が色々いるし」

「そんなに時間取らせないから」

伊角を見送りふっと溜息を吐いた。
伊角は今日は普段以上にヒカルに気を遣ってくれた。
ヒカルに声を掛けて来る人がいる時は、料理やドリンクも取りに行き何気なく席を外した。

伊角の優しさは、身に染みるほど知っていたし、同時に胸の奥が痛くも温かくもなることもある。

ウエイターからノンアルコールのカクテルを貰い壁際に移る。
その間に何人かとすれ違い声を掛けられる。愛想笑いを浮かべたものの足の痛みはピークで壁際にもたれる。
これでも伊角と居た時は痛みも紛れていたのだ。

「進藤?」

先ほどからちらちらと会場内で姿は見ていたのだが、緒方がヒカルに近づき声を掛けたのは今日初めてだった。恐らく1人になったのを見計らったのだろう。

「似合ってるじゃないか」

長身の緒方に見下ろされ眺められるとヒカルは顔をしかめた。

「それどころじゃないって、もう足パンパン」

「ヒールを履いた事ないのか?」

「初めて」

「少し休憩するか?しばらくは会食時間だろう」

「そうだけど、座るところもないし」

角にテーブル席が何席か用意されていたが、それらは高齢の棋士やお偉方が座っておりヒカルは遠慮したかった。

「オレの部屋に行くか?」

「緒方先生今日ここで泊まるのか?」

「ああ、車で来て酒を飲んでいるからな」

「はは、今日はただでいい酒飲めるって?」

「いい女もいるだろ?」

相変わらずの緒方にヒカルは苦笑するしかなかった。
ヒカルは少なくとも緒方の部屋に行くのだけは辞めようと思う。
またあらぬ誤解を招きそうだった。
ヒカルは苦笑しながらカクテルを飲み干した。

「貰って来てよろう」

「えっ?いいよ、自分で行くし」

「足が痛いのだろう」

緒方が空いたグラスをヒカルから取り上げる。
丁度その時ウエイターが緒方の前を通りかかり、緒方が呼び止めた。
緒方は開いたグラスを渡すと、ワゴンからグラスを二つ受け取った。

「進藤ほら、」

緒方に差し出され、ヒカルは困ったように頭を掻いた。

「これ、アルコールだよな?」

「20歳はとうに超えたろう?」

「21歳だって、オレアルコール弱えから」

「シャンパングラス1杯ぐらいなら大丈夫だ。上手いから飲んでみろ」

渋々受け取ったヒカルは『確かに』と思う。シャンパングラスは本当に小さくて
「これぐらいなら」大丈夫かと思う。
前に失敗したのはビールで中ジョッキだったし、最初の1杯はほろ酔い程度だった。

「だったら一杯だけ」

口の中に含むと芳醇な香りが広がる。

「上手いな」

「だろ?知らないと損をすることもある」

そのまま飲み干すと、全身に行きわたって行くような気がした。

「所で、進藤オレにおいおい話しがあるとか言ってなかったか?」

「そんな事言ったっけ?」

「忘れたのか?」

ぎろっと睨まれヒカルは以前の棋院でのやり取りを思い出した。
ほんのり顔が熱くなったのがわかる。

「まあ、そうだな。言っておいた方がいいよな?」

ヒカルが1人ごちている間に緒方は空になったヒカルの手からグラスを取ると自分のグラスを渡した。

「もうオレ飲まないし・・・」

そう言いながらも飲み干したのは、そういう勢いが欲しかったからかもしれない。

「オレ、今付き合ってるやつがいるんだ」

「お前に男がいたとは知らなかったな」

「変な言い方すんなよ」

「ここに居るプロ棋士なのか?」

笑いながらもヒカルは頷いた。もっともまだここに塔矢はいなかったが。

「ま、だから察してくれよ、あんまり緒方先生と親しくすると
さ・・・」

「なんだ妬くのか?だったら大したやつじゃないな」

「あんまし認めたくないけど、結構大した奴だと思ってるぜ」

『ほう』と相槌を返した緒方は相変わらず飄々としていて何を考えているのかわからなかったが、ヒカルは取りあえずは伝えられたと思う。

ヒカルは突然ぐわんと頭が鳴ったような気がした。

「どうかしたのか?」

緒方に顔を覗きこまれ、『いや』っと咄嗟に顔を振る。
『ぐらり』と体が揺れたような気がして、ヒカルは緒方に無意識に持っていたグラスを押し付けた。

「ごめん。オレちょっと会場出る」

「オレも出よう」

「先生も?」

「オレはタバコを吸いに行くだけだ」

そう言われてしまえば言い返す言葉もなく、ヒカルは覚束ない足取りで何とか会場を出た。
会場を抜けると風が通り、少しほっとした。

「進藤大丈夫か?」

「ああうん、平気だって、ちょっとトイレ行くだけだから」

ヒカルは緒方を振り払い何とか気丈に振る舞ってトイレに駆け込んだ。
気分は最悪だった。







アキラが会場の最寄駅を降りたのはパーティ開始時刻から30分以上が経っていた。
改札を抜けたところで『塔矢』と声が掛かり振り返るとそこに和谷がいた。

「和谷先生?」

「お前もパーティ会場に行くところか?」

「ええ」

「ちょっといいか?」

和谷もこれから同じ所に行くのだろうにわざわざ呼び止めて、時間を取らせるのは何かあるのだろうと、アキラは察して頷いた。

会場のホテルにほど近いコンビニ前を和谷が示し、そこに二人並ぶ。

「悪いな。急いでたのに」

「それは和谷くんもでしょう?」

「塔矢と二人で話せる機会って滅多ないからな」

アキラが和谷と会話するのは仕事ぐらいしかない。
お互い進藤とは接点があるが、気が合わない事も知っていた。

「進藤と付き合ってるんだってな」

「ええ、まあ、」

付き合い始めたと言っても、以前と何が変わっただろうかというぐらいのものだった。
それでも進藤が意識して、『付き合ってる』と言ったのなら少しは進展があったのかもしれないと思う

「よくあいつが付き合うって決心したよなって思ってさ」

「それはどういう意味合いで?」

「こんな話お前にするのもどうかって思うけど、進藤は好きなやつがいたんだ」

ズキリと言葉がナイフのように心に突き刺さった気がした。
けれど和谷の話の続きは聞かなければならなかった。

「あいつ、不戦敗が続いた時があっただろう。あれから立ち直った時にこれからは同じ土俵にあがるライバルだからって 諦めちまったんだ」

アキラが瞬時に理解したのは、進藤が好きだった相手はプロ棋士だという事だ。

「だからオレはあいつはもし恋愛しても、『プロ棋士とはしないだろう』と思ってたんだ。けど、お前は進藤にとってそれだけじゃないのかもな」

「何が言いたいんですか?」

「別に塔矢がどうのこうの言うわけじゃないんだ。
上手く言えねえけど同じ土俵でも、進藤にとって塔矢は特別な存在なんだろうなってな。 進藤とは院生の頃から付き合ってる同期だからそれはオレもわかるんだ。
はっきり言ってお前の事はあんまし気にいらねえけど、少なくとも緒方先生よりはずっと信用出来ると思ってる。進藤の事軽い気持ちじゃねえだろ?」

和谷の言葉の端でアキラは薄々感じた。和谷の進藤の事が好きだったのだろう。
ひょっとしたら今も好意を寄せているかもしれない。
けれど・・・。
進藤が好きだと言う相手がいた事も、同じ土俵に上がるライバルである為にも諦めたのだろう。和谷の意志を感じてアキラは頷いた。

「もちろんです。緒方さんに取られるような事は絶対にしません」

言い切ったが自信があったわけじゃない。ただ絶対にあの人に負けたくなかった。囲碁の事も彼女の事もだ。

和谷のポケットから携帯が鳴って和谷は『悪い』と断ってから取った。

「もしもし・・・」

携帯を握った和谷の顔色が変わる。

「それで、進藤が・・・・、うん、今塔矢と一緒なんだ・・・ああホテルは目の前・・・」

進藤と聞いてアキラは胸騒ぎを覚えた。

「わかった すぐ行く」

携帯を切った和谷にアキラが詰め寄る

「進藤に何かあったんですか?」

「体調が悪いらしい。トイレに入ったまま出てこないって」

「ええっ?」

「伊角さんの話では緒方先生に勧められて酒を飲んだみたいだって」

『あいつ酒弱いくせに』と和谷が怒りで声を震わす。
アキラはヒカルがアルコールに弱い事をこの時初めて知った。

「オレが塔矢をお前を足止めしちまったから」

「和谷くんのせいじゃないでしょう、とにかく・・・。」

先を急ごうとするアキラの背に和谷が声を上げた。

「酔い止めやドリンク買ってくるように言われたから、先に行っててくれ」

幸いにも目の前のコンビニにはありそうだった。

「ありがとうございます。僕は先に行きます」

アキラは足を速めながら緒方への怒りと不信感でいっぱいだった。




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