和歌山市の偉人・先人

和歌山市のプロフィール

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弘化元年(1844) 〜 明治30(1897)

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陸奥宗光は、弘化元年(1844)に紀州藩重役伊達千広の第6子として、現和歌山市吹上三丁目に生まれる。文久2(1862)に紀州藩を脱藩し、翌年、勝海舟の主宰する海軍塾に入り坂本竜馬と知己を得る。その後、竜馬と行動を共にし討幕運動に奔走する。
明治11年には立志社陰謀事件に連座して収監されるが、同16年出獄して外遊後、外交官として活躍する。21年にはワシントン在勤を命じられ、全権として日墨修好通商条約の調印に成功する。この日墨修好通商条約は、彼とロメロ駐米メキシコ公使との間で協議された条約で、近代日本国家が諸外国と締結した最初の平等条約であった。
すなわち、この条約が日本の国際社会における平等外交の始まりであると評することができる。
23年の第1回総選挙で和歌山第一区から出馬して当選、第二次伊藤博文内閣では外務大臣として不平等条約の改正に尽力し、同27年ロンドンで日英通商航海条約を調印する。これによって、治外法権撤廃と関税自主権の一部回復に成功する。
さらに、翌年下関で日清戦争講和条約調印全権団として臨み、日本で最初の対外戦争の戦後処理を行う。この調印直後、体調を崩し、以後大磯の別荘での療養生活を送る。陸奥宗光は、藩閥政府と揶揄される政府内にあって、紀州藩出身の官僚として不動の地位と多大な業績を残した。
明治30824日死去。浅草海禅寺で葬儀が行われ、同年11月、大阪夕陽丘に葬られる。
岡公園に、陸奥宗光の全身像が建っている。

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慶応 3(1867)〜 昭和16年(1941年)

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南方熊楠は、慶応3年(1867年)415日に和歌山城下橋丁で、金物商弥兵衛の次男として生まれる。雄小学(現和歌山市立雄湊小学校)、和歌山師範学校付属中学校を経て、明治16(1883)に上京し、共立学校を経て大学予備門(現東京大学)に入学する。同校退学後の同20年正月に渡米し、シカゴで地衣類学者カルキンスに師事して標本作成を学ぶ。
その後、キューバを経てイギリスに渡り、大英博物館で標本整理の仕事に従事しながら独学で粘菌類の研究を続ける。この間、科学誌『Nature』に寄稿し、明治33年に帰国後も研究を継続、計10回の論文を採用されている。彼は、粘菌の研究だけでなく、民俗・文学・歴史等の分野にも多くの論文を発表した。彼の学問領域は、それまでの枠を大きく打破したが、その広範な学識のため博物学者と評されている。帰国後しばらくして、田辺に居を構え植物の採集に熱中するが、同39年末に布告された「神社合祀令」による神社林いわゆる鎮守の森の伐採で植物が絶滅することや、それにより生態系が壊れることを憂い、環境保護運動ともいえる神社合祀反対運動に精力を傾注する。この後も彼が理想とする環境の在り方を訴えつつ、生涯市井の大学者として研究生活を送った。
彼は、官尊民卑の戦前において生涯を民間人として過ごしたが、その学識は無視しがたく、昭和4(1929)の昭和天皇和歌山県行幸に際しては、求められて進講を果たした。同16年萎縮腎のため75歳の生涯を閉じ、田辺市高山寺に埋葬された。
和歌山市は、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建てている。

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明治 23(1890)〜 昭和54年(1979年)

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國部ヤスヱは、明治23(1890)に海草郡野上村(現海南市)に、國部芳松の長女として生まれるが、同37年に和歌山市に移り住む。44年に日本赤十字和歌山病院看護婦養成所に入学し、大正3(1914)に卒業後同病院看護婦となる。同5年助産婦資格を取得し、8年には看護副長、10年には婦長心得、11年看護婦長に昇任する。
同病院が陸軍病院となって間もない昭和14(1939)、看護婦監督に就任し戦時体制下、看護部門の責任者として、看護管理と救護看護婦の養成に尽力した。特に、同2079日の和歌山大
空襲に際しては、同院が全焼する被害を受けながらも1200人近い患者・職員を無事避難させ、その指導力を高く評価される。
戦中・戦後を通じての献身的な看護活動が評価され、同26年国際赤十字委員会からフローレンス・ナイチンゲール記章を受章し、看護師最高の栄誉に輝いている。その後、同30年に黄綬褒章、40
年に勲5等瑞宝章を受ける。41年に同院を退職後も、2年余りに渡り無給嘱託として後進の指導にあたったが、5410月に89歳で死去する。死去に際して従六位が追贈されている。
フローレンス・ナイチンゲール記章は、1853年に勃発した英露間の国際紛争であるクリミア戦争にナイチンゲールが看護団を組織して従軍し、彼我の別なく負傷者を看護した博愛精神を称え、1920年に制定された記章である。第1回受章から平成15年まで94人の日本人看護師が受章しているが、國部ヤスヱは第13回の受章者であり、和歌山県民・市民としては初めての受章である。

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大正 9(1920) 〜 昭和20(1945)

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嶋清一は、大正9年(1920)に和歌山市小野町の米穀商嶋権次郎の長男として生まれる。昭和10(1935)、和歌山県立海草中等学校(現向陽高等学校)に入学し、野球部正選手に抜擢される。同12年の第23回全国中等学校優勝野球大会(夏の大会)では、初めて投手として登板し準決勝まで勝ち進む。
翌年の第24回大会では初戦敗退したが、同14年の第25回大会では、一回戦から決勝戦までの全試合(5試合)57奪三振という記録で完封勝利して全国優勝を飾った。全試合完封勝利は、大会史上初の快挙であるばかりか、その準決勝・決勝の2試合ではノーヒットノーランを達成している。なお、彼はこの大会では打者としても活躍し、5割を超える打率を残している。
昭和15年に明治大学に進学し東京六大学リーグで活躍したが、同18年に学徒動員によって海軍予備学生として出陣している。その後、同203月インドシナ半島沖の海戦で戦死する。弱冠25歳であった。
和歌山県は、全国高等学校野球選手権大会史上優勝回数は7回であり、全国2位の優勝回数を誇る野球王国である。その7回のうち6回が、和歌山市内の高等学校(中等学校)である。すなわち、和歌山市のアマチュア野球選手たちが、野球王国和歌山県を牽引してきたと評しても過言ではない。その中にあって、嶋選手の偉業は今も和歌山市民の心に金字塔として残っている。
それだけに、彼が戦争の犠牲になったことは慙愧に堪えない感がある。アマチュアスポーツは、平和な社会においてのみ成り立つものであるということを再認識する思いである。

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昭和 6(1931) 〜 昭和59年(1984年)

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有吉佐和子は、昭和6年(1931年)正月20日、和歌山市真砂丁(現吹上一丁目)に、父眞次の長女として生まれる。横浜正金銀行員の父の転勤に伴い、ジャカルタで日本人小学校に入学。同14年夏に一時帰国して木本村立木本小学校(現和歌山市立木本小学校)に通学するが、一年足らずでスラバヤ日本人学校に転出する。
敗戦直前に帰国後、東京で過ごすが昭和20年の東京大空襲後、静岡を経て和歌山に疎開し、二学期から和歌山県立和歌山高等女学校に転入する。
翌年末上京し、昭和24年東京女子大学文学部に入学。同26年に同大学短期大学部に移り、歌舞伎研究会に所属する。この頃から演劇を通じて文筆活動を開始し、31年に「地唄」が芥川賞候補になる。その後、34年に「紀ノ川」、37年に「助左衛門四代記」、38年に「有田川」、40年に「日高川」、41年に「華岡青洲の妻」と、彼女のふるさと和歌山を題材とした小説を発表する。紀州人らしい人々が、たおやかな紀州弁を話すこれらの物語は、戦後小説において新しい価値観を与えたものとして評価されている。
さらに、後年の47年「恍惚の人」、50年「複合汚染」等の作品は、高度経済成長下の弱者に焦点を当てた社会派作品として評価されている。
小説だけでなく、ルポルタージュや演劇の脚本・ 演出等幅広い活動を続け、いずれの分野においても高い評価を受けたが、昭和59年に53歳の若さで急性心不全のため不帰の人となった。

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嘉永 4(1851) 〜 大正 5年(1916年)

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山葉寅楠は、嘉永4(1851)420日、紀州徳川藩士山葉孝之助の三男として紀伊国和歌山城下に生まれる。父親が藩の天体観測や土地測量を司る天文係であったことより幼少の頃より機械等に触れる機会に恵まれていた。
明治維新後天分の才を生かすため、明治4(1871)時計職人を志して長崎に赴き高度な修理技術を習得しさらに医療器械にも精通する。同17年浜松に医療器械の修理技術者として移り住み、3年後の20(1887)修理を依頼されたことからはじめてオルガンに出会う。近代化を推し進める日本において学校教育は最重要課題であり、新しく設けられた教科の「唱歌」にはオルガンは不可欠なものであったが、当時オルガンは舶来物であり普通学校で汎用するにはあまりに高価であった。輸入にたよらない国内生産こそが日本の国益であることを確信しオルガン製作に取り組む。艱難辛苦の末舶来品をしのぐ国産オルガンの製作に成功し、同21年(1888年)山葉風琴製造所を構え東南アジアへオルガンを輸出するまでに成長。30年日本楽器製造株式会社を設立し、初代社長に就任した後はピアノの国産化を目指し、32年視察のため渡米。35年グランドピアノを完成。同年3月緑綬褒章を受ける。37(1904)には米国セントルイス万国博覧会でピアノとオルガンに名誉大牌賞が授与、清国皇帝より四等双龍実章が下賜された。大正5(1916)88日に65歳で逝去。
「ヤマハ株式会社」の本社には一枚の青銅版のレリーフが保存されている。東京まで250kmの道のりを自作のオルガンを脚絆にわらじ履きで担って運ぶ創業者「山葉寅楠」を描いたものである。困難に屈せず輸入品と遜色のない廉価な国産オルガンを製造し国内の汎用だけではなく広く外国に輸出した西洋楽器製造の先駆者としての生涯は、まさに「楽器王」にふさわしい。

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明治 11(1878) 〜 昭和 39年(1964年)


由良浅次郎は、明治11(1878)117日に和歌山市本町九丁目に紀州ネル染色創業者「日高屋」由良儀兵衛の五男として生まれる。同38年大阪高等工業学校色染科(現大阪大学工学部)を卒業し、捺染加工業「由良浅染工所」を自営する。大正3(1914)第一次世界大戦の勃発によりドイツからの染料の輸入が途絶え日本の染料業界が存亡の危機に陥ったことから、染料の主原料である「アニリン」の製造を決意し試行錯誤の末国内ではじめての製品化に成功する。続いて当時医療界で欠乏していた石炭酸(フェノール)の製造を実現した。これらを基礎に大正6(1917)2月由良染料株式会社を設立し、同年12月には化学工業博覧会のコールタール染料の部で「金賞牌」を受賞し、日本の化学工業界を主導する企業として広く認知され和歌山の染料工業は急速な発展を遂げた。第二次世界大戦中は、爆薬の原材であるピクリン酸を国へ納入するとともに戦闘機20数機を国に献納した。一方、現県立和歌山工業高等学校の前身である県立和歌山工業学校と県立西浜工業学校の整備に尽力し、多くの工業技術者を育成するとともに、女子教育を目的として現在の市立明和中学校の位置にあった県立文教高等女学校設立のための敷地及び校舎建設資金を提供する等、教育にも物心両面にわたり大きく寄与した。昭和27(1952)由良精工株式会社を設立し、30年には商号を本州化学工業株式会社に変更した。同36(1961)多年産業界に尽力した功績により藍綬褒章を授与される。昭和39(1964)31486歳にて死去。同年4月従五位勲四等瑞宝章を受章する。

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明治 25(1892) 〜 大正 14年(1925年)

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高橋克己は、明治25(1892)39日、海草郡木本村(現和歌山市)に生まれる。
大正3(1914)東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学。同6年同大学院に進み、鈴木梅太郎教授のもと油脂成分の研究に取り組む。卒業後、財団法人理化学研究所でさらに研究を進め世界ではじめてビタミンAをタラの肝油から分離抽出することに成功した。当時動物の成長を促すビタミンAがバターや肝油に大量に含まれていることは知られていたが、分離抽出の方法が見つかっていなかったため、大正11(1922)の日本化学会での発表は学界の賞賛を浴びた。さらに、ビタミンAの性質や生理作用についても研究を重ね多くの病気(特に夜盲症や肺結核等)の治療に効果があることを発見し、「理研ビタミン」の名称で栄養剤として商品化した。この「理研ビタミン」は現在では想像できないほど栄養状態の悪かった当時の日本人には大きな福音となった。また、日本はもとより欧米各国にわたる「理研ビタミン」の特許権は、理化学研究所にも大きな収益をもたらした。
大正13(1924)ビタミンAに関する業績により鈴木梅太郎とともに帝国学士院賞が授与され、賞金は彼の意志により母校である旧制和歌山中学校(現県立桐蔭高校)に全額寄附された。同校ではこれを基金として「高橋賞」を設け、大正15(1926)から昭和20(1945)に至る間、理化学の成績優秀な生徒に授与された。大正14(1925)農学博士の学位が授与されるが、8日後の28日、病のため逝去。弱冠32歳であった。
昭和44年(1969年)、高橋克己博士顕彰会により和歌山市岡公園内に頌徳碑が、翌年生家門前に生誕地碑が建立されている。

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明治 33(1900) 〜 平成 2年(1990年)

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ヘンリー杉本(日本名 杉本 謙)は、明治33(1900)312日、海草郡湊村(現和歌山市湊)に生まれる。
旧制和歌山中学校(現県立桐蔭高校)修業後、19歳で両親が住む米国に渡った。農業に従事したが、後に画家を志しカリフォルニア州オークランド芸術大学を卒業し同州美術学校油絵科を修了。1929年パリに留学し新人の登竜門であるサロン・ドートンヌに入選する。1932年帰米し、サンフランシスコ世界博覧会美術展で金賞を受賞する等めざましい活躍を繰り広げた。しかし、1941年の日米開戦により日系人強制収容が始まり、彼もまたカルフォルニア州フレズノ集合センターからアーカンソー州ジェローム収容所を経て同州ロワー収容所に送られた。収容所時代密かに持ち込んだ絵筆の穂先3本と数個の絵の具によりシーツをカンバスにして日々の生活を描いた一連の絵画は、戦後、アメリカで日系人強制収容所の歴史的記録として注目を浴びた。昭和39(1964)二科会会員に推挙され高い評価を受けていた杉本ではあるが、ようやくこれらの絵画が祖国日本で公開されたのは戦後35年経た昭和55年(1980年)のことであった。同56年(1981年)に勲六等単光旭日章、57年に和歌山市文化賞を受賞する。1990年ニューヨークにて90歳で逝去。
優れた画家であり物語性の強い絵を描く稀有な才能を併せ持ったヘンリー杉本が制作した入魂の収容所絵画は、米国スミソニアン博物館や東京国立近代美術館に永久保存されている。そして、こよなく故郷を愛した彼の意志により和歌山市には大壁画(2×8メートル)36点の絵画、18点のスケッチが寄贈された。昭和52 (1977)以来市庁舎玄関ロビー正面を飾る大壁画は、まさに「故郷への錦」となって訪れる人を静かに見守っている。

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大正 4(1915) 〜 平成 8年(1996年)

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石桁眞禮生は、大正4(1915)1126日、和歌山市に石桁雅五郎氏の五男として生まれる。和歌山師範付属小学校の頃より兄姉とともにピアノに親しむ。同師範学校に進んだ頃には作曲家への志を抱き、東京音楽学校出身で後に同校教授となる下総皖一(1898-1962)に師事する。卒業後上京して東京音楽学校(現東京芸術大学)へ進学する。昭和13年(1938年)同校を卒業して後福井師範学校で教鞭を執りながら作曲に励み、18年日本国内で最も権威と伝統のある音楽コンクールの一つであり音楽界の登竜門である「第12回日本音楽コンクール」に「小交響曲」が入選。
終戦後上京し昭和21(1946)より母校の教壇に立つかたわら、22年作曲グループ「新声会」に属して團伊玖磨、中田喜直らとともに活発な創作活動を開始した。同27(1952)NHK管弦楽曲懸賞に「管弦楽のための組曲」が第1位入賞する。29年二期会の委嘱によるオペレッタ「河童譚」や俳優座の柿落とし公演のための「女の平和」等の劇音楽作品を書いて以降、活動の中心は舞台作品へと移行し、31年には三島由紀夫の近代能楽集によるオペラ「卒塔婆小町」等の歌劇や三好達治の散文詩による歌曲「鴉」により劇的声楽曲としての独自の歌曲の世界を確立していった。また邦楽器作品に関しても、昭和26(1951)の「箏のための協奏三章」、同45(1970)の箏・鼓・尺八による「無依の咏」等先駆的な作曲を行った。昭和43(1968)から58年の間東京芸術大学音楽学部教授を、同49(1974)から53年には同大学音楽学部長を務め、音楽教育界にも指導的な役割を果たした。昭和49(1974)和歌山県文化賞受賞、58年紫綬褒章、63年勲二等瑞宝章受章。平成2(1990)毎日芸術賞受賞。
平成8(1996)82280歳にて逝去。