Way 道

They go on each way. (それぞれの道を行く)

お父さんへ
次の日曜日、駅前の喫茶店でお茶しませんか?

木曜日の夕方頃、私の元に娘からそんなメールが届いた。
久しぶりに会ったあの日は喜びと勢いがあったのか会えなかった時間をそれほど感じさせることもないようなやり取りだったけれども、その後は言葉に微妙な距離がある気がする。かといって、メールが素っ気ないということはない。
この前、芽実のいう"駅前"の"駅"で彼女と久しぶりに──もうあれから十年以上も経つのだ──はたと居合わせて、その時に携帯電話の電話番号とメールアドレスを交換した。聞くところによると以前にも街で見かけたことがあるらしい。
それならこの前と同じように声を掛けてくれればよかったのにと言うと、少し決まりの悪そうな顔をして俯いてしまったので、それ以上は何も言わなかった。恐らくは彼女にも何か思うところがあったのだろう。
駅前で偶然会って以来、二、三のメールのやり取りはあったものの直接会うことはなかった。恐らく毎日同じ駅を利用しているのだろうが、そこで見かけることもなかった。つまり、あの日駅で会えたことは本当にたまたまなのだろう。
私が少し遠くの料理店で瑞希に結婚を申し込んだり、芽実がサークルの飲み会で遅くなったりしていなければ会うこともなかったのかもしれない。
そう思うと今こうして彼女とメールしていることも不思議なことのように思える。
今思えば、あの日の勢いはただ嬉しかったということだけではなくて、お酒のせいでもあるのかもしれない。メールの文面よりあの時の言動の方が本音なのだと思えば、幾分か気が楽になる。そうだといいのだけども。
彼女とは十年以上前に以前の妻と別れて以来だった。何時頃からその仲が険悪になったのか今となっては思い出せないが、そういう状況になって前妻と別れようという話になった時、親権裁判を起こすに至って私はそこで負けてしまった。
その後調停では定期的に芽実と会うということになっていたのだけども、前妻にはそれを反故にされていた。その喪失感からようやく回復しようという頃に出会ったのが瑞希で、その頃にはもう芽実と会えるとも思っていなかった。ただ何処かで健やかにしていてくれればいいというだけだった。
それがこうして会えて、しかも彼女からまた会おうと言ってくれている。その状況が嬉しくないはずがなかった。定時過ぎの社内で歓喜して声をあげたことは人には言えない秘密である。

日曜日。
仕事も予定もなく一人暮らしを持て余すつもりだった日、私はあの駅前へと出向いていた。この駅の周辺には様々なお店が構えているが、駅に向かって建っている喫茶店は一つだけだった。ビルのテナントとしてはこの駅周辺で一等地と思われるそこに、その喫茶店はひっそりと構えている。派手でもひけらかすでもない落ちついた木目調の外装に小さく書かれた店名。今日もそのお店は以前と変わらずそこにあった。入口に立てかけられた看板にはその日のお勧めが書かれている。
約束の時間より十分ほど早くそのドアを開ける。ジャズの優しく流れる店内に清涼感のある鐘の音が静かに響いた。
マスターという言葉の似合う馴染みの店主と目が合って微笑みを投げかけられる。それに応じてから店内を見渡すと、店の奥の席で私に手招きをしている芽実が目に入った。ピンクを基調としたフリルのついたワンピースに赤いハイヒール。それはどう見てもおめかししたよそ行きの恰好だった。
私は彼女の手に導かれて、その向かいに座る。そのテーブルは二人がけの小さなもので、彼女の前には一杯のコーヒーが置かれていた。ドリップの蓋とシュガーの口は開いていて、私はそれに少し安心する。
「早いな」
当然余裕を持って着いたつもりだった。
「ううん。私もさっき着いたところだから」
そう言う彼女の前にあるコーヒーはもう半ばほどまで減っていた。それだけここで待っていたということだろう。
それは、彼女にとってここでこうして会うことがそれだけの重みがあるということ。加えて気を遣ってもくれているのだ、嬉しくないはずがなかった。
それから少し間があって、そこへウエイターさんが注文を訊きに入った。いつものと言えば通じるけれども、私は少しだけ迷ってからブレンドコーヒーと頼んだ。
そうして彼女を見遣って首を軽く縦へ振るのを受けてから、ウエイターさんに首肯して注文の終わりを告げた。
「ここへはよく来るの?」
下手にここを意識させることに抵抗を感じて悟られまいと思ったのだけど、そうも上手くはいかないらしい。
「ああ。暇を持て余した時に、時々。芽実は?」
「えっ、私?私も帰りとかに時々寄るよ」
「すると、もしかしたら会っていたかもしれないな」
「……うん」
少し目を伏せてそう言う。以前にも見かけたというのはもしかしてここでのことなんだろうか。だとしたら、この話題は避けた方がいいのかもしれない。思い返しても、見られて気まずいことがここであった気はしないのだけど。
「それより、大学の方はどうなんだ?」
「楽しいよ。色んな府県に住んでいる人に出会えたり、色んな場所に行けたり──
そうして彼女は先ほどと打って変わって大学のことを嬉々として話し始めた。受験のこと、学生生活のこと、学科での勉強のこと、サークル活動のこと、一人暮らしのこと。新しくできた友達のことに、少し躊躇いながら──できた彼氏のこと。
もちろんそれに妬かない理由はなかったけれど、それよりも寧ろもうこんなにも大きくなっていたのだということが嬉しくもあり恥ずかしくもあり悔しくもあった。彼女がそれだけの変化を持つまでに至った時間に私はいなかったのだと改めて思い知らされる。
芽実と最後に会ったのは十年以上前。彼女が小学校に入って最初の冬だった。その時私の口から直接彼女に別れることを説明したことはない。きっと芽実には何も言わずに去っていってしまったと映っていたのだろうと思う。私と彼女を合わせもしなかったあの人が事の事情をちゃんと説明したとも思えない。
でも、十数年ぶりだというのに彼女は私のことを私だと分かっていた。もしかすると芽実はあの人には内緒で写真か何かを取っておいたのかもしれない。これがその上でようやく会えたものだとしたら──。
「お父さん?」
呼ばれて見上げると、芽実が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。そうして徐に脇に置いたカバンからハンカチを取り出して私に差し出してくる。
「……?」
「もう、何で泣いてるの」
苦笑いしながら、彼女は差し出したハンカチを更に私に近付けてくる。私はほんの少しだけ迷ってからピンクのそれを手に取る。
「ちょっと、な」
会えなくなったことを認めた私と、ずっと会えると信じてきた芽実。どちらの方が会えなかったことが悲しかったのかなんて馬鹿なことを考えて。
この涙を拭っても、諦めていた私に泣くような資格なんてないんじゃないかと思えて、尚も涙は止めどなく溢れてくるのだった。

ようやく落ちついた頃。
娘を前にして涙を見せるつもりなんてなかったのにと今更ながら思い、少しだけ後悔する。こんな父親を娘はどう思っているのだろうと思い巡らしながら、一つ提案する。
「少し外を歩かないか?」
「うん」
芽実は微笑みながらそう返す。その笑顔が眩しくて敵わない。
テーブルの上に置かれた伝票を手にとって席を立つ。彼女が椅子から離れるのを見てから、レジの方へと向かう。彼女は私の隣に並んで歩く。
「ごちそうさま」
「どう致しまして」
レジで馴染みの店員さんに会計と挨拶を済ませてからお店の戸口へと向かう。自動ドアの前に立ってドアが開くとちょうど別の人がお店の中へ入って来るところだった。軽く横へ退きながら、何気なくその顔を見上げる。
そこにいたのは、瑞希だった。
「康隆さん……」
彼女は私の姿を認めるなり、私と芽実とを交互に見て、みるみる青ざめてゆく。その足が半歩下がって今にも駆けださんとする寸前のところで思わず呼び止める。
「瑞希!」
彼女が呼ばれたことにビクついて後ずさろうとするのを、腕をつかんで引き止める。
「彼女は、俺の娘だから」
言われて、瑞希は私の目を訝しげに見て、それから茫然としている芽実を見た。
「ひとまず、場所を変えよう……」
そう言って、私は振り返ってマスターに軽く会釈をしてからその喫茶店を後にした。

駅から幾らか離れたファーストフード店のフードコート。四人がけのテーブルに私の正面が芽実、右隣が瑞希という形で座っていた。
芽実は不思議そうな顔をして瑞希を眺めていて、瑞希は私を見つめていた。
「彼女が俺の娘の芽実。で、彼女は婚約者の瑞希さん」
「えと、初めまして」
「……初めまして」
芽実はやや緊張しながら、瑞希はむすっとしてそう言った。瑞希の不機嫌は恐らく芽実に当てられたものではなく私に対するものだろうが、それにしても……。
「離婚していたとは聞いていたけれど、娘さんがいるなんて初耳だわ」
瑞希は先ほどよりも語気を強めて私に耳打ちする。
「……芽実とは、もう逢えないと思っていたんだ。それがこの間ここの駅前でばったり逢って、今日改めて会おうって」
「そう。でも、そういうことはちゃんと私に言ってね」
そう言うと彼女は私の耳元から離れていった。それから芽実へと向き直って、
「私は継母(けいぼ)ということになるのかな。よろしくね」
先ほどとは全く違う表情でそう言う。あれだけの説明で合点がいったとは思えないけれども。
「こちらこそ。その、父を宜しくお願いします」
そうやって娘に言われるのは気恥ずかしかった。確かに二人がこれから会うこともそうないだろうし、こんな時でもなければ言えないことだろうけど。
「うん。それじゃあ邪魔するのも悪いし、私は失礼するね」
瑞希は芽実に微笑みながらそう言って、席を立つ。
「また、連絡するから」
私がそう言うと彼女は振り返って、
「待ってるね」
そう言う彼女は笑ってはいたが、しかし目だけはそうではなかった。つまり、納得したわけではなく、ただ芽実を過度に意識しなくても済むのだと分かったということだったのだろう。私は未だ娘がいるのだと明らかにしなかったことを彼女に許されたわけではないということか……。
そうして、瑞希は私たちに背を向けて落ちついた様子で店を出て行った。普段通りの彼女で。それが逆に恐ろしくもある。
「……綺麗な人だね」
娘は一言そう評する。長らく付き合ってきた私から見てもそうだと思う。酸いも甘いも知っていても。
「何時頃結婚する予定なの?」
「これからそういう話をするつもり」
「そう。とりあえず、おめでとうって、言っておこうかな」
首を少し傾げて笑顔で言う。自分の娘ながら親バカだと言われるかもしれないけれど、その仕草は可愛かった。
「ありがとう」
言いながら自分がにやついているのが分かる。これは果たして瑞希と結婚することに対してなのだろうか、それを自分の娘から祝福されることに対してなのだろうか。それとも。娘がこうも可愛くなったことに対してなのだろうか。
そのいずれであったとしても。それ以外の何かであったとしても。この状況が幸せでないはずがなかった。

それからお店を出てしばらく街中をぶらぶらと歩いた。最近お互いにどうしているのかだとか、私が瑞希とどう知り合ったのかだとか、あれから私がどうしていたのかだとか。そういう話をしていても依然としてあの人のことは話題に上らなかった。
私とて、気にならない訳ではない。ただ、この期に及んで──瑞希と結婚するという話をするに至ってまで、あの人のことを芽実に訊くなんておかしい。問えば芽実にそう思われるだろうし、私もそう思っていた。彼女がこうして大学生としてここにいる限り、恐らくは健在なのだろう。そういう推測くらいしかできない。
ただ、そこで私はそのことを喜べばいいのかどうか、それもまた悩ましかった。
そんな逡巡をしているまま、陽は早々に落ちてゆく。空がうっすらと赤く染まり、お互いに時間を気にし出す頃合い、私たちはあの日別れたコンビニの前まで来ていた。
「私はこっちだから」
「うん」
「それじゃあ、ばいばい」
言うが早いか、芽実は私に背を向けて歩いてゆく。小風にひらひらと揺れるピンクのワンピースと陽を映す黒髪が眩しかった。
「またな」
その背にそう投げ掛ける。彼女はそれに振り向くことなく軽く手を掲げるだけだった。
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