Vacation 休暇

A story in certain summer vacation(とある夏休みの物語)

【今暇?】
今年もこのメールがやってきた。気付けば小学校の頃も、この時期になるとそんな内容の電話が掛かってきていた。
用件は分かっている。また"宿題を見せて欲しい"だ。
今日は八月三十一日、つまり夏休み最終日である。もはやこれが来なければ終わった気になれないと言っても過言ではないかもしれない。
【はいはい。早くおいで】
軽くあしらうような返事を送ると、すかさず返信が来た。
【恩に着る!】
携帯の画面に浮かぶ文字が僅かにぶれた。軽くため息をついて、携帯を閉じる。
掛かるイルカとオルカのストラップが当たって、音がした。それが静かな部屋に響く。
私は携帯をベッドの上に無造作に放り投げて、来る人のために既に片付いた宿題を再び広げた。
──ピンポーン──
私以外誰もいない家に、ドアフォンの音が響く。部屋を出て静かに階段を下りる最中、その目に映ったのは代わり映えのしない姿だった。
「よっ」
「今年も手付かず?」
まるで定型的な挨拶でもするかのように尋ねる。
「もちろん」
胸を張って自信満々に答えられても困る。毎度毎度のことではあるけど。
「とりあえず、上がれば?」
「そうだな……」
彼にそう言って、私は振り返り階段を上る。後ろに、彼の気配と同じく階段を上る音がする。
「来年も来るの?」
「ああ」
何の迷いもなく彼は答えた。全く、どうしようもないやつだ。これで勉強がそれなりにできるのだから、余計に性質が悪い。
できるなら自分でやれ。もはやそんな言葉さえ掛け飽きた。小学校のときからずっと言い続けて、ついには何も言わなくなった。
ちなみに彼は冬にも春にも来る。もう好きにしてくれればいいと、そう思っている。
「なぁ……」
後ろを歩く彼が声を掛ける。
「どうしたの?」
「……いや、やっぱりいいや」
そうして少しだけ軽くなった気のする足音は、いつの間にか私のそれと重なっていた。
部屋のドアを開けて、彼を中へと促す。時々やってくる彼にしてみれば見慣れた──私にしてみれば見飽きた部屋は、床に適度に物が散乱していた。
「相変わらずだな」
丸いクッションに腰を下ろした彼が部屋を見渡してぼやく。あんたにだけは言われたくないと思いつつ、
「奇麗過ぎても落ち着かないからね」
などと、自分の不精を正当化する。
「まあな……」
それを分かっているのか、彼はそれ以上何も言わなかった。
持ってきた宿題を静かに出して、私が用意した"完了済みの"宿題を写し始める。私は窓を開けて潮風を部屋へ招き入れてから、ベッドの上で横になって、そんな彼の後姿を眺める。
これが夏休み最後の日のいつもの過ごし方だった。私の宿題は、順調に写されていった。
とまれ、今日中に全ての宿題を写し終わることは無理だろう。そこをあいつは提出期限の早いものを見切って写していた。そんなことに頭を使うくらいなら、順当に宿題を終わらせるべきではないだろうか。今更、そんなことを言っても手遅れだろうけど。
一科目を終えて軽く背伸びをした彼は、後ろのベッドで寝そべって本を読んでいた私へと振り返る。振り返って、ただ私を見ていた。その視線を恥ずかしく感じていながらも、私はそれに気付いていないかのように振舞っていた。
そんな時間(とき)がいくら続いただろうか。既に本の内容なんて頭に入って来てはいなかった。熱い視線と熱い頬、ぼんやりとする頭……、それでも振り払えない何か。そこを微かに潮風が撫でて通るも、気休め程度でしかなかった。
「……なぁ」
「な、何よ?」
ようやく間を破った彼の言葉。そして動揺を隠せない私の声。いずれにしても、頼りないものだった。
「いや……」
まだそんなことを言う。私は強いて何もなかったかのようにページをめくる。それでも尚、彼の視線が私を捉える。
「……」
それでいて何も言えない彼と、それに怒り出すことすらできない私がいた。
既に目の前にある本はただ文字の羅列となり、机の上にある宿題はただ冊子の積み重ねとなっていた。
自分の視線が僅かに泳いでいることがわかる。ここにある本と私を見続ける瞳との間を、行き来しそうで、しない。
彼の方へと向いてしまえば何かが変わる……。その変化が怖かったのだ。
ふと、彼が私から視線を外したような気がした。それにつられてか、私は思わず彼の目を追ってしまう。
そして彼と目が、合った。
「「……あっ」」
一瞬の緊張と恥じらい、喜び、そしてその次に訪れる後悔。視線の先の彼、その瞳の中には私がいた。
ここで蛇にでも睨まれたかのように身動きの取れない、私が。
黒にほんの少しだけ僅かな白を加えたかのような色の中に、鮮やかな私の姿があった。
「「……その」」
再び声が重なる。その恥ずかしさに思わず視線を逸らす。
「……ごめん」
しばらくして未だ私が視界の中に入れることさえ叶わない彼は、何故か謝っていた。
「う、うん……」
そうして私は、それに対してただ頷くことしかできなかった。
「そっ、それより宿題写さなくていいのっ?」
「えっ、ああ、そうだったな!」
ようやく机に向かった彼は、慌てた様子で次の宿題を開く。
はぁ……。
心中でため息をつき、それが安堵感と共に一抹の寂寥感をもっていることに少し心が痛む。
彼の言いたいことも分かる。そして私が抱く気持ちも彼は分かっているだろう。それでも、ここから一向に進めていなかった。
こんな状況と、彼と私がいじらしい。分かっていながら、お互い口に出せずにいる。
それでいて尚、彼の後姿を見て得られるほんわかとした心地よい程度の頬の温かみを手放せずにいる。何時からだろう、この感覚と彼が愛おしく、毎度やってくることを拒めなくなってしまったのは。
彼は、私にとっていわば腐れ縁のような存在だった。今になってみても、いつ彼と知り合ったのか思い出せないが、少なくとも保育園に通っているときには既に彼がいた。
当時から彼は自堕落な性格で、今となってもそれは変わりない。そのくせ、やることはしっかりとしているから、抜け目のないやつだった。そこには様々な驚きと共に、まるで裏返したかのような気の利かせ方があった。思えば、幼いながらにませた性格をしていたものだ。もっとも、今でさえそうであるのだろうが。
しかしながら、私の前ではまるでなっていない。あんな風に、言いたいことすら言えない、情けないやつになる(私が言えたことではないけども)。
……ただ、そんなところがまた愛おしい。
他には見せない彼の一面を私だけが知っているような軽い優越感と共に、だからこそ必要とされているという束縛感があって、心地よいのかもしれない。
ずっとこのままでいたい。そんな気持ちが、焦燥感と拮抗していた。
私は再び、ベッドの上で本を読みながら、机へ向かっている彼の背を時々眺めていた。
目の前にある本に意識を集中させることができない情けなさと、こうして背中を眺めることしかできない苛立たしさを感じながら、ページをめくる。勿論、本の内容は読めているにしても頭に入ってきてはいなかった。ただ通り抜ける情報としてのみ扱われて、それ自身が何か意味を為すことはなかった。
彼はいつの間にか三科目目に取り掛かっているらしい。机の横には積まれた完了済みの課題があり、私のものと彼のものが交互に重なっていた。
いつもながらのその光景に一端の安堵を感じて、鉛筆の走る音だけが響く世界からより静かな場所へ次第に落ちていくのだった。
──ちゃん、そろそろ起きろよ」
彼に揺すられて目覚めると、未だにすっきりとしない視界に、目の前にある彼の顔がぼんやりと入ってきた。
「ん……、あれっ?いつの間に……?」
「さあな。気付いたら寝てたぞ?」
「そう……、ありがとう」
確か、彼が三科目目まで手をつけたことは覚えている。それから、寝てしまったのだろうか。
そして気付けば、この有様。この……、有様……?目の前にいる彼に起こされてしまう有様……?
彼に、この近距離で、寝顔を!?
私はその思わぬ状況に驚いて、思わず飛び起きる。どさっと、本の落ちる音がしたような気がするが、今の私にはそんなことなど関係ない。
ただ、彼に寝顔を──しかも近距離で──見られたことに対する驚きと恥ずかしさが相まって、パニックになっていたのだ!
「何、どうしたんだよ!?」
「起きたら、近くで、急に、寝顔が!」
そんな支離滅裂な台詞を吐きながら、形振り構わず、上を下への大騒ぎだった。
それから、一体何をどうしたのか覚えてはいなかったが、気がついたときにはただでさえ散らかっていた部屋が余計に汚くなっていた。
「はぁ……、はぁ……、もう、落ち着いたか?」
「う、うん……」
目の前の彼は、肩で息をしていて、少しやつれたようにさえ見えた。
「それは、よかった……」
そう言うと、彼はその場にへたりと座り込んでしまった。
「あっ。その、ごめん」
「いや、俺こそ、気付かなくてごめん……」
私は、何故だか身体から力が抜けて、ベッドへ腰掛けた。冷静に考えれば、なんということはない、幼い頃は寝顔なんていくらでも見せてきた。
ただ最近は……、いや、やっぱり、恥ずかしいか。
「……あのさ」
呼ばれて顔を向けると、彼は至って真面目な表情で私を見ていた。
「突然だけど、これからまたあのウミホタルを見に行かないか?」
「これから?」
窓の外を見ると、いつの間にか随分と暗くなっていた。今がちょうど見に行く頃合だろう。
「ああ……、こうして終わったら見に行こうと思って準備してきたんだが……」
そう言って、彼は持ってきた手提げかばんから少し大きめのビンを取り出す。
「その、ずっと言おうと思ってたんだけど、言い出せなくって」
つまり、さっきからのあれは、そういうことだったのだ。
「うん、いいよ。そういうことなら、早く行こう」
私は座っていたベッドから立ち上がって、クローゼットから薄手のカーディガンを取り出す。部屋の入り口で待つ彼を追うようにして、私は彼と夜の海へ向かったのだった。
海から帰ってきて、夕食をとり、お風呂に入り、いざ寝ようと思って部屋へと入ったとき、その目に飛び込んできたのは、二人分の夏休みの宿題だった。
そういえばこれをあいつがしまっているところを見た覚えがない。
【うちに宿題忘れてるよ?】
メールを送信して再び携帯を放り投げる。ベッドの上を僅かに弾んで落ち着いた携帯は、数十秒の後に返信が来た。
【ごめん。明日一緒に学校へ持ってきて】
もう、まったく、しかたないなぁ……。
【いいよ。でも今度、買い物に付き合ってね。それとついでに、映画も。二人っきりで】
これでよし、と。
タイトル
小説
トップ