稲畑宗太郎焼 元亀2年(1571年)に宗太郎という人物が赤井粘土(斯界の識者は 日本一の土と評している)をこの地で発見し茶壷を作る。これが世に 「宗太郎焼」として一時隆盛を極めるが、この一代で絶える。 所謂、古丹波焼の一種という説もある。
赤井煉人形(稲畑人形) 安政2年(1855年)赤井若太郎が伏見より人形勝という職工を雇い、 赤井粘土を使って人形を造る。文久・元治(1861年〜1865年)の頃 は最も盛んであったが、明治維新後は衰退し、今は一人のみが製作し ている。
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