日本の侵略の歴史は地域史にどのように書かれているか! −和歌山の場合−
2000.12.10  報告:キム チョンミ

文責:ホームページ管理者

1.はじめに

 「三国人」、「支那」や「北鮮」などの差別発言を繰り返す石原東京都知事を東京都民の約6割が支持している。また、最近ふと沸いてきたかの感がある「皇国史観」をはじめとする、歴史改竄団体が出現している。これらは、ごく最近出没したわけではなく、戦前・戦後を通じ今なお日本人の深層感情として根強く受け継がれた思想である。このことは、地域史に如実に反映されている。地域史の編集の多くは地域の「オピニオンリーダー」が必ず携わっている。しかし、その内容は「日本の侵略の歴史」を肯定することに終始し、未だに日本人自ら「侵略の歴史」を語るものとなっていない。日本の各地域から発せられた「侵略の歴史」を日本人の手で変えていく必要があるのではないか!

2.侵略のはじめは?
  アイヌモシリに対する侵略であるが・・
  和歌山の地域にも「屯田兵」としてアイヌモシリに開拓(侵略)行く。
  
3.侵略戦争に関する記述(報告レジュメより)
3.1.「朝日・清日戦争」

※「明治政府は、・・・・・・早くから朝鮮への進出の機会をねらっていたところ、その後、朝群での反日暴動などによって日本の朝鮮においての勢力は、政治的にも経済的にもしだいに後退してゆき、清国の進出と朝鮮「属邦」視を黙認していなければならなかった」(『吉備町誌』上、吉備町誌篇集委員会、吉備町、1980年、769頁)。

※「日清戦争は朝鮮半島における清国との勢力争いが原因であった。ことに日本は朝鮮半島に外国勢力が進出すると、日本の胴体に刀をつきつけられることになり、日本の自存自衛がおびやかされることになり、到底忍ぶことができない状勢であった」〈「美山村史』通史編上、美山村史編集委員会編、美山村、1995年、31頁)。

3.2.「日露戦争」

※「わが国の勝利はアジアの多くの国々に希望を与え、アジア植民地の独立への活力をもたらした.…日本人はもっとこの歴史的意義を理解しなけれはならないと思う」(「日清・日露戦争の意義」の項、『美山村史』通史編上、34頁)。

※「・・・・・・ロシアの極東南下政策と日本の大陸進出という二大帝国主義の衝突は、避けることのできない必然的帰結であった」(『串本町史』通史編、串本町史集委員会、串本町、1995年、466頁)、「日本海海戦の勝利によって、日本はようやく優位にたったが、国民が払った犠牲は大きかった」(同前、467頁)。

3.3 「アジア太平洋戦争」

※「・・・・・・戦えば必ず勝つというまで過信した軍隊が、あらゆる人的物的資源を結集し、国を挙げての犠牲にもかかわらず、ついに刀折れ矢尽き果てて惨敗を見るにいたった今次大戦」(「八 戦争と湯浅町」の項、『湯浅町誌』湯浅町誌編さん委員会、湯浅町役場、1967年、188〜189)。

※「(一九三六年?)七月には、"蘆溝橋事件"で日中関係はすこぶる悪化、ついに、いつ果てるともしれない日中戦争の泥沼に全国民は引きずりこまれてしまった」(『新宮市史』新宮市史編さん委員会、新宮市役所、1972年、629頁)。

※「(1937年)十月南京占領の勝報も、応召兵を基幹にした大部隊の活躍の賜物であった」(『有田市誌』有田市誌編集委員会、有田市、1974年、659頁)。

※「(一九三七年)七月七日、北京郊外の蘆溝橋で、日本軍と中国軍の衝突事件が起こり、日中戦争が始まった」〈341貢)、「・・・・・・拡大を重ねていった日中戦争は、中国の人びとの抵抗によって長期戦が予想されるに至った」(『和歌山県史』近現代二、和歌山県史編さん委員会、和歌山県、1993年、355頁)。

※「日中一五年戦争」について
「・・・・・・戦争は華北から華中に戦線を広げ、こうして泥沼のような日中戦争が始まった。
こうしてシヤンハイ、ナンキン、ハンカオなど重要な都市を占領したが、広い中国全土を占領することは不可能で、戦争は長びき、中国軍と中国民衆のはげしい抵抗にあった。・・・・・・中国は徹底的に抗戦し、中共軍と国民政府軍が合作して戦争はどこまでも続いた」(「第7章 戦争への道」の項、『美山村史』通史編上、126頁)。

※「満州事変がはじまってから一四年間、中国との全面戦争に突入してから八年間、史上空前の太平洋戦争に入ってから四年間、一五年に至る戦争で直接戦争によって失われた生命は三〇〇万人に達する」(「第六章 戦争と由良」の項、『由良町誌』通史編上、1995年、由良町誌編集委員会、由良町、1020頁)、「「根こそぎ動員」といわれる太平洋戦争末期の一九四五年八月(原文は、「元号」)の時点で七二○万人が動員された」(同前、1026頁)。

※「日中戦争に次ぐ太平洋戦争敗戦以来、今日まで両国をはじめ世界的な戦史研究でわが国が中国に資源と権益を求めて侵略行為に出たことは明らかにされている。これに対して、当時アジアで各国を支配していた米・英など列強に対する、植民地解放戦争であった、とする論もあるが、これで中国への侵略を合理化するにはとうてい無理がある」(『串本町史』通史編、823頁)。

「戦病死者」の場所、()内は、「戦病死」年
フィリピン各地、中国各地、台湾、ニューギニア、グァム、ソ連国境、バシー海峡、ボルネオ、満州国、沖縄、韓国(ママ)(1907年)、基隆(1995年)、清国(ママ)太平勾(ママ)〈1905年〉

4. 和歌山人編制軍隊について

徴兵令 1872年11月28日
※ 「(1872年)十一月二十八日の全国募兵の諮(みことのり)」(『串本町史』連史編、460頁)。
第4師団歩兵台37連隊→1894年、朝鮮へ
第4師団歩兵第8連隊→1895年、台湾へ
    「台湾住民の抵抗を鎮圧するため」「台中付近で抵抗する現地住民の鎮圧に出動して、各地を転戦」(『上富田町史』連史編、上 富田町史編さん委員会、上富田町、1998年、528頁)
第16師団歩兵第61連隊→「日露戦争」時、「満洲」へ
第4師団機関銃第4大隊→1932年3月、「第1次上海事変」
第4師団歩兵第80連隊第1大隊→1937年10月〜「太原攻略戦」、1939年6月〜「晋東作戦」。その後、ニューギニアヘ。
歩兵第53連隊第3大隊→1938年10月「武漢作戦」、1940年2月「銭塘江南岸作戦」、1941年9月、「第1次長沙作戦」第4師団歩兵第61連隊→1937年4月、「満洲」派遣部隊へ。1939年5月、「ノモンハン事件」、1940年7月、「支那」派遣第11軍に編制され「漢水作戦」1941年「豫南作戦」、「大洪山作戦」、「江北作戦」(「休む間もなく華中各地を転戦」550貢)。1942年2月、南方派遣第14軍に編制、フィリピンでの戦闘に参加。1943年、第25軍に編制され、スマトラヘ。1944年、第15軍に編制され、ビルマヘ(「インパール作戦」)。
歩兵第218連隊・独立歩兵第117大隊→1944年、「1号作戦(大陸打通作戦)」で「衡陽攻略戦」。「日中両軍が死力を尽くした大攻防戦の主役を、和歌山で編制された二つの部隊が演じたのである」(『和歌山県史』近現代二、569貢)。

5.移民について

「紀州村開拓団」(奉天省鉄嶺県、現遼寧省)
※「引き揚げ者の一人の話によると、八月十五日日本敗戦の報が伝わるや満州人や朝群人の態度はガラリと一変、死の恐柿にさらされたという。

いぜい現地人にやさしく接していた人々は厚遇されたが、そうでなかった人々は報復におののかねばならなかったのである」(『串本町史』通史編、717〜718頁)。
「太平溝開拓団」(牡丹江省寧安県、現黒竜江省)
「塔拉井高野開拓団」(吉林省敦化県)
「大青山栗楢川開拓団」(興安東省布特始始旗)
「五常日高郷開拓団」(浜江省五常県、現黒竜江省)
「北山郷開拓団」(北安省克東県、現黒竜江省)

※「これらの開拓団はいずれも多少の脱落者を出したが、村造りは順調に進み、将来に明るさを見出していた」(『和歌山県史』近現代二、529頁〉。

※「溝蒙開拓の名のもとに多くの日本人が入植し、また進出した日本企業や商社で働く人々にとって、満州は重要な労働力のはけ口でもあった.しかし、それは現地中国人の犠牲のもとになされた強権支配であったことはいうまでもない」(『串本町史』通史編、714〜715貢)。

6.地場産業について

※『新宮市史』新宮市史編さん委員会、新宮市役所、1972年
新宮の林業について
「台湾占領と同時に内地材の台湾移出が計画されたが、・・・・・・内地材を使用させたのは、総督府の植民地政策によるものである」(422〜423貢)

7.差別藷の使用

・「渡鮮」(『新宮市史』429頁)
・「北鮮開発」〈『美山村史』通史編上、1300貢)
・「中支」「南支」
・「中支」(『湯浅町誌』1052貢)
・「中支」(『由良町誌』通史編上、1052頁)
・「白崎鉱床」の項 「最盛期の従業者敷は二五○余名で・・・・・・朝鮮の労務者もいた」(同前、1265〜1267頁)
・「北支那」「中支那」(『有田市誌』659貢)
・「鮮童学級」(『御坊市史』第2巻、御坊市史編さん委員会、御坊市、1981年、607頁〉