報告要旨 
私は1916年に生まれたが、日本は私の成長と符節を合わせるように中国侵略の道を一歩一歩進めていった。日本の軍国主義の空気を吸いながらも、私は普通の日本人同様無自覚で、侵略政策への批判意識は希薄であった。旧制中学を卒業して満鉄へ入社することで中国とのかかわりを持ち始めたが、無自覚さはあまり改まらないままであった。1944年に上海で現地召集され、長沙の駐屯地で農民刺殺の体験をしたことが贖罪意識を植え付け、日中友好を志すようになった。その気持ちを下の自作の詩に表現しました。

 僕はつらい日の丸掲揚・君が代斉唱      田端宣貞

日の丸・君が代を国旗・国歌にする法律が通った
僕はつらい つらい

君が代を聞くと僕の心は痛む
長沙郊外の丘の上で
軍刀をぷら下げ拳銃を手にした中尉殿が
僕ら初年兵に命じたのだ
”討伐”で捕らえて引っ立ててきた
年老いた農民を引き据え
これが銃剣術の稽古台だ
敵と思って真剣に突け!
胸に突き刺さる銃剣の切っ先
ほとばしる鮮血
突き刺さった銃剣にすがりつき
「先生(シーサン)先生」と叫んでいた
まだ死にきっていないのに
穴を掘って埋めた
虫の息になりながらも
かすかに「先生先生」とうめいていた
君が代に重なってあの農民の声が聞こえてくる

日の丸を見ると僕の胸は疼く
長沙の奥の駐屯地で
たびたび”討伐”に出た古兵殿が
誇らしげに語った
民家があると
押入れの中や大きな箱・かめの中などを捜す
もし姑娘(クーニヤン)が隠れていれば
引きずり出して強姦する
あくまで抵抗すれば
先を尖らした竹の棒を
股間に突き刺してやる!
姑娘の女陰を突き刺した切っ先が
そのとき僕の胸をも突き刺した
日の丸と重なってあの姑娘の姿が浮かんでくる

僕にはつらい日の丸掲揚・君が代斉唱
僕らに惨殺された中国農民の
僕らに凌辱された中国姑娘の
声が姿が僕をさいなんでいるのに
あの農民の子や孫の
あの姑娘の親兄弟の
悲しみや怒りや恨みや呪いが
僕をめがけて襲ってくるのに