恋愛のススメ

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・・・追ってる時は、周りの音も時間もない。
ただ無我夢中であるだけだ。

2目半、後、少し・・、もう少し・・・。
追いつく、追い越す。
塔矢が大きく間違うはずがない。だったら1つずつ、その手を上回るだけだ。ここに来てミスは許されない。

ここしかないと思った急所に『そこまで』の待ったがかかる。
ヒカルは時計係を見た。




「時間切れです」

ヒカルは茫然となった。
時間切れを宣告した棋士は申し訳なさそうに頭を下げた。
3時間あった持ち時間を使い果たしていたのだ。秒読みすら耳に届かなかったのか?

『やってしまった』という思いは悔しさにかわり、ヒカルは大きくうな垂れた。
一番負けたくない相手に、しかも時間切れという結末を受け入れるのはそう簡単ではない。

悔しさで頭が上がらなくなる。
大人の、それもプロの対応として、最後まで気丈に振る舞うのは当たり前の事だ。
それがわかっていても出来なくなるほど、今日の負けはヒカルには重かった。

「進藤先生」

優しく声を掛けたのは『時間切れ』を宣告した時計係の
女流棋士で、ヒカルは重い顔をあげ、碁盤向こう塔矢を見た。
険しい表情の塔矢もこの勝ちには納得はしていないのかもしれなかった。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

僅かにその声は震えていた。




ヒカルは早々対局室を出て、控室に逃げ込んだ。
対局中は全く気にならなかったが、だるさと熱さが体を
纏わっていた。
生理中だったことを思いだし、トイレに駆け込み、薬を飲んで
ようやく一息を吐く。

そうして控室で塔矢との1局を1手目から検討しようとしたが
長時間に及ぶ対局で思考力は落ちており、しかも体のダルさは一度認めてしまうとどうにもならない程重かった。


ここに居ても仕方ないとエレベーター近くまで足を運び止めた。
そこに人の気配があったからだ。
今は誰とも顔を合わしたくなく、ヒカルは疲れた体に叱咤して防火扉を開け非常階段を下った。

流石に1階ロビーは避けて通るわけにいかず、視線を合わせないように早足でやり過ごす。
その時『進藤』と大きな声で背を呼び止める声があった。

顔を見なくてもそれは緒方の声で
一度は無視してそのまま行こうかと思ったが、流石に目上の
先生にそれは失礼だと思いとどまり振り返った。

緒方は歩みよると、タバコの匂いがするほど近くヒカルの顔を覗き込んだ。

「顔色が悪いな、大丈夫か?」

「えっ?ああ」

まさか一目で気付かれる程だったとは思わず、返事が曖昧になる。

「体調が悪いなら送って行ってやろう」

「いえ、いいです」

ヒカルは慌てた。もちろん体調は良くなかったが、それ以上に緒方に送られるなど気を使う。
まして先ほどの対局を緒方は観ていたであろうし・・・。

緒方は小さく溜息を吐いた。

「オレに取り繕わなくていい。とにかく、送ってやると言ってる
んだ。こういう時ぐらい甘えろ」

そういうと緒方は半ば強引にヒカルの肩を抱いた。突然すぎる緒方の行動にヒカルは顔が真っ赤になった。

「緒方先生?ちょ・・・」

「いいからそのまま歩け、」

肩を抱かれたまま、歩くと緒方がヒカルを庇ってくれていることが分かった。
誰かに見られたらという思いで茹蛸状態になりながら
駐車場まで来てヒカルはようやく声をあげた。

「いい加減この手離せよ」

「悪かったな、足早かったか」

「いや、そういうんじゃなくてさ」

緒方がわからずにやっていたとは思えなかった。

「対局中ずっと気が張ってたろ?モニター越しにもお前の気迫が伝わってきたからな」

やはり緒方は対局を見ていて、声を掛けてきたのだ。
唇を噛みヒカルは悔しくて言えなかった言葉を口にした。


「負けちまった」

「負けたのは時間にだろう?」

「気休めはいいよ」

「とにかく車に乗れ、送っていってやるから」

緒方に言われるまま助手席に乗り、上着の上からシートベルトを締めた。

「確か・・・葉瀬の方だったな?」

「うん」

横目でGPSに目的地を入力をする緒方を見ながらヒカルは聞いた。

「先生何でオレに声掛けたんだ」

「そうだな、お前の背中はオレに声を掛けるな・・と言ってた」

「それなのにか?」

「普段は隙がないのに隙だらけで、放っておけなかった」

ヒカルはそれに苦笑するしかなかった。言われてみればそうかもしれなかった。

「オレ今日、月のものでさ」

わざわざ緒方にそれを伝えたのは逆に心配されたくなかったからだ。
緒方の手が止まる。

「きついのか?」

「ああ、いつも痛みどめ飲んでる。けど病気ってわけじゃない
から」

「病気じゃなくても辛いなら同じだろう。オレが対局者でも送って行ってやる」

「先生は女なら誰でもそういう事やってんのか?」

緒方が女たらしと言うのは棋士の間でも有名な噂だった。
もっとも女流の棋士には手を出さないというのが流儀と言うのも
聞いたことがあったが。

「失礼だな」

「まあそうだな、オレは女って感じじゃねえしな」

緒方はそれに応えなかったが、スーツを脱ぎヒカルの膝に掛けた。

「皺になるぜ」

「いいから掛けとけ。冷やすと余計に辛くなるだろう?」

緒方がこういうのに手慣れしてる事に心の中で苦笑する。
でも悪い気はしない。

「先生オレ寝ててもいいか?」

「着くまで寝とけ」

「うん、ありがとう」


緒方は今日の対局の事など言わず、聞く事もしなかった。
今はただ無条件に受け止めてくれるだけで。
それはありがたく、嬉しかった。



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