由緒
以下は神社由緒からの抜粋です。かなり難解な文章も含まれていますがご容赦ください。
(1)栗林八幡神社の神事 (昭和六十三年調査)
[鎮座地] 和歌山市有本六五三
[御祭神] おうじんてんのう応神天皇(ほんだわけのみこと品陀和気命)
にんとくてんのう仁徳天皇(おおささぎのみこと大雀命)
じんぐうこうごう神功皇后(おきながたらしひめのみこと息長帯比売命)
[例祭日] 十月十五日
[由緒]
社伝の記すところによれば、当社の祭神はもと鎌倉の鶴岡八幡宮の神体であった。ところが、永享十一年(一四三九)、いわゆる永享の乱によって同社が焼失した際に、別当僧が同社の神体を持って紀州菟道村へ逃れてきた。そしてその際、彼らはこの神体を祀るために宇治の里・前島の地に社殿を建立した。これが当社の始まりであると云われている。
『紀伊続風土記』によれば、天正十三年(一五八五)秀吉の紀州攻めの際には、この菟道村一帯も戦禍を被ったが、当社のみは戦火を免れたと記されている。また、『続風土記』所引の寛文記には、寛永十二年(一六三五)徳川頼宣が和歌山城に入城した際、寛永十三年二月栗林の地に社殿を造営して遷宮し、同時に当社が和歌山城のうしとら艮(北東)の方角にあたることから鬼門厄除けの守護神としたと述べられている。
さらに、その後も社殿が再建されたようで、同二十年にも遷宮が行われたという記録も残っている(『南記徳川史』)。
当社は、幸いにも戦災を被ることもなく、青蓮院尊純親王の筆になる社額や中院大納言通村作の三十六歌仙の歌額を有した社殿も江戸時代の儘の姿で残されている。
なお当社には重要文化財の指定をうけている太刀(備州長船秀光作、至徳四年の銘あり)が社宝として残されており、現在は東京国立博物館に保管されている。
(2)由 緒
若宮八幡神社
和歌山県海草郡四箇郷村大字有本字出来島
村社 若宮八幡神社
一 祭神 應神天皇 仁徳天皇 神功皇后
一 由緒 社傳に云ふ當社祭る所の御神は則ち相州鎌倉鶴が岡八幡宮の御正体にして此地に遷座の由縁は後花園天皇の御宇永享十年(一四三八年)東國の管領上杉持氏謀反し翌十一年二月京都将軍義教兵を発して是を伐つここに於いて鎌倉中大に騒擾し社僧乱妨の難を恐れ御正体を負い奉りて當國に逃れ来り宇治の郷前島に社頭を営み斎き奉り別当旧名に随ひ鶴が岡山大道寺と号し其后寛永十三年(一六三六年)二月當地に遷座し奉る則旧藩祖徳川頼宣の祈願に依りて創立する所也
明治六年四月村社に列す
明治四十二年一月許可を受け同四十三年三月左記の神社を合祀す
日吉山王神社
元四箇郷村大字有本字南島鎮座村社
祭神 大山咋命
由緒 勧請年月不詳
明治六年四月村社
境内神社三社
本社境内御香神社へ合祀
一 社殿 桁行七尺五寸 梁行四尺
一 拝殿 桁行三間半 梁行二間
一 廰社 桁行六間 梁行二間
一 境内 六千七百二坪 官有地第一種
一 境内神社
神明神社
祭神 天照皇太神
蛭子神 菅原道真
由緒 寛永十三年(一六三六)勧請
明治三十二年十二月二十五日境内神社蛭子神社及天満神社の二社合祀
建物 桁行六尺 梁行三尺
御香神社
祭神 神功皇后
宇迦魂命 武内宿祢 倉稲魂命 大己貴命 應神天皇
由緒 徳川頼宣産土神に依て寛永十三年(一六三六年)勧請
明治三十二年十二月二十五日境内神社稲荷神社及高良神社の二社合祀
稲荷神社 元日吉神社境内社
祭神 倉稲魂命
由緒 不詳
八幡神社 同右
祭神 應神天皇
由緒 不詳
足守神社
祭神 大己貴神
由緒 不詳
建物 桁行一間半 梁行一間一尺
天照大神社
祭神 天照皇太神
由緒 勧請年月不詳
元大字有本字焼野鎮座無格社なりしを明治四十年八月六日許可を受け同月移転
一 崇敬者 四人
一 氏子 百二十五戸(元村社日吉神社氏子)
一 県庁迄距離 一里一町
以上
明治四十二年一月二十日
海草郡四箇郷村大字有本
村社 日吉神社
同 郡 同 村
村社 若宮八幡神社
明治四十一年十一月十日願日吉神社並びに境内神社若宮八幡神社境内神社へ合併の件許可す
但速に合併を決行し其旨届出へし
明治四十二年一月八日
和歌山県知事伊澤多喜男 印
風土記抜抄
一 山王権現社 本社一方一丈 末社二 稲荷、八幡
鳥居二基
村中にあり
一 若宮八幡宮
境内週三百八十五間 馬場 長百八十間余 巾十五間 禁殺生
本社 三間 2間半 拝所 廰 拝殿 御供所 神楽所 絵馬堂 御太刀蔵 瑞垣 鳥居二基 本地堂 薬師堂
末社六社 恵比須社 方一間 御香宮 一間半 一間一尺
天満宮三尺 四尺
高良明神社 方四尺 天照太神社八幡春日合祀 方五尺
稲荷社 熊野権現合祀 三尺 四尺五寸
小名栗林にあり縁起に云永享十一年(一四三九年)京都将軍義教公より鎌倉持氏退治の時三浦時高鎌倉を放火す此時鶴が岡八幡宮焼失す別当僧神体を負ふて播州赤穂に逃る嘉吉元年赤松の乱に畿内中国の兵播州を攻む別当僧又神体を負て乱を当國避けて菟道村地頭雑賀某の家に宿す寛文記に神体を負て鎌倉を出し僧道に死す其弟志を継ぎ神体を負て当國に来る、此時菟道村小名三つに分れ菟道、市場、四日市、と云ふ
市場は恵比須を氏神とし四日市は三部明神を氏神とす菟道に氏神なし主人依て氏神とせんことを請ひ社を建て神体を鎮座し又別当寺を建て鶴岡山大道寺を号す天正十三年菟道一村兵火の為焼亡し只社のみ存すとぞ寛文記に寛永十二年(一六三五)南龍公山本甫斎に当社の由来を尋ね給ひ社を今の地に造り神体を移して國城艮位の守護とす縁起に寛永三年(一六二六年)二月六日遷宮すとあり其後御再建ありて祠宇美麗を加へ同二十年六月七日遷宮あり神体は木像にて僧の負ひ来りし闡陀櫃の侭社内に蔵む別当僧年四十を過ぐれば一度拝見を許すと云ふ祭禮三月十五日八月十五日なり両度共に流鏑馬あり寛文年中祭料三石六斗を寄付せらる享保十五年御供料十石を寄付せらる
○ 末社恵比須寛文記にここは市場村の氏神なりしが本社と同じく此地に移すと云末社御香宮は南龍公伏見城にて誕生し給ひければ其地の産神なるを以て当地に勧請せらる
什物
備前秀光太刀享保六年公儀より御寄付
青蓮院尊純親王御筆額
太刀一振
五大尊像一幅
鶴ケ岡八幡宮画像一幅正保三年南龍公牧野兵庫に命じ鶴ケ岡の画像を拝見せしめて写さしめ当社に蔵む其神像は鶴岡の御神体当社に移れる後石清水の御神体を画きて神体とせし神像なり
金剛界大曼荼羅一幅
胎蔵界大曼荼羅一幅
一二天像一二幅以上八種寛永中寄付せらる
御幟八本
八幡宮縁起三巻以上浄円尊夫人より寄付せらる
別当 明王院鶴岡山大道寺
宮の側にあり眞言宗古義宝暦二年京都勧條寺末寺となる末寺六ケ寺あり若山金屋町円福院、嘉家作り千手院、田井村観音院、那賀郡粉河村福生寺、同郡重行村成福院、
和歌山県海草郡四ケ郷村大字有本字出来島
村社 若宮八幡神社
一 祭神 應神天皇
配祀 仁徳天皇 神功皇后
一 由緒 祭る御神は即ち相州鎌倉鶴ケ岡八幡宮の御正体にして此地に遷座の由縁は後花園天皇の御宇永享十年(一四三八年)東國の管領上
杉持氏謀反し翌十一年二月京都将軍義教兵を發して是を伐つに於て鎌倉中大に騒擾し別當僧乱妨の難を恐れ御正体を負奉り當國に
逃れ来り宇治の郷前島に社頭を営み斎き奉りて別當旧名に随ひ鶴ケ岡山大道寺と号し其后寛永十三年(一六三六年)六月六日當地に
遷座し奉る御正体は木像にして僧の負ひ来りし闡陀櫃の侭社内に蔵む祭礼三月十五日八月十五日なり則旧藩祖徳川頼宣の祈願に依
て創立する所也
明治六年四月村社に列す
一 社殿 本殿 拝殿 廳舎 神饌所 御手洗所 社務所
一 境内 六千七百二坪
一 氏子 百二十五戸
一 境内神社
神明神社
祭神 天照皇大神 蛭子神 菅原道真
由緒 寛永十三年(一六三六年)勧請
明治三十二年一二月二十五日境内神社蛭子神社及天満神社を合祀
社殿 本殿
御香宮神社
祭神 神功皇后 宇迦魂命 武内宿祢 倉稲魂命 大己貴命 應神天皇
由緒 徳川頼宣産土神に依て寛永十三年(一六三六年)勧請
明治三十二年一二月二十五日境内神社稲荷神社及高良神社の二社合祀
稲荷神社
祭神 倉稲魂命
由緒 不詳
八幡神社
祭神 應神天皇
由緒 不詳
足守神社
祭神 大己貴神
由緒 不詳
社殿 本殿
天照大神社
祭神 天照皇大神
由緒 勧請年月不詳
元大字有本字焼野鎮座無格社なりしを明治四十年八月六日許可を受け同月移転
社殿 本殿
日吉神社
祭神 大山咋命
由緒 勧請年月不詳
明治六年四月村社に列す
元村社大字有本字南島鎮座明治四十二年一月許可を受け同四十三年三月合祀
社殿 本殿
{神社図面(一)村社若美夜八幡神社境内地明細図書挿入}
◎ 由緒沿革
◎ 一 寛永十三年(一六三六年)旧國主徳川頼宣卿は鎌倉八幡宮御神躰を祭らんか為め、此地六千七百三十五坪を撰み神社の地となし當神社祭る所の御神は則ち相州鎌倉に鎮座鶴が岡八幡宮の御神躰にして此地に遷宮の由縁は人皇百有三代後花園天皇の御宇永享十年(一四三八年)東國の管領上杉持氏謀反の聞えあり翌十一年(一四三九年)二月京都将軍義教兵を発して之を伐つに於て鎌倉中大騒擾し社僧乱暴の難を恐れ御神躰を負ひ奉り當國に逃れ来りて宇治の郷前島に社頭を営み斎き奉り別當を旧名に随い鶴岡山大道寺明王院を号せり其後寛永十三年(一四四一年)今之地有本字に遷座し奉る旧國主徳川頼宣卿之祈願に依て創立し年々御供米拾石神馬料三石六斗及ひ春秋祭典の節銀五枚幣帛料として下賜る維新以後明王院を廃せられ神職を置き其後貳か年を経て御供米神馬料及幣帛料とも廃せられ維新後は信仰の有志者よりの社入金を以て年々の祭典及修繕費に之を充つ
{神社図面(二)「村社若宮八幡神社建物総図」挿入}
海草郡四箇郷村大字有本
村社若宮八幡神社 八幡造
社殿 此建坪三坪但総白木
{正面図}
桁行柱眞々 七尺五寸
梁行柱眞々 四尺
前拝出眞々 七尺五寸
高さ 壱丈貳尺
桁上端より礎迄
屋根 拾八坪五合
檜皮葺
天井 拭板
大床(三方高欄付)壱尺五寸
濱縁 壱尺五寸
組物(軒) 通常
{社殿側面図}
{社殿平面図}
拝殿(前拝所付)
桁行 三間半
梁行 二間
建坪 七坪
屋根 瓦葺
拝所
桁行 壱間半
梁行 壱間
建坪 壱坪半
屋根 瓦葺
{正面図}
{側面図}
{平面図}
廳舎
桁行 六間
梁行 二間
建坪 一二坪
屋根 瓦葺
{正面図}
{側面図}
{平面図}
社務所
桁行 五間
梁行 二間
建坪 十坪
屋根 瓦葺
{正面図}
{側面図}
{平面図}
境内末社
総白木
桁行 六尺
梁行 三尺
総板張
蛭子神社祭神(右) 蛭子神
神明神社祭神(正中) 天照皇大神
天満神社祭神(左) 菅原道真
{正面図}
{側面図}
{平面図}
右創立沿革は旧国主徳川頼宣卿は寛永十三年社殿を創建し爾来明治二十二年に至る迄の旧記無之を以て修繕の年度等明らかならす明治廿三年社殿大破に付取壊て同三十年八月之を改築す
一境内神社御香社、稲荷社、高良社、神明社、蛭子社、天満社以上六社、寛永一三年創立爾来改修の年度等 旧記無之に付明かならず明治三十二年十二月大破に付取壊ち御香神社、神明神社の二社を建築し御香神社には稲荷社、高良社を合祀し神明神社には蛭子社、天満社を合祀す
拝殿は正保二年の創立にして爾来修繕年度等は旧記無之に付明かならす
庁舎は正保二年の創立にして爾来修繕年度等旧記無之付明かならす明治七年之を取壊ち同廿三年八月建立す
御供所は寛文四年の創立にして爾来修繕年度等旧記無之に付明かならす明治十四年改築して社務所と称す
鳥居旧記無之に付創立年号及修繕年度等明らかならす
手水屋形前同断明かならす
制札寛文九年旧藩主之を建設す維新の際制札は縣社に止められ取片付明治三十年十月縣知事の認可を受け再ひ建設す
村社若宮八幡神社境内立木調書 明治三十二年十二月現在
一松 目通一尺廻りより一丈六尺廻り迄 八拾本
一同 同 一尺廻り以下 弐拾五本
一杉 同 一尺廻りより七尺廻り迄 三本
一同 同 一尺廻り以下 拾五本
一槇 同 一尺廻りより二尺廻り迄 弐拾弐本
一同 同 一尺廻り以下 拾五本
一樟 同 一尺廻りより四尺廻り迄 拾本
一山樟 同 一尺廻りより5尺廻り迄 五本
一オウドウ 同 三尺廻り 壱本
一雑木 同 一尺廻りより二尺廻り迄 廿五本
一同 同 一尺廻り以下 五拾本
一竹 同 六寸廻り以下 参萬余本
一障害松木 目通り壱丈四尺 明治三十九年五月二十四日認可の上伐採 壱本
図面調製御届
昨年七月訓令第三百十五号に基き當神社境内地並に建物図面等調製候付別紙差出候也
明治三十三年七月十日
海草郡四箇郷村大字有本
日吉神社社掌
神太麻熊楠 「日吉神社社掌之印」
同氏子総代
垂井慶次郎 印
黒田楠吉 印
有本直楠 印
村社日吉神社境内地明細図書
和歌山縣海草郡四箇郷村大字有本七十九番地
一境内貳百六拾弐坪 民有地第二種
{神社図面(三)村社日吉神社境内地明細図書挿入}
由緒沿革
一建久九年有本の人民大山咋神を祭らんか為め此地貳百六拾弐坪を撰み神社の地となし此に勧請奉斎す
{神社図面(四)「村社若宮八幡神社建物総図」挿入}
{海草郡四箇郷村有本 村社日吉神社正面図}
社殿 大社造 此建坪 貳坪五号 但柱朱塗他は白木或檜入彩色
桁行柱眞々 六尺五寸
梁行柱眞々 五尺五寸
前拝出柱眞々 六尺五寸
高さ 壱条弐尺五寸
桁上端より礎際迄
屋根 拾五坪七合
檜革葺
天井 拭板
大麻(三方高欄付)壱尺五寸
濱縁 壱尺五寸
組物 普通(軒)
{社殿側面図}
{社殿平面図}
{本殿拝所、正面図、側面図、平面図}
桁行 壱間
梁行 弐間
建間 弐坪
屋根 瓦葺
{第一鳥居(図面) 白木}
周囲 弐尺弐寸
眞々 七尺
高さ 壱丈壱尺
{第二鳥居(図面) 白木}
周囲 壱尺八寸
眞々 六寸
高さ 八尺
{足守神社(図面) 総白木造、正面図、側面図、平面図}
桁行 弐尺
梁行 弐尺五寸
総板張
祭神 大己貴命
少名彦命
境内神社
{八幡神社(図面) 総白木造、正面図、側面図、平面図}
祭神 應神天皇
桁行 弐尺
梁行 三尺
総板張
境内神社
{稲荷神社(図面) 総朱塗、正面図、側面図、平面図、手水屋形・井戸・正面図、側面図、制札}
祭神 宇迦之御魂命
桁行 三尺
梁行 三尺
総板張
右創立沿革は有本の人民建久九年社殿を創建し爾来修覆を加へたう年度等明治廿七年以前の事は審ならすおも雖も明治廿七年社殿(屋根)を改造せり
境内三社の創建年度並修覆を加へたる年度等不審
拝所並手水屋形等前々断不審
鳥居前々断不審ならすと雖も明治廿七年之を新建せり
制札明治三十二年海草訓令第五十八号に基き同年九月建設す
村社日吉神社境内立木調書 明治三十二年十二月現在
一 ヨノミ 目通一尺廻りより八尺廻り迄 九本
一 クノギ 同 二尺廻 弐本
一 杉 同 一尺廻りより二尺廻り迄 拾壱本
一 槇 同 一尺廻りより三尺廻り迄 四本
一 松 同 一尺廻りより二尺廻り迄 三本
一 椋 同 一尺廻りより八尺廻り迄 四本
一 雑木 同 一尺廻りより二尺廻り迄 拾壱本
一 同 同 一尺廻り以下 弐拾本
右
昭和十年八月二十三日提出控
和歌山縣和歌山市栗林出来嶋
村社 若宮八幡神社
祭祀
例祭 十月十五日
由緒 古来月見祭と稱し旧暦八月十五日なりしを明治四十二年より新暦十月十五日と改む
新嘗祭 旧暦十一月申の日 二申の時は初申、三申の時は中申の日、
由緒 社傳に云ふ平城天皇の御宇大同元年(紀元千四百六十六年)(一一八〇年前)傳教大師勅を奉して紀州直川の郷六十谷に南叡
山大同寺を建立と共に山王大神を比叡山より遷宮し南叡山守護神として此の地に奉斎せり則ち境内に竈を造り瓦申一竈を奉
納す時に十一月申の日なりき里人之れを山王権現安産守護の神霊代と尊崇するに至れり。
建久九年七月(紀元千八百五十八年)後鳥羽天皇熊野より還幸の御途次供奉者江州志賀の老翁霊夢に感し此の地に止り里人
に勧め社殿の御改築をせしむ、御遷宮十一月申の日なりき、即ち申日火炎と称し明治四十二年(紀元二千五百六十九年)新嘗
祭々典日を此の日と定む。
祈年祭 三月十五日
由緒 古来春祭を旧暦三月十五日なりしを明治四十二年四月十五日と改め祈年祭を三月十五日と定む。
私祭儀
霜焼除祈?祭
由緒 社傳に云ふ城下の北菟道の郷にうねみとてうら若き美女あり霜焼にて悩み年々手足顔面うみただれ苦しきこと見ぐるしき
こと自他共に堪えず而し此の女両親と共に信仰厚ければ朝夕参詣欠くことなく和け給へ愉し給へと祈願せり其の満願の日の
前夜夢見したるに御社の白州に光あり手其の石に触るれば忽ち愉へ足其の石に触るれば忽ち愉ゆ夢醒め早速参詣し神前に額
き白州の小石もて手足顔面を擦れば翌日至り拭ふが如く全愉せりと此の人祈願満願の日は暑中土用丑の日祭の日なりき、人
聞きて其の教の如くせるに皆其の霊験のあらたかなるに驚けりとぞ、又云ふ此の女其の御禮として一生四季土用丑の日に白州
の小石を御借りし次に来る丑の日に紀の川の小石を拾ひ添へて御禮詣するを常とし自が思もかなひたりと云ふ。
安産祈? 前項新嘗祭々典日由緒に掲げたる如く瓦申一竈奉納あり以来里人安産守護の神霊代と尊崇するに至り妊婦あらば必ず参詣
し神前の瓦猿御貸下を願ひ安産を祈願し持ち帰り産後賣店にて一個を買求め二個となし御禮詣するものなり。
和歌山市栗林鎮座
村社 若宮八幡神社
一、祭神 應神天皇 仁徳天皇 神功皇后
一、由緒 當社祭る所の御神は相州鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の御正体にして此の地に遷座の由縁は後花園天皇の御宇永享十年(一四三八年)東國
の管領持氏謀反し翌十一年二月京都将軍義教兵を発して是を伐つ為に於て鎌倉中大いに騒擾し社僧乱妨の難を恐れ御正体を負ひ
奉りて当國に逃れ来り宇治の郷前島に社頭を営み別当旧名に随ひ鶴ヶ岡大道寺と号し其の后寛永十三年(一六三六年)二月当地
に遷座し奉る則ち旧藩祖徳川頼宣の祈願に依て創立する所也
一、建物 本殿 拝殿 瑞垣 神饌所 廳舎 社務所
一、境内 六千七百二坪、馬場長百八十間巾十六間半
参道長六十間半
一、什物 イ、國寶 太刀 備前秀光
享保六年将軍吉宗寄進
ロ、三十六歌仙額 中院大納言通村筆
一、 石灯籠 一対公儀より寄進
一、 境内神社
日吉神社
一、祭神 大山咋命
一、由緒 申の日火焚祭の頃 社傳に云ふ平城天皇の御宇大同元年傳教大師勅を奉して紀州直川の郷六十谷に南叡山大同寺を建立と共に山
王大神を比叡山より遷宮し奉り守護神として此の地に奉斎せり則ち境内に竈を造り瓦猿一竈を奉納す時に十一月申の日なりき其
后里人安産の神として崇敬し瓦猿を神霊代と尊崇するに至れり建久九年七月後鳥羽天皇熊野より還幸の御途次供奉者江州志賀の
老翁霊夢に感じ此の地に留り里人に勧めて社殿の改築を奉仕り瓦猿一竈奉納御還宮十一月申の日なりき
一、建物 本殿 拝殿 瑞垣
一、 境内神社 神明神社 御香宮神社 稲荷神社
八幡神社 足守神社 天照大神社
和歌山県和歌山市有本栗林町
若宮八幡神社境内鎮座
足守神社
由 緒
一、祭神 大巳貴神
一、建立 後鳥羽天皇の御宇建久九年七月吉日
一、社傳 建久九年七月御鳥羽天皇熊野行幸の途次供奉者江州志賀の老翁霊夢に感じ紀州名草郡有本に日吉神社御造営と共に足守明神社を
建立し御行の健脚御無事を祈願せらる。
以来近郷近在に崇敬高まり参詣日に月に多きを加るに至り社殿壮麗にして旅する者足部疾病の者は草履、足袋、脚袢一足を奉納
し祈願するを常とす
明治五年同境内日吉神社は村社に列するや末社となり同四十二年若宮八幡神社に合祀するや社殿荒廃せる為縮小奉斎す
若宮八幡神社 (栗林八幡宮)
一、祭神 應神天皇 仁徳天皇 神功皇后
人皇十五代 紀元八百六十年
御在位 壱百拾年
元明天皇和銅元年(708年)豊前國宇佐に應神天皇を祀り八幡大神宮を奉称紀元千三百六十八年
清和天皇貞観元年(859年)山城國男山に御勧請石清水八幡宮と奉称紀元一千五百十九年
鎌倉鶴ヶ丘八幡宮 康平六年(1063年)(紀元一千七百二十三年)源頼義由比郷に石清水八幡宮を勧請す永保元年(1074年)
修覆小林郷に移す(紀元一千七百四十一年)
應神天皇、仲哀天皇九年十二月筑紫に生れ給ふ、御名誉田皇子、大鞆別命、胎中天皇と申上ぐ、仲哀天皇第四皇子、寶壽百三十にして崩御河内恵我藻伏崗陵
遷御其他事項 紀元 年 昭和一六年より遡る
一、鎌倉より播州赤穂に遷御 永享十一年 二〇九九 五〇一
(一四三九年)
一、赤穂より紀州菟道村に遷御 嘉吉元年 二一〇一 四九九
(一四四一年)
一、菟道村より栗林に遷宮 寛永十三年二月六日 二二九六 三十五
(一六三六年)
一、大造営正遷宮 寛永二十年六月七日 二三〇三 二九六
(一六四三年)
一、村社に列す 明治六年四月 二五三三 六八
(一八七三年)
一、社殿縮小改築正遷宮 明治三十年九月十一日二五五七 四四
(一八九七年)
一、古宮天照大神社合祀 明治四十年八月二十五日二五六八 三四
(一九〇七年)
一、日吉神社合祀 明治四十三年三月十四日二五七〇 三一
(一九一〇年)
一、神饌所建築竣成 大正十一年六月 二五八二 二九
(一九二二年)
一、石玉垣復旧竣成 大正十二年八月三十日 二五八三 二八
(一九二三年)
一、社殿屋根吹替竣工正遷宮 大正十四年十月十四日 二五八五 二六
(一九二五年)
一、拝殿改築竣成 同右 〃 〃
一、廳舎改築竣成 昭和十二年十月十四日 二五九七 三
(一九三七年)
一、日吉神社拝殿改築竣成 同右
(3)由緒余話
「紀州の文化財巡り」
若宮八幡宮が此の地に鎮座された由緒は、当神社の御社頭の由緒書でお分かりのことと存じますので、省きますが、何故徳川頼宣公が此の地に御遷座されたのかは、八幡信仰が宇佐八幡宮より始まり、八幡神が国城の護りとして、平安京に「石清水八幡宮」、鎌倉に「鶴岡八幡宮」が勧請された例に倣って紀州徳川家の居城和歌山城の艮(北東)が陰陽道云う「鬼門」にあたるために鬼門守護のために当地に勧請されたと風土記に記されております。
「鬼門」とは、陰陽道に云う「鬼の出入りする方角」とされ、忌み畏れられた方位であり、各御家庭でも「鬼門」に関わる言い伝えは多く見られますので、当社でも「災厄よけ」の御祈?が行われております。
若宮八幡宮の菩提樹
和歌山市有本栗林 若宮八幡神社、県指定=昭和四十四年四月二十三日。
神社境内の樹そうの西南端、社務所の反対側に位置し、本幹は非常に短く、他の樹木にまぎれてあまり目立たないが、幹の周囲が二・五メートルにも及び、ボダイジュとしては全国屈指の大樹である。
本幹は地上約〇・三メートルばかりの部位で五本の支幹に分かれ支幹のうち最大のものは周囲八十一センチメートル,最小のものは四十三センチメートル。
樹高は目測一〇メートル程度に見られ、樹皮の状勢から見て樹勢は良好である。
古来より、数珠の原料となる植物が菩提樹といわれてきたので、その種類はいろいろあるが、当社のものはその中の代表的な種類で、シナノキ科中国原産の落葉高木で、高野山や比叡山など有名寺院の境内に植えられている。
当社のように神社境内にも見られるということは神仏混合時代の遺物ともいえるもので、当社の境内には旧時、明王院という別当寺があったという。
文献によると、ボダイジュの種を中国から伝えたのは僧の栄西で、後鳥羽天皇の建久元年(一一九〇)宗から天台山の菩提樹を一枝伝えたことに始まる。
太刀 銘備州 長船秀光 一口
(たち めいびしゅう おさふねひでみつ)
和歌山市有本 若宮八幡神社、国指定=大正二年四月十四日、身長七六・七センチ反り二・二センチ,南北朝時代。
至徳四年(以下不明)
附・糸巻太刀拵、太刀、南北朝時代、拵 江戸時代
将軍吉宗が、享保六年(一七二一)に若宮八幡神社に奉納した太刀。この年は紀州東照宮創建百年と頼宣(紀州藩初代藩主)の没後五十年目にあたる。刀身は鎬造り、板目肌、すぐは直刃互の目乱で、備州長船秀光が至徳四年、(一三八六)に作刀した優秀な太刀である。(「将軍吉宗とその時代展」より
当社は永享十一年(一四三九)鎌倉鶴が丘八幡宮の分霊を勧請したのが始まりといわれ、寛永十三年(一六三六)現在地に移されている。
この神社に伝来する本品は、鎬造、三ツ棟、鍛え板目、刃文直刀刃互の目乱備州長船秀光が至徳四年(一三八六)に作刀した優秀な太刀で享保六年(一七二一)に徳川吉宗より当社に寄進されたと思われる。
拵は糸巻太刀。秀光は基光の子といわれており、小反系とも考えられ、右衛門尉となのり、貞治から明徳頃にかけての作品が残っており、彼の作風は政光に似ているといわれる。