新幹線の中で晃は窓におでこをくっつけるように外を見てる。
「お母さんトンネル!!」
真っ暗になった車窓に晃が声を上げる。
こういう所は子供ぽくヒカルは少し安心する。
考えてみれば、小学校になっていない晃は運賃も無料だし、今回慣れれば、また東京に連れて行く事も出来るかもしれな
かった。
「あんまし外ばっか見てると酔うぞ」
「平気、酔ったことないし」
外を見るのに飽きた晃が今度は鞄の中の本を引っ張り出す。
ヒカルが買った囲碁ドリルだ。晃は入院中もこのドリルを夢中に
やっていた。
もう1冊新しいのを買ってやらないといけない程、すでにドリルは
書き込まれてる。
もっとも入院するまでえんぴつを持ったことがなかった晃が書いたものなので、落書きかお団子が並んでるという程度なのだが。
そのお団子をまた増やし、晃が嬉しそうに次のページをめくる。
そんな様子をヒカルは苦笑しならが見守る。
この調子なら心配なさそうだった。
実は美津子が心配して『付いて行こうか?』と何度も言った
のだ。
ヒカルたちが住んでいた東京の家は一時期借家として人が住んでいたが、今はまた空家になっておりそれも美津子は気になる原因だったようだが。
けれど今回ばかりは、どうしても晃と二人で出掛けたくて母さんには遠慮してもらった。
一緒に見る景色、体験を少しでも晃と共有したかったのだ。
東京駅に着くとヒカルは晃に言った。
「祖父ちゃん宅に行く前に母さん会う約束してる人がいるんだ」
「誰?」
「和谷先生と伊角先生」
「先生?」
間もなく幼稚園に入る晃は先生というものを何となくは理解しているようだった。
「2人は母さんの友達で囲碁の先生なんだ」
そういうと晃が目を輝かせた。
「僕に囲碁を教えてくれるの?」
「晃を教えてくれるかはまだ頼んでいないけど・・・」
いいかけて以前感じた違和感を思いだしヒカルは気付いた。
晃がまた自分の事を「僕」と 言った事だ。
最初に言った時はたまたまかと思ったが、最近時々晃の口から耳にするようになって、一体どこで、覚えたのか、と気になってたのだ。
「晃自分の事時々『ぼく』って言うけど、理由とかあるのか?」
「えっ??」
思わず聞いたヒカルに晃は聞かれた意味もわからないような顔をした。
それはそうかと、ヒカルも思う。
3歳児が無意識に使う言葉に理由などわからなくて当然だった。
「う〜ん、わからないけど、なんとなく」
晃はそれでも応えてヒカルは『変なこと聞いて悪かった』と晃の手を握った。
待ち合わせをしていたファミリーレストランの前には、すでに伊角と和谷がいて、ヒカルと晃に気づき手を上げた。
晃もそれでわかったようだった。
それぞれ2人には電話で事情を話していた。
和谷はなんとなく察していたようだったが、それでも
「何でもっと早く言わなかったんだ。水臭え!!」と受話器越しに怒鳴られた。
伊角は電話向こうで泣いてる気がした。情に厚い伊角は涙もろい所もあったし、
ヒカルも思わずもらい泣きしてしまいそうになった。
「晃、こちらが伊角先生と和谷先生」
ヒカルが晃に説明すると、晃がやや緊張気味に頭を下げた。
「進藤晃です。あの先生僕囲碁を教えて欲しいんだけど・・・
その・・・」
しどろもどろになった晃に伊角が微笑み晃の顔の位置までしゃがんでくれた。
「もちろん、構わないよ」
「本当?」
「うん、お母さんとも相談しないといけないけどね」
晃と伊角が話をしてる間、和谷がヒカルに話し掛ける。
「伊角さんと相談してたんだけど、晃を棋院の教室に連れてこないか?」
その申し出は非常に嬉しかったが、棋院に子供の存在を隠してるヒカルには難しいかった。
「やっぱ無理か?」
和谷は晃を気にして小声でそう言った。
電話でも和谷には言われていたのだ。
『隠す必要なんてないじゃねえか?』と。『塔矢とは正式に婚約までしてたんだし公にしていいだろう』とも、
けれどヒカルは晃にすら本当の父親の話はしたことがないのだ。
ヒカルが考え込んでると和谷が『だったら、』と苦笑した。
「オレたちに晃を預けてみねえか?」
「預けるって?」
「任すってことさ。子供教室には体験教室や、遠くからくる子の為にチケット制もあるんだぜ?
東京にいる間、教室への送り迎えはオレがやってやるよ。もちろんお前の事や晃の出生は教室の子どもには言わねえよ」
「けどそこまで和谷や伊角さんに迷惑かけるわけ行かねえだろ」
「そんなの迷惑なんてオレたちが思うと思うか?」
ヒカルは言葉に窮す。
「水臭えって言っただろ!」
ヒカルは不覚にも目頭が熱くなった。
隣の晃は少し先で伊角とすっかり打ち解けていて、その姿がぼんやり映り目を抑えた。
「ありがとう和谷、伊角さん、晃の事頼む」
緒方は子供のころから通って来たこの家の敷居を跨ぐのが、今日ほど高いと感じた日はなかったかもしれない。
ふとその扉が開いて、今でもアキラ君が出てくるのではないかと錯覚してしまう。
そんな事を考えていると玄関が開いた。
もちろん出迎えたのは明子で、緒方はそんなわけないだろう、と心中で苦笑した。
「緒方先生、今日はどうされたのですか?」
「急ですみません、先生と明子さんの顔が見たくなって」
「いいえ、いつでもいらして下さっていいんですよ」
明子は世間体でなく緒方にそう言ったのだと思う。と言うのも
アキラを失くしてから塔矢先生は弟子を取らなくなったし、勉強会も開かなくなった。
フリーとして外への対局には行かれるが、人を集めて家で対局をするような事はされなくなった。
明子に座敷に通され、断って奥にある仏壇に手を合わせた。
丁度いい、アキラくんにも聞いて貰わないと困るのだ。
座敷で迎え入れた塔矢先生は以前と変わらないようでいて少しやつれたようにも見えた。
「先生、急ですみません」
緒方は明子の用意してくれた座布団に座り、深く頭を下げた。
「いや、いつ名人就任の挨拶に来るかと待ってたよ」
先生は冗談ぽく笑ってその場の雰囲気が少し和む。
「お茶でも入れてきますね」
席を外そうとした明子を緒方は引き留めた。
「いえ、明子さんにも聞いて欲しいお話しがあって今日は来たのです」
先生が明子に目を配り、明子が仕方なく腰を下ろす。
「それで、改まってどうしたのかね」
「進藤の事です」
明子の表情が僅かに変わる。
「ヒカルさんの事ですか?」
「はい、3年の休業を取って彼女は碁界に復帰しました。復帰してから好成績での
スタートを切りましたが、未だ仕事は制限を掛けてる」
緒方はそこで一端話を切った。
「ヒカルさんは復帰する前に挨拶に来て下さって、今もまだ迷いがあるけれど少しずつ進んでいきたい、と話していましたが」
明子の言葉に緒方が頷いた。
「確かにその通りでしょう。
でも考えてみれば進藤の休業には合点がいかない事があった。
アキラくんが亡くなった後も、2か月は棋戦も仕事にも出てい
たし。その時の成績だって決して悪くなかった。
ライバルであり、恋人を無くした彼女は、あの頃がむしゃらで必死だったようにオレには見えた。
なのにあの時期に勝ち上がっていた棋戦をほっぽって彼女が休業と言うのは、無責任ではなかったかと、」
そこまで腕を組んで緒方の話を聞いていた先生が緒方の顔を見た。
「進藤くんが休業に至る理由が他にあったと言うのかね?」
緒方はそれに静かに頷いた。
「彼女はアキラくんの亡くなった年の12月に男の子を出産しています」
明子の息を飲む声に緒方は彼女を見た。
「まさかその子はアキラさんの・・・。」
「アキラ君の子で間違いないでしょう」
「ヒカルさん・・・」
明子は涙が浮かべ口を押えた。
「緒方君はそのことを知っていたのか?」
「知ったのは今日です。それも最近不可解に思う事があって探偵社で調べてもらいました」
「そこまでして?」
「はい」
緒方はそこまで言って先生と明子の顔を見た。そうして、奥の仏間にも聞こえるように言った。
「オレは彼女を愛しています。到底受け入れてもらえるとは思っていませんが、いつか彼女が自分を許せるまで、失くしたライバルの代わりになるように今はただ見守っていたいのです」
「それを伝える為にここに?」
「本当はアキラくんに言いたい所なんですが」
緒方は苦笑して仏間に目をやった。
「緒方先生・・・その子の名はなんというのですか」
明子がハンカチで目を押さえながら緒方に聞いた。
「『晃』というそうです」
明子は耐えていた大粒の涙を堪えきれず流した。
「出生届を出す間際まで、アキラの名前はその漢字にするつもりだった」
当時を思い出したのか先生が僅かに顔を伏せる。
「カタカナにされた理由はあるのですか?」
「アキラと読める漢字は沢山あったが。その意味に縛られないものがいいだろうと」
「そうでしたか、探偵社の話を聞いた限りでは『晃』はアキラともヒカルともに呼び名になるそうです。
それで進藤が名づけたのではないかと」
「だが、進藤くんが私たちにその事を隠しているのに、接触するわけにはいかないだろう」
「オレも知ってしまったからと言って今までの彼女への想いや、態度を改める気はさらさらありません。ただオレは塔矢門下として、先生の弟子として知った限りは伝えて置こうと思った
だけです」
「わかった。ありがとう」
緒方が立ち上がり、明子も緒方の少し後を追った。
そして玄関先で明子が立ち止まり、緒方も自然と足を止めた。
「緒方先生、ヒカルさんには幸せになって欲しいのです。もしまだアキラさんへの罪の意識があるのなら、どうかお願いします」
腫らした目をますます腫らせ明子が頭を下げた。
以前アキラくんが婚約したとき、
進藤の事を娘が出来たようで嬉しいと話していた事を思いだし、緒方もまた頭を下げた。
「あの人は接触するわけにいかないと言ってましたが、私は会いに行こうと思ってます。
聞いたことも言いませんし、もちろんヒカルさんの気持を尊重してですが」
「わかりました。でも少し覚悟して行った方がいいかもしれないです」
緒方はそれ以上言わず、ただもう1度頭を深く下げた。
明子は緒方が見えなくなるまで玄関で見送った。
→13話へ